きっと繋がる理想郷
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大好きな人が刺されて入院したのだと友人から聞いた時の心境は、原稿用紙にも書き起こせないくらいの衝撃だった。
「え…っ…え?」
お祭りはどうだったかと恋バナを楽しむノリでかけた電話の向こう。
菊花の耳に届いたのは、酷く掠れたエマの声だったのだから無理もない。思わず「どうしたの?」と尋ねると、エマがぐすぐすと泣き始めたので、事の次第を聞いた菊花はもちろん言葉を失っていた。
「そっか、病院。うん…お大事に」
電話を切って、呆然と考えることを放棄する。
どこぞの隣人じゃあるまいし、喧嘩や乱闘騒ぎに巻き込まれて、刺されて重症を追うだなんて、一般人からはもっと遠いところにある話だと思っていた。
それが友達の片思いの人という身近な場所で起こった現実に、若干不安と恐怖が湧いたのも無理はない。
「あれ、ランちゃん?」
自分の部屋の窓から見えた三つ編み姿に、菊花は首をかしげる。
めずらしい。時刻は午後の四時。いつもは竜胆と一緒に連れ立ってあるく蘭が、一人で家から出ていく姿を目撃する。
「……あ、彼女か」
先日、灰谷家の玄関でみた下着姿の女の顔は忘れたくても忘れられない。
大人っぽい雰囲気はたぶん、蘭よりも年上。大学生かもしれない。昔から遊びは派手だったが、高校生になると相手をする女の範囲も広がるのだなと呆れた息が零れ落ちた。
「色気、かぁ」
化粧もネイルもしていない自分の姿を鏡で確認してみる。
女からの評価は昔から良いが、それこそ数多の女を見てきた隣人二人が「不細工」というのだから、顔面ランクは「不細工」に該当するに違いない。化粧でもすれば少しは変わるかもしれない。
そう思って雑誌を買って、化粧品を調達してみたこともあるが、なぜか帰り道に蘭と竜胆に遭遇して「似合わない」と全部没収されたのを思い出す。
「ていうか、夏休みなのに家で真面目に宿題してるからダメなんじゃ」
夏休みの宿題を真面目にやっているのには理由がある。
親が教育関連で働いているだけあって、そういうことにはすこぶる厳しい。大学教授の父と研究職の母。没頭型の二人は何かのスイッチが入ると、飲食や睡眠も忘れてどこかで引きこもる。よく結婚出来たなと思うが、当時はまだ講師という立場の父と、大学院生という母の構図だったのだから愛は順調に育むことが出来たらしい。
とはいえ、いつ家に帰ってくるかわからない二人。
ある日突然帰ってきて、そこで宿題が出来ていないと発覚した日には、お小遣いを減らされるだけではなく、残りの夏休み生活を家庭教師と過ごす羽目になるだろう。
それは、絶対お断りだ。
「あーあ、せめて彼氏欲しい」
こういうときに、気分のあがる存在がいてくれたらと思う。
夏休みに出かけた場所といえば、渋谷のアイス屋さんくらいで、そのあとの予定はない。恋人たちが事件に巻き込まれたというヒナ、エマのコンビは、遊びどころではないだろうし、お嬢様学校に通う同級生たちは今頃国外のどこかのビーチか避暑地で夏を満喫しているに違いない。
「え、蘭ちゃん!?」
先ほど家から出て、彼女らしい人とどこかへ消えていった蘭が、今度は家に帰っていく姿が眼下に映る。
時刻は菊花の家の家政婦が帰宅する午後五時。
先ほど時計を見てから一時間もたっていない帰宅にも驚いたが、もっと驚いたのはその出で立ち。
「たっ、大変」
菊花は転がるように階段を降りて、そこで家政婦に「今日もお疲れ様でした、いつもありがとうございます」と愛想笑いを浮かべて送り出し、姿が見えなくなった瞬間に灰谷家のインターホンを連打していた。
