きっと繋がる理想郷
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日を重ねるごとに蘭と竜胆は、家に寄り付かなくなった。
天竺がバンドだという誤魔化しも通用しなくなってきて、お手伝いさんが近所の奥様から入手した噂によれば、灰谷家の評判は悪化の一途をたどる一方だった。ただでさえ目立つのだから自重してほしいという願いもむなしく、菊花は「灰谷兄弟とは一切関わっていません、安心してください」という体裁を保つことを余儀なくされていた。
「……はぁ」
重いタメ息を吐く自室でひとり。
時々帰ってくる蘭と竜胆は、やはり今日も不在。
タクシーで学校と家の往復、塾に通う程度の生活しか送っていない菊花には、想像もつかない日常を送っているのだろう。それは別にかまわない。
女か、喧嘩か。
本能のまま突き進む灰谷兄弟に首輪はつけられない。飼えばたちまち狂犬注意と主人ですら手を焼くことだろう。
「菊花、用意できたの?」
「すぐいくー」
二月頭。珍しく両親そろって外でご飯を食べようと誘ってきた。
小さなころからの恒例行事。当初は喜びもしたが、年齢を重ねるにつれてこの行事が何を意味するのか理解してからは、ハッキリ言って苦痛でしかない。
「他の方をお待たせし……あら、素敵じゃない」
ノックもせずに娘の部屋に入るなり、頭の先から足の先までを往復した母親の顔が満足そうにうなずいた。
「そのワンピース、自分で買ったの?」
「……うん」
本当は蘭とのデートで買ってもらった服であることは口が裂けても言えない。
品定めするように近付いて何度もうんうんとうなずく母親は、そのまま菊花の顔を見て「よく似合ってるわ」と褒めた。
「ありがとう」
褒められると少し嬉しい。
浮かれた心を誤魔化すために髪を耳にかけてみると、また何かに気付いたのか母親は「まあ」と顔を近付けてきた。
「口紅?」
「え、あ、これは。色つきリップ」
「そう。中学二年生にもなると、色々興味を持つのね」
にこりと笑う顔をじっと見つめる。
年に一回。お正月でも誕生日でもクリスマスでもなく、二月最初の日曜日に開催される恒例行事でだけ菊花の家族は全員で必ず顔を合わせる。
「今年はおじいちゃまがいないけれど、きちんといい子でご挨拶するのよ?」
「……はい」
「そうだ、菊花。お爺様の退院が予定より早まって再来週に決まりそうだ。またメールするからその日は病院に来なさい」
「……はい」
乗り込んだタクシーで母と父に返事をしながら向かうのは都内有数の高級ホテル。
ホテルのメインホールらしい場所で開かれるどこぞの財閥が主催する懇親会。天井にはシャンデリア、立食形式のビュッフェ、オーケストラの生演奏、そこに集まる着飾った人々。政治家、芸能人、医者、弁護士、有名メーカーの社長、精神気鋭の若手IT実業家に至るまで、名のある著名人たちが「今年もご贔屓に」と挨拶するだけのパーティ。
そして将来を継ぐ娘や息子たちの「顔見世」であると菊花は知っている。
「南茂教授、新年あけましておめでとうございます」
「やあ、キミも来ていたのか」
「ええ。そちらはもしかしてお嬢様ですか?」
「南茂菊花と申します」
微笑しながら名乗り、目線を外さず腰を少し下げて上げる。今夜一発目の記念すべき挨拶だが、父や母が何も言わないので、この相手にはこれだけで正解だろう。
「教授」と語尾につけば父の知り合い。
「博士」と語尾につけば母の知り合い。
息子をつれてくれば「お見合い相手」その場合、菊花が気に入らなければ自分からは名乗らなくても良い。
「ほぅ、一年会わないだけでとても綺麗になって」
「将来が益々楽しみでしょう?」
「これはこれは、うちの倅には勿体ないくらいの美人だ」
ニコニコと愛想笑いを貼り付けて、あいさつ回りをする父と母の後ろをカルガモの親子のようについて歩く。姿勢を正し、寡黙に出しゃばらず、与えられた役割をこなすことに専念する。「南茂家のご令嬢」の評判が、両親の仕事に影響を及ぼすことも知っている。
酒が進むにつれて独特の空気が渦を巻いて濃くなっていくように感じるが、それを「異常」だと感じるのは少数派だろう。
「お母様、夜も遅いですし私はそろそろ」
「ん、ああ。そうね。タクシーで帰りなさい」
「はい」
「なんだ、もう帰るのかね。おじさんの酒に付き合いなさい、よい経験になる」
肩に手をまわしてくる壮年の男に悪寒が走る。
「愛想を振りまいて下手に出てればこの親父」などという暴言はもちろん吐けない。
社交界では親の顔を潰せない。同時に、助けてもらうには相応の借りが発生する。
自分以外に頼れる人間がいないことを痛感するにはぴったりの環境だった。
「まあ、おじさま。それは菊花がお酒を飲めるようになってから言ってくださいませ」
「うーん、しかしだなぁ」
「明日は朝から学校がありますし、寝坊して遅刻なんてしたら笑いものになりますわ」
よよよと、か弱く泣くふりをしながら距離をとる。
