梵天ニ咲ク
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
せわしなく書類の束を振り分けている長髪の男を横で見下ろしながら、莉乃はじっと立ち尽くしていた。
微動だにしないまま立ち続けて五分。
つまり、刈り上げの側頭部に入った梵天の刺青を見つめ続けて五分が経過していた。
反対に、書類の束を振り分ける男は椅子に座ったまま莉乃の存在を無視して作業を続けている。
「あ、あの」
「却下」
「で、でも」
「無理」
続きを口にさせてもらえないほど、かぶせて否定の言葉を浴びせられる。
九井一。通称ココ。
梵天の幹部として金銭面を管理する彼に、莉乃はどうしても頼みたいことがあった。
「そんな顔で見ても無理なものは無理」
振り分け終えた書類から顔をあげて、ココは莉乃を見上げてくる。
そんな顔、とはどんな顔だろうか。
困ったように首をかしげてみれば、「はぁ」とわかりやすくココはため息を吐いて手を差し出してくれた。
「ありがとうございます」
「いや、まだ出すとは言ってない」
「……そんな」
請求書を受け取ってくれたのだから、てっきり経費で精算してくれると思ったのに、どうやら違ったらしい。
「何を買ったのか確認したかっただけ」だというココは、莉乃の手から受け取った請求書の金額と購入物を見て「ご苦労さん」と用紙を突き返してきた。
「こっ、困ります」
「なにが?」
「だって、蘭さんにお仕置きされちゃう」
「されれば?」
「ココさん、ひどい。経費で落ちるって言うから買ったんですよ?」
「職場にキングサイズのベッドはいらねぇだろ」
「でも、竜胆くんは大丈夫って」
「何をもって大丈夫かは知らねぇけど、すぐに返品するんだな」
要件は終わったといわんばかりに、ココは目の前の書類に意識を戻してしまった。
こうなれば本当に払ってくれないことを知っている。無理だと思っていたが、やはり無理だったかと自分の中ではココの意見に納得していた。
それもそうだ。
用途「仮眠」に、三桁を超えるキングサイズのベッドが経費で落ちるなんて、そんな馬鹿な話があるわけがない。
「むしろなんで落ちると思った?」
可哀想な子を見るような目で尋ねられて、ぐうの音も出ないとはこのこと。
莉乃の頭の中には、爆笑している美形兄弟と、馬鹿にしてくるピンク頭の顔が浮かんでいた。
「え、ベッドですか?」
広さだけが取り柄のオフィスに何か物足りないと、灰谷兄弟が零した愚痴に莉乃はイヤな予感がした。
あれはそう、遡ること昨日の午後。時計の針は午後の三時を示していた。
最近新設したという何かよくわからない事業のオフィスにあるのは、莉乃が座る受付用のデスクと椅子。会議用の円卓と椅子、応接用の無駄にでかいソファとローテーブル、あとは接待用のサーバーや給茶機等のオシャレキッチン。それといつ使用するのかわからないベッドルームとシャワールーム。
今回、ココに請求したキングサイズのベッドはこのベッドルームに納品されたのだが、昨日のこの時点ではまだ殺風景な床と壁紙だけの部屋だった。
「莉乃、おいでー」
「え、なんでですか?」
「いいからこい」
もはや日常になりつつある灰谷兄弟の突撃来訪により、コーヒーを入れて運んできたところで、両手を広げながら笑顔で言われる圧がすごい。ソファは向かい合わせであるのだから向かい合って座ればいいのに、灰谷兄弟の狂った距離感は当たり前のように隣に腰かけ、挙句その中央に莉乃を招こうとしている。
「あれ、莉乃は飲まねぇの?」
結局逆らえずに素直に中央に収まった莉乃の髪の毛を弄びながら、左隣の蘭が首をかしげる。
「いや、そもそも座る予定なかったですし、仕事中ですし」
