番外編
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
【灰谷蘭の歪んだ初恋~Side 蘭~】
ある日、隣の家にピアノが運び込まれた。
しばらくして単調なメロディーの繰り返しが聞こえ、それから二年ほどたった頃。当時七歳の俺は、たぶんめちゃくちゃ暇だった。
竜胆もゲーム機で何かの敵と戦っているが、たぶん暇。
俺が暇だから暇。
暇じゃなかったらゲームなんてしない。なんか面白いことねぇかな、なんてリビングにある大きな窓を開けたその時、聞こえてきた。
腹立つほどの不協和音が。
「は?」
原因は隣の家から聞こえてくる。
クーラーも暖房もいらない季節だと世間はいうが、窓を開けて風を感じるなんて普段はしない。それでも何気なしにこうして窓を開けてみれば、隣の家は恥ずかしげもなく窓を開けて、誰もが耳を塞ぎたくなるようなデタラメな音色を奏でている。
「兄ちゃん、窓しめて」
「んー」
「なに、あのヘタクソな音」
「なー」
ゲーム機から顔も上げずに命令してきた竜胆のために優しい俺は窓を閉めてやって、それから竜胆のゲーム機を有無を言わさず取り上げた。
「あっ!!」
なにすんだよと腕を伸ばしてくる。
いやいや、ゲームにそこまで真剣じゃなかったじゃん。なんでそこまでムキになってんのお前。退屈だったからヘタクソなピアノの音、聞こえたんだろ。
俺、悪くねぇし。
なんなら、面白いこと思いついたから一緒に楽しませてやるつもりだし。
「なー、行かね?」
「行くなら一人で行けよ」
「竜胆はあのヘタクソなピアノ、どんなやつが弾いてるか興味ねぇの?」
「興味ない」
「あっそ、じゃーいいや。一人で行ってくるわ」
ぽいっとゲーム機を返せば、すでに敵にやられていたのか、場面クリアが出来なかったのか、それは知らないが、竜胆がわかりやすくため息をはいてソファーから立ち上がる。
「なんだ、行くんじゃん」
こういうとこ、本当素直じゃないよな。
最初から「行く」つっときゃ、必要のないやり取りせずに済むのに。と、思いながらなんだかんだで俺も「ついてくるな」とは言わない。
「なぁ、兄ちゃんはどんな奴だと思う?」
「それをこれから確認しに行くんだろ」
「そーだけどって、え、そっから入るの?」
竜胆はバカ正直に玄関から行こうとしたらしい。
それでもいいかもだけど。そんなんじゃ弾いてる現行犯で逮捕できねぇじゃん。それに、断然不法侵入のほうが面白い。
「セキュリティ甘すぎてウケる」
「誰もこんな穴から入ろうなんて思わないって」
「野良犬だったらどうすんだよ」
「この辺に野良犬がいるわけないだろ」
「まーなー」
塀と石垣の合間にできた小さな穴。子ども一人が通れる程度の小さな穴。前に庭の改修工事をしたときに業者が修繕し忘れたとかっていうのを聞いて、一応忍び込むときが来た時のために目星をつけておいた。
まさか、役に立つ日が来るとはな。
野良犬じゃなくても、俺らみたいな悪ガキが不法侵入してくる場合もあるんだから、管理はやっぱりちゃんとしておいたほうがいいと思う。
「おい、竜胆。こっち」
葉っぱだらけの竜胆が何か文句を言ってるが、内容は知らない。俺はやはり開け放たれていた窓から漏れるピアノの音が大きくなったことに言いようのない興奮を感じていた。
ダンジョンに忍び込んで宝箱を見つけたときのような。
「いったいどんな奴が弾いてるんだろうな」
声を潜めて、見つからないように体を寄せ合って、俺と竜胆は同時に窓からその家の中を覗いた。
「っ」
小さな女の子が全身を揺らしながら小さな指で鍵盤をたたいている。