それでも渋る酔っ払いに、菊花はそのまま上目づかいでじっと見上げると案の定、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえてきた。
「良い経験はそのときに」
敬語を失くして笑みだけを濃くする。
ふと肩から腰に降りかけた手のゆるみを利用して、菊花はすっと身体を離した。
「おやすみなさいませ」
颯爽と退散する。振り返るなんて野暮な真似はしない。
どこでどんな人間が見ているかわからない。菊花は両親の顔も見ることなく、ひとり会場をあとにした。
「…ぅ…っ…はぁ、はぁ…ぅえ」
一階ホテルのロビーまで降りるエレベーターに乗り込んで、一人だと認識した途端、猛烈な吐き気と呼吸困難に襲われた。息が出来ない。どうして自分の親は、毎年あの場に平然と居続けられるのかが理解できない。
「気持ち悪い」
汚れを払い落とすように触られた肩を払ってみても、一向に気持ち悪さはなくならない。
もう勘弁してくれと息をついたところで、エレベーターが到着を知らせた。
「……おっと」
同時に隣のエレベーターも到着したのか、出てきた相手の歩幅とふらついた菊花がタイミングが重なり、バランスを保てなくなった菊花の身体は年の近い男の子の腕のなかに収まっていた。
「大丈夫か?」
そう言われて菊花は慌てて笑顔を貼り付ける。
せっかくここまでうまくやってきたのに、これが先ほどのパーティーに参加していた誰かの息子であれば最悪な未来しか予測できない。
「ええ、お気遣いありがとうございます。少し驚いただけですわ」
「にしては顔色が悪いな」
「ホテルの照明がそう映すのかもしれませんね」
酔っ払い親父と違い、立たせてくれた手に嫌悪感はない。
無理矢理つくった声と顔でお礼を言ったものの、長居をするつもりももちろんない。相手が目をパチパチしている間に消えるのが定石、菊花は「では」と立ち去ろうとする。
「タクシーで家まで送る」
「結構です」
「ぶつかった詫びだ。遠慮するな」
「いえ、遠慮とかではな…ちょ、どこ触って」
「後をつけられてる。いいからさっさと乗れ」
「え?」
急に馴れ馴れしく身体を近づけてきた顔が、耳元で不吉なことを囁く。
会場から菊花が消えて追いかけてきた誰かか、その息子か。バタバタと走ってくる足音に思わずタクシーに乗り込めば、振り返った視線の先にそれが事実だったことを知った。
「美人だと大変だな」
「ううん、私じゃなくて金が欲しい人たちの手駒よ」
「手駒ねぇ」
「パパもママも毎年、毎年、よくも飽きずに参加出来るわ。今年なんて酔っ払いの親父に肩組まれたんだから、あの目、思い出すだけでゾッとする」
「そっちが素?」
「……あ」
自分を抱きしめて身震いを再現していた菊花は、そこで初めて自分が仮面を外していることに気付いた。
「……最悪」
がっくりと肩を落として、最後まで演じきれなかったことを悔やんでももう遅い。会場では見かけなかった顔だが、親が失脚する火種を自分からは作りたくなかったと自暴自棄にもなりたくなる。
「一応、助けてもらったからお礼を言います、ありがとうございます。正直とても助かりました」
「オレは九井一」
握手をして、顔を見て、聞いたばかりの名前を頭の中で反芻するごとに菊花の口がパカリと開いていく。
「あの、間違ってたらごめんなさい」
「なにが?」
「もしかして、ココ、くん?」
「……は?」
「私、菊花。南茂菊花……覚えてない?」
相手の顔も面白いほどゆっくりと変化を遂げていく。そして記憶の思い出と一致したのか「菊花?」と叫ばれて、二人そろって笑いあった。
「まさか、こんなところで会うとはな」
「ほんとほんと、ビックリしちゃった。何年ぶりだろ、青宗くんは?」
「イヌピーとは、ちょっと喧嘩してて」
「珍しいね。でもココくんと青宗くんならすぐに仲直り出来るよ」
「……だといいけどな」
タクシーは六本木の街に向かって走っていく。行き先もなく「とりあえず出して」としかココが告げていなかったせいで、まったく逆方向に行ってたことは笑ったが、思い出話に花を咲かせられるなら安いものだ。
「あ、ココくん。ちょっと待っててくれる?」
自宅の玄関前で止まったタクシーから降りる前にそう声をかけると「もちろんだ」と返ってきたので、急いで菊花は家の中からあるものを取って戻ってきた。
「はい、これ。ずっと渡したかったの」
「なに……ッ」
「赤音さんと、青宗くんと、ココくんと、私。四人で撮った写真。と、ココくんが撮った赤音さんの写真。懐かしいでしょ、あのあと火事があって全然渡す機会なかったから、今日会えて本当によかった」
ココは何も言わない。写真を握りしめてじっと固まっている。
「ココくん、今日はありがとう。これ、私の番号だからよかったらいつでも連絡頂戴」
「……菊花」
「ん?」
「いや…なんでも、ない」
「うん、おやすみなさい」
走り去ったタクシーがどこへ向かったのかは知らない。
昔話に花を咲かせて帰ってきたけれど、今どこで何をしているのかまで話す時間はお互いどこにもなかった。