きっと繋がる理想郷
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日付が変わっても誰も帰らない。そう言えば今日はおじいちゃんの退院日だったと、まだ終わらない『手術中』のランプを見つめながら菊花は思う。
久しぶりに会う姿が全身傷だらけで、イザナの血で全身染めた孫娘がやって来たらまた入院させてしまうかもしれない。イザナの手術が無事に終われば、一度家に帰ってシャワーを浴びて、服を着替えて来る時間くらいはあるだろうか。
安静にしていなさいといわれた病院を抜け出してきてしまったから、たぶんそこにも今頃多大なる迷惑をかけているに違いない。
「マイキー!!」
興奮した声で駆けて来た人影が、はぁはぁと息を切らせて目の前にやってくる。
ソファーに座る菊花の右横に腰かけたマイキーの前。
顔を上げたその姿に、見覚えがある。
「羽宮くん…と、もしかして場地くん?」
今日は詰襟眼鏡ではなく、長髪の黒髪をおろした姿だが、首筋に虎のタトゥーと耳に鈴のピアスをつけた羽宮一虎と一緒にいるのは場地圭介しか思い当たらない。背格好もよく似ているしと、菊花がじっと眺めていれば、場地と羽宮は息をのんで「どうして菊花ちゃんが」と言葉を失くしていた。
「どうした?」
マイキーの声が彼らの現実を呼び戻す。
そうだったと、二人は一度顔を合わせてから頷き合って「エマちゃんが目を覚ましたぞ」と大声で吉報を知らせてくれた。
「菊花」
「はっ、はい?」
真横でいきなり立ち上がって、くるりと振り返ったマイキーの髪が勢いよく頭をさげた。
「ありがとう」
「ありがとうございました」
総長のお礼に一同が全員そろって菊花に頭を下げてくる。
「エマを…オレの妹を助けてくれてありがとう」
「は、え、なに、なにごと?」
「怪我までして、かばってくれて、この恩は言葉では尽くしがたい」
「いや、それは違っ…ちょ…ちょっと本当にやめてください…みなさんも、顔をあげてください」
かたくなに頭をあげようとしないエマの兄に、菊花は狼狽える。
この人が頭を下げるのをやめない限り、後ろで頭を下げる人たちも誰一人として頭をあげることはないだろう。お礼を言われるようなことは何もしていない。イザナはエマを狙ったかもしれないが、稀咲に狙われる要因があったのは菊花も同じ。
運よく強打された力が分散されて、結果二人とも助かっただけのこと。
そのとき扉が開いて「誰か輸血出来る方はいませんか!?」という看護師の声がシンとした空気を引き裂いた。もちろんすぐに「誰かいないか?」というマイキーの声に該当の血液型を持つ人たちが挙手して名乗り出る。でも、現実は残酷にも「未成年は親権者の同意が必要です」と取り合ってはくれなかった。
「なんでだよ!」
「クソッ」
敵対していた相手なのに、自分達の無力さに心底悔しがる東卍の人たち。
天竺が負けたのは道理なのだろう。
人の道を離れすぎた。
だから、このまま死んでしまうのだろうか。
さっきまで流れていたイザナの血が全身にこびりついている。まだ温もりの残る感触が指先に残っている。それなのに、もう二度と一緒にお雑煮を食べたり出来なくなるのだろうか。
イザナと片仮名で書いて、家族みたいだと笑った顔をもう見れないのだろうか。
「……パパ?」
「菊花!?」
「……ッ…パパ、パパぁぁあぁ」
暗い廊下の先に見えたシルエットが父親のような気がして声をかけてみれば、やはりそれは間違いなく自分の父親だった。
珍しく焦っているような、不安そうな表情をしていたが、菊花が声をかけるなり怒り心頭といった様子の表情に変わる。けれどそれよりも早く菊花は転がるように駆け寄り、初めて声をあげてすがりついた。
「助けて…助けて、パパ…死んじゃう…血が…血が足りないの…助けて、パパ。イザナを助けて」
「……菊花?」
つい二週間ほど前。大人びた格好で社交界の華を演じていた娘とは違い、小さな子どものように泣きじゃくる娘に、父親を名乗る男は固まったまま立ち尽くす。
事故に遭い、事件に巻き込まれた上に怪我をしたと聞いていたのに、全身血だらけで包帯を巻いた娘は自分ではない別の人間を助けてくれと叫んでいる。
どうするべきか。一瞬で状況判断したらしい。
戸惑う看護師に事情を尋ねながら気付けば携帯を取り出していた。
「必要な血液型は?」
その言葉に、菊花の泣き声がピタリと止んだ。
「それならわたしと同じだ。わたしの血を使ってほしい」
「……パパ?」
「菊花、しっかりしなさい。ママに事情を説明して、輸血バンクから必要な血を取り寄せてもらいなさい」
「…っ…はい」
いつも距離を感じ、大事なときに何もしてくれないと思っていた父親がふいに頼もしく思えてくる。根拠のない「大丈夫」が手の中に置いて行かれた気がして、菊花は手術室の扉に消えていく父親の背中を見つめていた。
「ああ、そうだ」
父親が手術室に消えていくのを泣いて眺めている場合ではない。菊花は父親が渡してくれた携帯を開いて、すぐに母親の番号を呼び出した。
「あなた、ごめんなさい。あと二十分ほどかかりそうなの」
