梵天ニ咲ク
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「気に入った?」
両サイドからの圧に「首を縦に振る」以外の選択肢があるなら教えてほしい。
どうしてこういう状況になっているのか、未だ追い付かない脳細胞をフル稼働させても、莉乃にはまったくわからなかった。
「はい、食べるの止めなーい」
「は…っ、ぐ…ぅ」
「次はどれにする?」
「いや、あ…の゛…っ」
「遠慮してねぇで、どんどん食えー」
「そうい゛…ぅ…わけで…ぐ」
「莉乃って食べるの遅いな」
左から右から、次々とパン含めて野菜や肉を放り込んでくるのをやめてほしい。
挙句の果てに、唇の端についていたらしいパンくずを指でつまんで取ってくれた蘭が「お前、口小せぇのなぁ」と、笑ってその指を舐めるという異常事態が発生している。
「な…っ…ぁ」
何をしているのだと凝視していたら、その綺麗な顔がゆっくり近付いてきて、べろりと頬を舐められた。
「どぅわあぁぁあぁぁあああ」
舐められた頬を抑えてその場から飛び上がる。
竜胆が呆れた顔で「兄ちゃん、ズルい。ほんとそういうとこキラい」と文句を言っていたが、莉乃には勢いよく壁に打ち付けた背中が痛みを訴えていて聞こえない。それどころか「莉乃、戻ってこーい」と、間延びした席にはもう二度と戻れないと思っていた。
「り、りりり竜胆さん」
「んー?」
蘭と竜胆の間の席を避けて、莉乃は竜胆の左隣に座ってその背中に隠れる。
警戒心を全開にして蘭を盗み見たのがいけなかった、莉乃は「ひっ」と小さくこぼして、ますます竜胆にへばりついた。
「蘭さんって、いつもああなんですか?」
「自分で確かめてみれば?」
「いーやいやいやいや無理です。ってか、確かめるって何を!?」
「ん?」
しがみついたまま見上げた顔が、なぜかゆっくり降り落ちてくる。
そして莉乃は、先ほど蘭に舐められた頬とは逆の部分を「こういうこと、するのかって」と悪戯に笑った竜胆に舐められていた。
「ぴぎゃぁぁあああ」
扉の方まで勢いよく後ずさっていった莉乃の視界に、大爆笑の兄弟が映っている。
「か、からかわないでください」
そう叫んで訴える顔は、自分でもわかるほど真っ赤な熱を持っている。
あぶない。これが唇に直接触れられていたら、莉乃は「人生での初めて」を二度かっさらわれたことになる。
「反応が面白かったからついなー」
「つ…つい?」
「ほら、そんなところにいないで、さっさと戻ってこい」
おいでおいでと手招きする二人の元には戻りたくない。
けれど、戻らない方がなぜか怖い気がして莉乃は盛大な諦めの息を吐くと、すごすごと近付いていった。
「お二人はこういうの日常茶飯事かもしれませんが」
「お前、俺らのことどんな目でみてんの?」
「キスすらしたことのない女心を弄ばないでください」
「は?」
「え、キスしたことねぇの?」
「ぅ…っ…お二人と違ってモテない人間なので誰かと付き合ったこともないです」
いちいち言わせないでほしい。
二十三年間。十代の青春はおろか、恋をしている余裕もなく生きてきたのだから仕方がない、と思いたい。時間があれば生活費を稼げるバイトを探し、日雇いの手伝いをこなしてきた底辺の身分では恋よりも金。
たとえ好きな人が出来たとしても、遠巻きに眺めただけで終わっていただろう。
「それより、私そろそろ仕事に行きたいんですけど」
「仕事?」
「はい、今日は派遣の契約が更新される大事な面接があるんです」
この二人にまともな会話が通じるのか知らないが、莉乃はダメ元で心境を語ってみる。
「いや、無理だろー」
「無理かどうかはやってみないとわからないじゃないですか」