なんて口にしようものなら、何をされるかわからないので、そこは曖昧に笑ってごまかしておいた。
「自分の分を忘れちゃった莉乃ちゃんには、蘭ちゃんからこれあげようなぁ」
「……いらない、です」
「いいから飲めー、水分補給は大事だぞ?」
そう言われて素直に飲んだ三日前。
数秒で意識が飛んで、気が付いたら全裸になっていたのだから驚きである。竜胆曰く、「なんだか熱い」と自分から服を脱いで、蘭や竜胆のうえにまたがったらしいのだが、未遂とはいえ消したい記憶の上位を独占している。
正気に戻るなり全身真っ赤にして叫んだ莉乃を見て、大爆笑という羞恥を与えてきた二人を実質まだ許していない。
「おい、莉乃いるかぁ?」
バンッとドアが蹴破られる勢いで姿を見せたピンク頭に立ち上がる。正確には、立ち上がろうとした。
なぜか竜胆に肩にもたれかけられて、莉乃は尋ねてきた相手を座って出迎えることになっていた。
「莉乃、茶ぁ」
見事に灰谷兄弟の存在を無視したピンク頭が、三つ巴で独占したソファの対面へと無遠慮に腰かけて命じてくる。
「無理でーす、莉乃は竜胆くんに身体を貸すのに忙しいからー」
「あ゛ぁ?」
今まさに口の中に錠剤を放り込もうとしていた男ににらまれる。
莉乃は「私じゃありません」と降参の意思を示して、首を横に振った。
その瞬間、ガチャッと向けられた銃口に体が強張る。
「やだー、三途さんったら物騒ー、莉乃怖い人きらーい」
「え?」
「三途さんきらーい、莉乃は蘭ちゃんが好きぃ」
「え?」
「莉乃、いいから。さっさと茶、入れてこい。ぶっ殺すぞ」
「はっ、はいぃぃい」
情けない声を出して立ち上がり、備え付けのキッチンへ向かう背後で灰谷兄弟の笑い声が聞こえてくる。
「うぅ…ぅ。なんで、私がこんな目に」
嘆きつつ、高級茶葉を取り出して急須に入れる。人数分。間違いなく三人だったはずなのに、戻るとなぜか人数が増えていた。
「莉乃、お茶が足りない」
あんこを唇の横につけて、お盆のうえのお茶のひとつを無造作につかんで「熱っ」と言いながら飲む孤高の存在。ぽつりと呟かれた言葉と共に、現状を把握した莉乃は「かしこまりました、首領」と項垂れた肩でキッチンに戻った。
「っていうか、幹部会議ここですることになったなら先に教えてほしいんですけど」
ぶつぶつと文句を言いながら、莉乃は茶器を用意する。
突然の団体客に対応するスキルは十代のアルバイトが役に立っていると自分で自分を褒めたい。やはり人間、経験値は積んでおくに越したことはない。
「おまたせいたしましたぁ」
語尾にハートをつけて登場しようかと思ったが、すでに場所が円卓に移っているうえに予想以上に空気が重かったので、莉乃は静かにお茶を置いていく。代わりに、蘭と竜胆に出していたコーヒーカップを下げ、首領のお茶も新しいのに変えた。
目線は誰にも合わせず、口をつぐんで必要最低限のことだけをして席を離れる。
その間、誰も話題を進行しないのは与えられた優しさだと莉乃は理解していた。
「今日は長くなりそうだなぁ」
下げた食器を洗いながら思う。
気まぐれにやってきては井戸端会議をするみたいに集まって、解散していく光景はこれで二桁を超えてしまった。
五分もかからず解散したときもあれば、何時間どころか何日も居座られたこともある。
そのたびに案を巡らせて、全員が会議に集中できるように出来ることを考えてみるのだが、先ほど体感した雰囲気は少なくても数時間は続くような気配をしていた。
「まあ、まだ三時だし。あとでコーヒーでも出したときの雰囲気で考えようかな」
あごに手を添えて一人呟く。
そうして手持無沙汰になった莉乃は、他に客人が来ることのない受付デスクに座って一人呆然と窓の外を見つめた。