きっと繋がる理想郷
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バレンタイン前日の出来事を思い返せば思い返すほど、穴があったら入りたくなる。
あれからもう一週間が過ぎて、気が付けば2月21日。蘭と竜胆から音沙汰はないものの「無事に渡せました」とエマとヒナから報告が来て、自分も「ちゃんと渡しました」と返して、また顔が赤くなるのを自覚する。
「食べて……いや、期待はダメ」
捨てられていると思うことで平常心をなんとか保っているのもどうかと思うが、現状この方法以外に真顔になれる方法がない。でなければ、いっきに顔がゆるんで一日中へらへらと笑っている変な人になってしまう。
「好き…キライ…好き」
リビングの花瓶に差した花を指さして唱えてしまうくらいには浮かれている。
ただ「好き」と自覚しただけで、世界が急にカラフルになったみたいだった。
「ランちゃん、リンちゃん」
名前を呼ぶだけで特別な気持ちになれる。試しに「蘭」「竜胆」と呟いてみたら心臓が破裂したみたいに爆発して、リビングのクッションめがけて「いやー」と叫んだのはつい五分ほど前の話。
「あ、誰か来た」
時刻は夕方の六時すぎ。お手伝いさんが帰ってしまったので、自分が来客を対応するしかない。
菊花は悶えていたソファーから立ち上がってインターホンを覗き込む。
「お届けものです。灰谷さんのお荷物ですが、住所がこちらで。お隣が留守みたいなので確認してもらえますか?」
いつもとは違う宅配の人なので、勝手がわからなかったのだろう。
菊花は「はーい」とインターホン越しに返事をして、業者から段ボールを受け取り「間違いないです」と受取サインを紙に書き込む。
「ありがとうございましたー」
営業スマイルで帰っていった業者を見送って、菊花は手に持った段ボールに少しだけ疑問を抱いた。
「いつもうちに配達するときは私の名前なのに。灰谷、どっちのだろ?」
カットケーキを買ってきたくらいの小さな段ボール箱についた宛名が普段とは違う。
たったそれだけの事だが、ほぼ毎日といっていいほど見慣れた宛名と違うことが妙に引っかかって、菊花の好奇心が刺激された。
「大きさからして香水かな、ちょっと重たいし」
箱を軽く振ってみて、香水なら開けても怒られないだろうと勝手に判断する。
「何が出るか…ぁ…なぁんだ、ジョークグッズじゃん」
鼻歌交じりでガムテープを引っ張り、箱を開けた瞬間、菊花は予想外のそれに落胆の息を吐いた。
箱の中身は黒い拳銃。
説明書きはどこにもない。持ち上げてみた感じは玩具と思えないほど重く、質感も冷たさも本物みたいに精巧に作られている。
「うっわ…いくらするんだろ。あのナイフみたいに五万とかじゃないよね?」
海外から本格的なものを取り寄せるのも蘭や竜胆なら有り得ない話じゃない。
何に使うのかは知らないが、いくらなんでもこれはやり過ぎじゃないかと、菊花は自分のことを棚にあげて思う。
「あ、これ、前にランちゃんに見せられた映画に出てきたのと同じやつだ。たしか、こうやって…おお、使い方も本格的…ふふ、もう逃げられないぞ。覚悟し…キャッ」
ふざけて引き金を引いた瞬間、低く空気が震える音がして、気付いたらリビングにある巨大な花瓶が砕け散っていた。
「……え?」
キーンと耳鳴りがして、手がびりびりと震えている。
どうして自分は尻餅をついているのかも瞬時に理解できないほど、菊花は何が起こったのかわからずに放心していた。
「あ…っ…」
床に落ちた黒い無機質な物体が途端に怖くなる。
玩具じゃなくて本物。
その事実に腰が抜けて全身が震えてくる。
「…ぁ…あ…」
蘭か竜胆に連絡しようと携帯を探して、すぐにやめた。
これが本当に蘭か竜胆、どちらかが調達した代物なのであれば早急に隠したほうがいいだろう。こんなもの、たかが喧嘩や乱闘に持ち込むものじゃない。
そう答えが出れば、意外と行動は早かった。
拳銃から指紋を丁寧にふき取り、箱に戻して、何事もなかったようにガムテープで巻き付ける。届いたときと同じ、パッと見はわからない。
これならクローゼットにしまっておいても大丈夫だと、菊花が安堵の息を吐いた時、再度インターホンが鳴り響いた。
「……稀咲くん?」
「こんな時間にごめん。荷物を受け取りに来たんだ」
「……え?」
インターホンのカメラ越しに見える顔は、以前灰谷家の前で会った人物と同じ。
時計を確認してみると、いつの間にか夜の十時を回っていた。
「小さな荷物が届いただろ?」
「え…あの」
「蘭と竜胆が受け取って来てほしいって、頼むよ。あいつらを待たせたくない」
どうするべきか、悩んでいる時間もない。手には拳銃の入った段ボール。それを渡せと要求されている。
だけど本当に?
仮に蘭と竜胆が望んでいるとして、こんなに危ないものを「受け取る」行為にあの二人が第三者の手を借りるだろうか。
「菊花さん?」
「あの、荷物は」
「届いたのは知ってるんだ」
カメラ越しなのに見つめてくる視線にゾッとした。そして本当になぜかわからないが、菊花は段ボールを持って稀咲の待つ門扉まで出て、震える手でその箱を渡していた。
「ありがとう。念のために聞くけど中は開けてないよな?」
口の中が急速に乾いていくのがわかる。
「うん」と答える声が、声になっていたのかもわからない。
その中身は紛れもなく本物だ。言わなくてもなぜか、稀咲はそれをわかったうえで受け取りに来たようにしか思えない。
思えないからこそ、それ以上は何も言えなかった。
「ぅえ…っ…ぅ…ぁ」
稀咲が帰り、無事に家に入った途端、急激な吐き気が襲ってきてトイレで吐いた。
今から花瓶を片付けなくてはいけない。
銃痕が壁や床に残っていなければいいが、もし仮に残っていた場合、何かで誤魔化さないといけないだろう。
「…ぅ…」
まだあの目が忘れられない。
両親に連れられて参加した懇親会で肩を抱いてきた色惚け親父のほうが、まだましだと思えるほど、インターホンのカメラ越しに見つめてきた稀咲の目が忘れられない。色のない瞳。怖くて気持ち悪い。
何が本当で、何が嘘なのか。わからないけど聞きようもない。
「拳銃なんて何に使うの?」
無邪気な問いかけをしたら最後、どこまでも深い闇に葬られそうな漠然とした感覚。蘭と竜胆が、あの二人が自分の手の届かない場所まで行ってしまったようで怖かった。
恐怖を和らげてくれるのは、いつも決まって蘭と竜胆だった。それなのに、もう一緒にはいられない。
怖くてきっと震えてしまう。
三人並んで川の字で寝たのがずっと遠くに感じられるほど、暗い気持ちに押し潰されそうになる。
「…ランちゃん…リンちゃん」
いまにも叫びだしたくなる身体を抱いて、一人でベッドに潜る夜は、今までのどんな夜よりも長かった。