「外に出た瞬間、首から上が吹き飛ぶぞ」
「……あ」
そうだった、と。莉乃は自分の首輪に指をはわせて、現実を理解する。
「……」
「……」
しばらくの無言。
蘭と竜胆が「三途のこと言えねーじゃん」とお互いに言い合っている意味はよくわからないが、そういえば自分は「梵天」に身を捧げたのだと昨晩の記憶が今頃になってよみがえってくる。
「え……じゃあ、私。無職ってことですか?」
そこから先の記憶は少し曖昧。
「自分で稼ぐことが出来ない」事実を受け止めきれない莉乃は、わかりやすく不安定になっていった。十五歳から九年間。朝から晩まで働いていた生活に依存していた後遺症とでもいうべきだろうか。
一日目より二日、三日と経過していくごとに言動行動が変貌していく。
「働かせてください。ここで働きたいんです」
どこかで聞いたことのある有名な台詞を繰り返し口にする莉乃は、全然仕事を与えてくれるどころか、暇さえあれば世話をやいてくれる人間たちを恐怖の目で見つめていた。しまいには、三途が割ったグラスの音に悲鳴をあげて「明日までに仕事を見つけるから殴らないで」と叫ぶ始末。
部屋の隅で小さく体を抱いて震える莉乃にどうしたものかと、息を吐いた面子に助け舟を出したのは、以外にも明石という男だった。
「なにか仕事させれば?」
それで万事解決だろう。と続ける顔に反論したのは、これまた意外なことに三途だった。
「アイツに仕事なんてさせられるわけねぇだろ。頭湧いてんのか?」
「オレが斡旋してやってもいいぜ」
「はぁ、なんだぁ。死にてぇのか?」
明石の意見に賛同した九井に、射殺そうとする視線の数は少なくない。
梵天幹部の財力を担う男のいう「仕事」だ。何か下手な要求でも口にしたら殺すという雰囲気がにじみ出る空間で、九井は存外可愛い提案を口にした。
「会議室の受付嬢、ですか?」
食事もとらず、風呂も入らず、部屋の隅で小さく震えていた莉乃は、様子を見に来た首領の言葉に目をぱちぱちと瞬かせる。
聞き間違いでないのなら、確かに佐野万次郎は「働き口を与えてやる」と言った。
「てか、なんで部屋のもの使わないの?」
「え…あの、払えない。から」
「払う?」
「壊しちゃったり、減っちゃったりして、返せないものを使うのは怖い、です……水道代とティッシュくらいは払えると…思います」
「食事も口にしたくないってのもその理由?」
「……はい」
「誰か払えって言った?」
「いいえ。自由に使っていいって、言われました。だけど、その…家では昔から、何かを使うときにお金を払わないと、ダメだったので」
あとで請求されても困るものには手を付けない。人生のほとんどをそのルールで生きてきたのだから、今さら無償のものを与えられても信じることは難しい。
莉乃を裏切らなかったのは「労働」それだけ。
「莉乃、会議室の受付嬢をしたいなら風呂入って、ご飯食べて」
「は、はい。もちろんです」
「この部屋で使ったものに支払いとか考えなくていいから」
「それは…でも」
「給与から天引きしとく?」
「ありがとうございます!!」
「………うん。それから、職場に制服はないけど、同じ服は二度と着ないで。一回着たやつはダメ」
「え…私、そんなに服は」
「大丈夫。用意してあるの着ればいいから」
「わかり、ました」
「ん」
そういって腕を引かれて立ち上がるなり、服をひん剥かれて風呂場に放り込まれる。
首領のあの細くて小さな体のどこにそんな力があるのかと、尋ねる隙も与えてもらえないどころか、驚いている間にそうなっていたのだから今さら抵抗も何もない。
莉乃は回した蛇口からほとばしる温かなお湯を浴びながら流れた涙を排水溝の奥へと染み込ませていった。