梵天ニ咲ク
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ずっと誰を雇うか決めかねていたという会議室の受付嬢。そう聞いていたはずなのに、蓋を開けてみればどうだ。莉乃は両脇を蘭と竜胆に挟まれて職務規定を聞いているが、その内容に目玉が飛び出るほど驚いていた。
始まりは二時間前。
「莉乃、早くしろー。あほ面してると置いてくぞォ」
「は、はい」
お風呂をあがったあと、なぜか首領の姿が消えていて、そこに灰谷兄弟の姿があった。
命じられるままに指定の服を着て、メイクを施され、髪をセットされて、案内するといわれた職場までの道のりを三人で歩く。
「あ、待って。書類忘れた」
エレベーターの前につくなりそう言った竜胆を置いて、到着を告げたエレベーターの中に乗り込む蘭に戸惑ったものの「早くしろ」と言われればついていくしかない。
地下から最上階までボタンひとつで向かうエレベーターに乗ってたどり着いたフロア。そこにある無駄に広い部屋に眩暈がする。
床から天井までを占領したガラスの窓が眼下を映し、歩くたびにカツカツとなる白い床が輝いているのは気のせいではない。
「ぅわぁ」
許容範囲を超えると、どうやらバカみたいな感想しか人は口から出ないらしい。
入るなり大の字で立ち尽くした莉乃に人知れず息を吐いた蘭は、そのまま近寄って、腰を抱きすくめて中に促していた。
「ら、蘭さん。女性の扱い慣れすぎですね」
「そう?」
「いつか刺されますよ?」
「そんなことできるやついたら、すげぇな」
そこで同意を求められても困る。曖昧な笑みしか返せずに固まった莉乃を連れて、蘭はどんどん部屋の奥へ進んでいく。
「ここが一番奥のシャワールームで」
「え、会議室にシャワールームですか?」
「トイレはこっち」
「わ、綺麗ですね」
「で、こっちがベッドルーム。まだベッドねぇけど」
「ここも広い…え…ベッド、ルーム?」
室内には入らず、廊下から覗き込んだ何もない部屋を見つめて首をかしげていると、耳元で笑われて「そう、ベッドルーム」と復唱される。
「むっ、無駄に色気のある声で喋らないでください」
「それって、どんな声?」
「ど、どんな声って…ちょ、近い…です」
「蘭ちゃんには難しいから教えろよ。莉乃」
「なぁ、俺ってどんな声? 」と、室内と廊下を隔てる壁のせいで蘭が作り出してくる空間から逃げられそうにない。
梵天の刺青が刻まれた喉を見つめて現状打破を考えていたら、ちゅっと軽いリップ音と共に額にその唇が触れてくる。すでに後方には壁。逃げ場所などどこにもない。「ひっ」と小さく息を殺した莉乃の唇に蘭が触れる直前。
ちょうど書類を取りに戻った竜胆が姿をみせた。
「オレ、待ってって言ったよね?」
「えー、そうかぁ?」
「もう、なんで先に行くかな」
「そう怒んなってぇ」
よしよしと蘭が竜胆の頭を撫でれば、竜胆はパシっとその手を払いのける。その様子を眺めながら人知れずホッとしたのは内緒の話。
ホッとしたらなぜか顔が熱くなったけれど、断じて蘭の色気にやられたせいだとは言いたくない。おまけに真逆の表情を浮かべる美形に並ばれると、正直、生きた心地はしなかった。
パシっと音が出る勢いで不機嫌な竜胆の手に腕が引っ張られる。
「莉乃、こっち」
「じゃあ、俺も行こうっと」
「兄貴は、ついてくんなよ」
「えーいいじゃん。なぁ、莉乃」
結局腰に巻き付いたまま離れない蘭の腕ごと、莉乃は竜胆に連れられて元来た場所に戻っていく。
唯一会議室らしい存在を放つ部屋。八つの椅子がある円卓とテレビモニターがある部屋。ではなく、そこを横目に眺める応接セットに莉乃は蘭を巻き付けたまま、竜胆に座らされた。
「これ、就職規定な」
「こっこれが…し、しゅ、しゅうしょく…の」
「片言なのウケる」
竜胆が茶封筒から取り出した用紙を食い入るように見つめた莉乃を蘭は笑うが、莉乃にとっては目の前のローテーブルに並べられた書類は家宝のように大事にしたい紙でもあるのだから笑わないでほしい。
「まず首領からも聞いたと思うけど、服は支給されたものを着て。毎朝部屋に用意される中から好きなの選べばいいから。仕事内容は会議室を使用する来客対応と掃除、あとは書類整理くらいだな。飲食は自由、冷蔵庫にあるものも好きに食べていいし、賞味期限とかあるからむしろ食べて消費頑張って。それも仕事のうちってことで。キッチンスペースにある家電とかも自由に使っていい。欲しいものがあったらそこの内線で言えばすぐに届くし。何か実費で払うことが万が一あったときは経費申請するからレシートか領収書もらって」
「なにか、わからないことあるかぁ?」
パーソナルスペース狭小の二人の声が耳元で反芻するのはこの際置いておこう。
竜胆の声につらつらと並べられた就職規定は、たしかに書面に記された内容と一致する。読み上げられる行が下にいくにつれて、ぱかっと口をあけた莉乃のアゴを閉じた蘭が最後の言葉を竜胆から奪っていたが、こんなことがあっていいのだろうか。
「こ、こここの、給料五十万ってなんですか!?」
「交通費は支給できないからな」
「は、え、交通費?」
「その代わり、地下の部屋からこの部屋へは毎日送迎あり」
「廊下歩いてエレベーター乗るだけなのにですか?」
「そう」
「少ないと思うなら、ちゃんと交渉しろよ」
「す、少ないとかじゃなくて」
「ちなみに給料は銀行振込だから。現金支給じゃなくて悪いな」
「そこは別に問題視してません」
「そ?」
「あー、あと勤務時間は24時間、勤務日は365日休みなし」
「受付嬢とは名ばかりの梵天幹部専用雑用係として、こき使うから覚悟しろー」
「あ、それなら納得です」
よかったと息を吐いた莉乃の両脇が、なぜか肩を震わせて笑っている。
「納得したなら、ここにサインな」
「はい」
蘭がトントンと指で示す部分に、莉乃は竜胆から受け取ったペンで名前を書く。
「これ業務用の携帯」
「ありがとうございます」
「直属の上司は俺らじゃくて三途ね」
「三途さん。わかりました」
「ヤク中だから気を付けろよ」
「護身用に持っとく?」
「え、いや、それはちょっと。撃ち方とかもわからないですし」
「教えてやるよ」
「そ、それは仕事で必要になりますか?」
「ムカつくやつがいるなら」
「いっ、いません」
「まあ、必要になりそうならいつでも言って」
「んじゃ、手続きも終わったし、莉乃はさっそく仕事するか」
「………はい」
引きつった笑顔で返事をした莉乃の頭を蘭は撫でるが、そこで莉乃ははたと気付く。
「何をしましょう?」
「まずは、そーねぇ。俺、コーヒー飲みたい」
「……は、ぇ?」
「オレもコーヒーで」
彷徨わせた瞳は、両サイドから指示された方角を見てひとり頷く。
給湯室ならぬキッチンに行き、二人にコーヒーを淹れろということらしい。
「はい、では少々お待ちください」
アルバイトで身に着けた営業スマイルを浮かべて、莉乃は席を外した。
かくして首輪をつけられてから一週間目の今日。莉乃は梵天幹部専用雑用係として新たな仕事を手に入れた。