眉間にしわを寄せて「ど」「み」「そ」と唇を尖らせながら指と譜面を交互に見つめて、「ど」「ふぁ」「そ」になっていた。
それが左手も合わさると不協和音に早変わり。
「へたくそ」
二年も習って、こいつこれかよ。
終わってんな。
白けた声がどうやら聞こえてしまったらしい。ピアノの音がぴたりと止んで、目をぱちぱちした顔の女と目が合った。
うん、ピアノ似合わねぇ。
人形みたいに大人しく座って、愛想振り撒いてるほうが、だいぶ世間のためだ。そういう意味で「はっ」と笑って、俺は興味が失せたように目をそらした。
その瞬間、怒りに顔を歪ませた顔でどたどた近づいてくると「へたくそじゃないもん」と大きな声で叫ばれた。
「うっせ」
竜胆も隣で耳を抑えて迷惑な顔をしている。
俺もたぶん、迷惑な顔をしていた。それなのに、女は謝ることもなく涙をためた大きな目で「へたくそじゃないもん」と二回目の大声を繰り返してきた。
最悪だ。
不協和音を聞かされた挙句、近所迷惑もわからないガキに苛立ちが増す。
「竜胆、行こうぜ」
「うん」
言いながら竜胆は気になるらしい。
やめとけ。そいつを恋愛対象にいれないほうがいい。
なんとなくだけど、そう思った。
窓際で涙をこらえた顔がじっと見つめてくる。熱い。理由なくそう感じさせる目だな、あいつ。
「逃げるの?」
「……は?」
「わかった。菊花にへたくそって言いながら、自分の方がヘタクソだから逃げるんだ」
こいつ、まじでうぜぇな。
誰が逃げるって?
少なくとも俺はお前よりましな音を出せる。はずだ。弾いたことねぇけど。
「じゃあ、弾いてみてよ」
どうぞと家に招く売り言葉に乗ったのは言うまでもない。
広いリビングに置かれたグランドピアノ。椅子の高さを合わせるとか知らない。そもそもピアノなんか興味ない。
ま、適当に叩きゃいいんだろう。
「どみそそふぁれど、うんうん、どみそを一緒に。だよ?」
「うんうん、なー」
「わかった?」
「わかんないな」
「それじゃあ何を弾くの?」
「適当」
それから俺は本当に、適当もいいところの旋律で白と黒の鍵盤を叩いた。意外といい音が出るなコイツと弾いているうちに苛立ちがどこかに消えた。
このピアノ、いいじゃねぇか。
持ち主が才能ないとかマジ終わってんな。高音も低音もきれいな音で響いてくれる。
宝の持ち腐れとはこういうことを言うのかと、俺は適当に終わって椅子を降りた。
「どうだ、お前よりマシだったろ?」
ずっと下を向いてこぶしを握り締めたまま動かない自分よりも年下のガキの顔を俺は覗き込む。
泣くか、怒るか。
だったらどっちが上か、躾ければ問題ない。
そう思ってた。
それなのに、俺が覗き込むと同時にその顔は興奮した様子で飛びついてきた。
「すごい、すごい、すごい。お兄ちゃんピアノ習ってたの?」
「習うか」
「きらきらってして、ぶわぁってして、ぎゅってなって、すごかったね」
「誰でも出来んだろ、こんなもん」
「ねっ!」
同意を求められた竜胆まで引いた顔をしている。
つくづく俺らの感覚と真逆を行くやつだな。
「菊花のことヘタクソって言っていいよ」
満面の笑みでぎゅっと握られた手が熱い。
こっちの真意なんてどうでもいいと言わんばかりの大きな目に、見つめられ続ける視線が痛い。
「ね、さっきのもう一回して」
「めんどくせー」
「おねがいします」
元気だけは無駄にあるのがガキのすごいところだ。
ここはどうにか解放される言い訳を探すしかない。
「あー、俺、実は一回しかピアノ弾いちゃいけない病気だったわ」
「えっ」
明らかに絶望した顔に変わる女の表情に、嘘が通じたことを知って俺は笑った。竜胆が隣からもの言いたげな目で見ているが、仕方ないだろ、兄ちゃんは早く家に帰りたい。
