梵天ニ咲ク
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ときは遡ること十時間ほど前。
莉乃が首領の用意した服を着て、迎えに来た三途と共にエレベーターに乗り込む時刻。今日は別件があって朝の送迎が出来ないという事実だけでも不機嫌だった蘭は、監視カメラに映った莉乃の出で立ちを見て、わかりやすい舌打ちをしていた。
「は?」
今日は莉乃の就任お披露目会。
幹部は全員莉乃のことを知っているが、莉乃自身はそれを知らない。晴れて梵天の庇護下に置くことに成功したのだから顔合わせは必要だろうと、地下室と会議室とは名ばかりの莉乃の新しい部屋に莉乃本人が慣れたころを見計らって予定された日。
莉乃は「誰の」ものか。
幹部全員の瞼に焼き付けさせるために蘭が竜胆と一緒に用意した服、ではない服を莉乃が着ている。
「三途、の趣味じゃねぇな」
昨晩、莉乃を地下室に送った際に念押しして今日着るべき服の特徴を伝えておいた。
「わかりました」と疑問符を浮かべながらも律儀にそう返事した莉乃を思えば、これは仕組まれた結果なのだとなんとなく悟るしかない。
「……マイキー」
首領でも大将でもボスでもなく、懐かしい呼び名で呼んだ蘭の声は低い。
どうりで予定外の仕事が朝一番に組み込まれ、否応なく放り込まれたわけだ。しかも幹部会議の時間ギリギリまでかかる案件。協力者は三途だろう。明石かもしれない、九井という可能性もある。望月はこういうやり方を好まないし、鶴蝶はないと信じたい。
ともあれ、現実は灰谷兄弟を裏切った。
「竜胆。莉乃がマイキーの服着てる」
「は?」
「俺、無理」
「いや、そんな片言で無理って言われても。オレも無理なんだけど?」
無駄に広い和室から見える盆栽を眺めながら蘭は竜胆に愚痴る。
いつも隣にいるはずの相方は、今日は別の場所。これも多分、計算された通りに違いない。蘭は商談、竜胆は粛清。どちらも部下では片づけられない、一筋縄ではいかない大物であるだけに無視も出来ない。
電話ではなくメッセージを送受信する指先は、蘭の苛立ちを乗せるようにタンタンと軽い音をガラス面に打ち付けている。
「朝っぱらから毒が入ってるかもしれねぇ料理出されてるってだけでも吐きそうなのに」
言いながら、眼前のテーブルに所狭しと並べられた高級懐石の写真を蘭は竜胆に送り付ける。すぐに「まだいいじゃん」と竜胆から返事が届いた。
「オレなんか、今からこれ片付けんだけど?」
どこかの看板に親指を向けた竜胆の自撮り。
頬と指先に血痕が付着している当たり、すでにひと悶着あったのだろう。瞳孔の開いた興奮状態の表情が蘭に同情を誘っているように見える。
「あー、横流ししてた地下組織見つかった、つってたな」
「別に今日じゃなくてよくね?」
「それは同感」
「早めに終わらせる」
「じゃー、また後でな」
弟も理不尽な仕事を片付けているのだから自分もそろそろ目の前に向き合おうと蘭は意識を現実に戻してみる。
目の前には箸の移動どころか、水滴すら減っていない料理。
対面は空席。いや、蘭の瞳に映っていないだけで実際には着物姿の女が座っている。誤解を解くなら女は幽霊ではなく人間。生きているし、五体満足でもある。
ただ、困ったことに泣いている。
泣かしたのは蘭。慰め役は残念ながら一人もいない。
「なぁ、いい加減泣きやめー」
適当に声をかけると、女はわかりやすいほど肩を震わせて嗚咽を零した。
「泣く女は好きじゃねぇんだわ」
「嘘つき」
「もういい年なんだからわかんだろ」
仕事で付き合う必要のあった女。正確には護衛につかされていた女。お互いに利益となる契約を取り付けるには少し期間が必要な案件で、どこまで信頼関係を築けるのか梵天側に出された条件が、契約完了まで先方の一人娘の無事を約束すること。
今朝、無事にその契約が締結した。
帰ろうと思った矢先、護衛されているうちに恋に落ちたらしい娘との見合いが強行され。二人きりにされ、わかりやすく監禁された。
既成事実を作るまで出て来るな、ということだろう。が、蘭にそんなものは通用しない。
逆に、今までどんなワガママも聞いてくれていた男から「俺、お前じゃ勃たねぇ」と綺麗に笑われて自尊心を砕かれた女は泣いて、泣いて、泣き続けていた。