「ランちゃん!!」
インターホンで来訪者を確認したのか、無言で玄関のカギが開いた音を聞いて菊花は灰谷家に乗り込んでいく。
「ランちゃん?」
どかどかと無遠慮に入って、乱暴にリビングの扉をあけて、菊花はそこで血だらけの服を着た蘭の姿を目撃した。
「ランちゃん、どうしたの。怪我したの!?」
「んー?」
「大丈夫、痛くない…って、痛いよね。どこから血が出てるの?」
「菊花、落ち着けー」
「落ち着いていられないよ。そ、そうだ救急車ッ」
血だらけの服を着た蘭に駆け寄って、触れていいのかわからずに戸惑うしかない。ため息交じりに蘭が何かを言いかけるが、多分途中で面倒くさくなったのか、説明する代わりに大きな手でガッと菊花の顔を掴んだ。
「ら…ランちゃ…ん?」
「……はぁ。まじ、家あげるんじゃなかった」
数秒見つめられたあと、盛大な息を吐いた蘭から解放される。
嫌悪を込めた声で「家にあげなければよかった」と言われるとどうしようもない。
「兄ちゃん、風呂の用意できた…って、菊花?」
呆然と血だらけの蘭を見てたたずむ菊花と、明らかに不機嫌満載で苛立っている蘭。自分が席を外した数分の間に一体何が起こったと、竜胆だけが一人、困惑した顔をしていた。
「なんで菊花が家にいるの?」
「俺がいれた」
「や、まじ。喧嘩のあとは興奮してるから危ないじゃん」
「なー」
「いいから風呂入れって、菊花はこっち座れ」
「……」
「菊花?」
無言で立ったままだった菊花の瞳から大粒の涙がこぼれ始める。
「うおっ」と竜胆が驚いた顔をしていたが、蘭も同じように驚いた顔をして立ち止まる。
「兄ちゃん」
「や、俺マジで何もしてねぇ。する前に踏みとどまった」
「それもうアウトじゃん」
「セーフだろ」
えぐえぐと泣き始めた菊花の背中を撫でる竜胆の目が白々しく蘭を見つめるが、蘭は首を横に振って全力で否定をしている。二人がいったい何をそんなに確認しあっているのか知らないが、菊花は胸中にうずまく不安に押しつぶされそうになりながら、たった一言「ランちゃんが死んじゃう」とだけ叫んでうずくまった。
「菊花、よく見てみろ。兄貴は無傷だぞ」
「…ぅ…血が…だって、血がぁ」
「全部返り血だから、な」
「かえり、血?」
竜胆になだめられて顔をあげる。
血だらけの服を脱いだらしい蘭の裸体は、たしかに傷一つなく綺麗なもので、どこにも怪我をした後は見当たらない。
「ほんと?」
「っていうか、オレたちが怪我するなんてねぇよ」
「だって、最近人が刺されるくらいの喧嘩があったんでしょ?」
「あれは東卍と愛美愛主の……て、なんで菊花が知ってんの?」
「それは友達に聞いて…ぅ…ランちゃん」
「なにー?」
「そんなに大きなタトゥーか刺青かわかんない肌じゃ傷あるかわかんないから、触ってもいい?」
床にぺたりと座り込んだ姿勢のまま、立った蘭を見上げて確認をとる。
なぜかものすごく複雑そうな顔、正直言って迷惑そうな顔をされたが「だめ」と直接口にしないということは「良い」のだろう。
「気が済んだかー?」
「だめ、もうちょっと」
両手で肌を撫でてギュッと抱きしめて、蘭が生きているのだということを実感する。そのままスーハーと深呼吸してみれば、蘭の愛用する香水の匂いがして、ついでドキドキ鳴る鼓動が聞こえて思わず頬ずりまでしてしまったが、引きはがされるということがない以上、これも許される範囲なのだとわかる。
「りんどー、なんか萎えるもんちょーだい」
どこか虚無を見つめて腕をだらしなく下げた蘭に、竜胆は何も返さなかった。