「ママ」
「え、菊花?」
電話の相手に、ことのあらましを伝える。銃で撃たれたのが蘭と竜胆の仲間なこと、血が欲しいこと、父親が血を提供してくれたこと。それらを聞いた母親はすぐに深いため息を吐いて、少し待っていなさいと電話が切れた。
「おお。そこにいるのは誰かと思うたら菊花か?」
「おじいちゃん!?」
母親のコールバックを待つ菊花の元に、また頼もしい助っ人が現れる。
「どうしてここに?」
「なに、わしが入院してる病院をもう忘れたのか」
「……あ」
「最後の夜じゃて。見納めがてら散歩にな……して、ふむふむ。ランちゃん、リンちゃん以外にも菊花は友達が出来たようだ」
その言葉に振り返って、本当にそうだと思う。戦いに疲れて眠っている人もいる。治療後のまま車椅子で駆け付けた人もいる。この状況を「いったいどういうことだ」と混乱している顔もある。
「菊花ちゃんにはいつもお世話になっております」
「……ヒナちゃん」
「きみがヒナちゃんか。菊花から仲良くしてもらってると聞いている。これからもうちの孫娘をよろしく頼む」
「はい」
「菊花。ここにお前の大好きなランちゃん、リンちゃんがいないのはどういうわけじゃ。それにその格好」
「ランちゃんとリンちゃんは警察に……あ、ママだ。おじいちゃんごめん、ちょっと待って」
鳴りだした携帯に、菊花の表情がみるみる変わる。
誰もがその表情に絶望ではない、希望の光を見たような気がした。
それもそのはず。母親はツテをたどり、ヘリで必要な分の血をすでに送ったという。
「菊花ちゃん、空、空見て!!」
「うん…っ…ヒナちゃん」
ヒナの喜びに手を取り合って喜ぶ。
少しは希望が見えたかもしれないと、深夜の病院をバタバタと駆けまわる看護師たちを横目に、菊花はずっと祖父の手を握りながら手術室の赤いランプを見つめていた。
そのうち手術中の文字が消えて、中から出てきた執刀医が「成功です」と口にした瞬間。沸いた歓声は深夜の病院に響き渡る。
ベッドに眠る父親とイザナ、そして鶴蝶が管をつけて出てきたのを確認して、そこで菊花の記憶は終わっていた。
* * * * * *
頬を撫でる爽やかな風が、優しい指先を連れてくる。
壊れ物でも扱うようにそっと触れた指先は、風に煽られた髪をつかんで、そのまま耳にかけてくれようとしていた。
「……ランちゃん…っ…」
いつもそうしてくれる指先を思い出しながら呟いてみれば、ふっと笑われた気がした。
それでも幸せな夢は覚めてくれない。
骨折のしていない左手の指。絡み合った指先ごと手の甲が持ち上げられ、まるで童話に出てくる王子様のように唇がそこに触れる。
「…っ…リンちゃん」
ふふっと笑えば、じっと見つめてくるような気配。
何ヶ月ぶりだろう。こうして二人の存在を身近に感じることが出来るのは。
ずっとずっと寂しかった。本当は、もっと前からずっと寂しかった。ある日突然、何の前触れもなく年少になんか入ってしまって、それまでの関係をなかったみたいに距離を取られて……いや、最初に距離を取り始めたのは自分かと、遠巻きに二人を見ていた事実はなくならない。
「菊花」
交互に呼ばれるのも、同時に呼ばれるのも、全部大好きだった。
「菊花」
甘く囁かれるのも、強くしかられるのも、本当はどっちも嬉しかった。
「菊花」
間延びした蘭の声は何かが起こる合図で、語尾があがる竜胆の声は何かに気づいた合図。
小さなころからずっと傍にいた、当たり前のようにずっと傍にいると思っていた。
「ランちゃん…っ…リンちゃん」
うわ言のように繰り返すことしかできない。彼らはまた警察に捕まった。また離れ離れの日々を過ごすことになるのだろう。
それは何日か、何か月か、何年か。
せっかく好きだと認めることが出来たのに。
考えてもわからない。それまでこうして、王子様のキスで起こされる眠り姫のようにずっと眠っていたくもなる。
「いい加減、起きろー。もう朝だぞー」
起こすのにも飽きた様子でうながされても、そうすぐに目が覚めるなら夢は見ない。
いつまでも蘭のペースでいてやるかと、菊花は笑って狸寝入りを決め込んだ。
「なあ、菊花。そろそろ起きねぇ?」
甘えた声でうかがってくるのは竜胆だと顔を見るまでもない。「んー」と菊花が唸れば、あともう一押しだと彼らの感覚が神経を刺激してくる。
いやいや。そう促されても幸せな夢が続く方がいいに決まっている。
起きるなんて御免だと、菊花は唇を結んで二人の視線に否を唱えた。
「起きねぇなら置いてくかぁ」
「だな」
どこに、と。湧いた疑問符が二人の行方に興味を持ち始める。
「菊花、いい子で寝てろー」
「…っ…や」
「菊花?」
ぎゅっと力を込めたのは、繋がれたままの竜胆の手。それに気付いた竜胆が、やはり語尾をあげて顔を覗き込んでいる気がした。
「行かないで」
起きるから、どうか置いていかないで。
もう一人で置いていかないで。
言葉にしたくても出来ない声が、息だけで離れていこうとする二人を呼び止める。
「……菊花?」
今度は同時に、今にも泣きそうな声を出すふたつの顔に、菊花は「ランちゃん、リンちゃん」と呼びかけた。