「私と結婚しないんだったら、パパにお願いして契約破棄にしてやるんだから」
その挑発に蘭は膝をたてて笑みを歪める。
そして長い脚で立ち上がるなり、女を見下ろして表情を真顔に変えた。
「やれよ」
聞いたことのない低い声と妙な威圧感。一切触れなかった料理を足で一掃した騒音に、外野が危険を察して飛び込んでくる。
「何を勘違いしているか知らねぇけど、あんま調子のってると二度と太陽の下歩けなくなるぞ」
「脅すつもり?」
「脅すも何も、契約締結した時点で一人娘の無事を保障してやる必要はどこにもないわけ」
そのままひらひらと手を振って外に出ようとした蘭を引き留めたのは、娘だったのか、取り巻きだったのか、はたまた便乗した何かだったのか。
結果的に狂気的な恐怖だけを現場に置き捨てて、蘭は不機嫌なまま新しい会議室の扉を蹴り破っていた。
「莉乃、今すぐに冷たいお茶ちょーだい」
「え、あ。蘭さん、どうしたんですか?」
「んー、いいから早く」
「わかりました、そこに座って待っていてくださいね」
莉乃の顔を見れば収まるかと思った苛立ちが、自分が用意した服ではない服を着ていたことでさらに増す。
声や存在に癒される一方で、独占欲が満たされない嫉妬に心がむかつくなど笑えない。
極めつけは自分のお茶を用意している莉乃に三途からの電話。厄日とはこういう日をいうのかもしれないと、蘭は色のつかないため息を吐き出した。
「うわー、何、その顔」
「竜胆も人のこと言えねぇけどな」
現れた兄弟にやはり似た者同士だと苦笑しあう。
隣に密着するように腰かけられたソファーが少し揺れたが、なんてことはない。
「本当に首領の用意した服着てるじゃん」
「なぁ、ファスナー壊せばいいんじゃね?」
「兄貴、ナイスアイディア」
すかさず「ナイスアイディアじゃねぇよ、何言ってんだ、テメェら」とココにたしなめられたが、それがどうした。
まだ莉乃は誰のものでもない。
「あーーーー、くっそ可愛い」
茶柱を立てることに文句ひとつ零さず、根を上げることもなく、泣きつくこともない。真面目にひたむきに、ただ言われた任務を疑わずに遂行しようとしている健気さに、蘭も竜胆も心が浄化されたのはつい先ほどのこと。
強いて言うなら首領の無理難題はさすがに引いたし、お礼を言われて恥ずかしそうに笑いながらもドヤ顔を隠せなかった莉乃の姿を見れたことには複雑な心境を向けた。
鼻歌を奏でながら悲惨なキッチンを片付けている莉乃の姿が会議室のモニターに映ってるが、零した言葉は本音以外の何物でもないと蘭の声が悶えている。
ちなみに、竜胆は悶えすぎてテーブルに伏している。
「……うまいな」
これは鶴蝶の声。
全員に丁寧に配られた茶柱入りのお茶は、温度や味以上の付加価値が入っているのだから当たり前だろう。
「よく、まあ。あんな調子で生きてこれたもんだ」
明石までも目尻に慈愛を浮かべて茶柱を見つめている。
ふわふわと健気に揺れて一生懸命に浮かぶ柱は、じっと見つめていても飽きることはない。
「で、莉乃ちゃんは首領の女ってことでいいのか?」
地雷を投げたのは望月であることを補足しておこう。明石は瞳を伏せ、九井は灰谷兄弟と三途の三人を、鶴蝶はマイキーを見たが、その他の全員が望月を射殺すような目で睨んでいる。
「あんなチンチクリンが首領の女だぁ?」
「三途」
「……え、マイキー。本気……っすか?」
本気と書いてマジと読む。
懐かしいフレーズに三途が狼狽えるのも無理はない。大事なものを遠ざけ、大切なものを作らなかった梵天そのものが、唯一を口にしようとしている。
「いいじゃねぇか」
達観した明石は何度内輪揉めを起こさせようとするのだろう。この何とも言えない空気に投じられる発言はさすがというべきか。
「マイキーの女になろうとなるまいと、あの子はもうここで一生暮らすんだろ?」
それはそうだ。と、空気がうなずく。
「誰の」とか関係なく、莉乃の未来は梵天の土壌に根付くのみ。もし他を望むなら、枯れるまで養分を吸いとり、押し花にして額縁で飾るだけ。
等しく全員が好きに愛でれば良い。
いずれ咲く花の名前は『梵天』以外にはないのだから。