「だから、もう弾けねー」
「そ、そんな」
「残念だな」
「ごめんなさい」
今度はボロボロと泣き始めて、俺は自分の目を疑った。
竜胆は目を細めて何か言いたそうな顔をしている。やめろ、兄ちゃんを見る目じゃないぞ、それ。
「ごめんなさい、大切な一回を菊花のために…っ…」
これだけ泣かれると今更「嘘でした」なんて言えない。
「りんどー」
「は、いやだよ」
「兄ちゃん困ってるー」
「自業自得だろ?」
「りんどー」
「だから」
「リンちゃん」
「……っ」
いや、本当お前。女の趣味悪いからな。
涙でうるうるした顔で見つめられて顔赤くしてんじゃねーよ。自分の兄貴が困ってるの見てわかるだろ。優先順位はこっち。
俺を先にどうにかしてから、よろしくやれ。
「リンちゃん、ごめんなさい」
「いいよ、兄ちゃんが全面的に悪いし」
「おーい、りんどー?」
頭をなでてないで、この手を振りほどくように持ってけっての。あー、もー、めんどくせ。
「俺、帰るから、手ぇ放せ」
「お兄ちゃんの名前」
「兄ちゃんは、蘭。オレは竜胆ね」
「らん…ランちゃん、と、リンちゃん」
よし、覚えた。じゃ、ねーの。
たしか、こいつの名前はなんだっけか。ああ、そうだ。
「菊花」
「すごい、どうして菊花の名前わかったの!?」
「さっきから自分で名乗っててわかってねーの?」
「ランちゃんは天才なの?」
「そーね、そーかもねー」
「天才の人にはギュってしてもらうのがいいってパパが言ってた」
「あー、親がバカだから娘もバカなパターンな」
「ランちゃん、ギュってして」
まじか。
竜胆、そんな目で俺を見るな。うらやましいならお前が代わりに抱きしめてやれよ。
「兄ちゃん、早くしてあげなよ」
「えー」
「泣かせたんだから。それで終わりゃいーじゃん」
「それもそうかー」
しゃーねぇな。
んじゃ、ま。ぎゅっ、と。
「……」
こいつ、抱き心地よくね?
「……」
うん、しっくりくるわ。抱き枕とかにしてぇ。
いいにおいするし、ふわふわやわらかいし、寝るときあったら爆睡できそう。
「あの」
「んー」
「……らんちゃん?」
「んー?」
もじもじと腕のなかから見上げてきた顔が近い。
自分から誘ったくせに照れているのか、想像以上に長い抱擁で居心地が悪いのか、それとも知っているギュっと違ったのか。ま、どうでもいいけど。
それでも俺の気が済むまでじっと動かないでいてくれる顔に、初めて「あ、こいつ可愛いな」と思った。
「兄ちゃんばっかりずるい」
なにがずるいんだよ。何もずるくねーよ。
あ、強引に奪い取ろうとすんな。
俺がいま、現在進行形で堪能してるとこだろ。
「菊花」
「ん?」
「次はオレの番」
「……」
「んな顔で、俺をみんな」
わかったよ、離せばいいんだろ、離せば。
仕方なく竜胆の手に渡した瞬間、名残惜しさが胸をついた。
なんだこれ。
もう欲しくてほしくてたまらない。
竜胆も同じ顔をしている。さすが俺の弟。女を見る目がある。
それからことあるごとに菊花に「抱かせろ」「抱かせろ」言ってたら、案の定、菊花の父親に目をつけられて出禁になった。
そのころには菊花の方から俺らん家に遊びに来るようになってたから問題はない。
「ランちゃん」
何も知らない顔をして、俺の名前を呼ぶ。
いつまでも何も知らないあの頃のまま、どうか俺の腕の中だけで生きていけばいい。年齢が増すごとに沸き立つどす黒い感情をぶつけたい。
見つけたのは俺だ。
あの日、風が運んできた音色が俺を菊花に導いた。
「菊花」
誰にも渡さない。
だからさっさと俺に抱かせろ。