まだまだ、陸の青さを知らない
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《sea08:三匹の海獣》
時間は遡り、オークション当日の日没前。
夜よりか幾分落ち着いた人々の話し声が忘我の谷を流れていく。滞在する人、退去する人、身を隠しに来た人もいれば、一攫千金を夢見てたどり着いた人もいる。誘惑に魅了されればそこは天国、そして同時に地獄ともいえる両極端の場所。
「大きな耳をしたゾウが空を飛ぶのをみたいですわ」
「それよりも次々とロバになっていく哀れな少年たちがいるそうだ」
「いや、何といっても今夜のオークションだろう」
「久しぶりに人魚が出品されると聞きましたぞ」
「人魚は素材からして今や人気の品。ぜひとも競り落としたいですな」
貴族たちは金をちらつかせ、その金を巻き上げようと人々は趣向を凝らす。
店先に並ぶものは珍しい品ばかり、生きているものから死んでいるものまで幅広く、鮮度も価値も価格も人気も自由に定められて並んでいる。
仮面の下に潜ませた醜い本性は隠す必要がなくなった途端に、下世話な息になって露出していくのだろう。どれだけ上品な装いをしていても、聞くに堪えない会話は至ることろで耳にすることが出来た。
「大変だ、港に停泊していた船が沈んだそうだ」
「なんだって。うちの船じゃないだろうな」
まだ日没前とはいえ明るい時間。開催されるオークションを目当てに客足が途絶えることなく入港していた海岸で、突如停泊していた一隻の船が沈んだ。
現場は惨劇。
船底から空に向かって、巨大な刃が飛んで行ったとしか思えない状況に、集まった人々は悲鳴を飲み込んで戦慄していた。
「いっ・・いったい、何が起こったんだ?」
遠巻きに眺める人々が首をかしげるのも無理はない。
血だらけの人間が複数人、生死が判断できるかどうかの微妙な具合で呻いている。周囲は赤い色が飛び散り、船長らしき男に至っては船のマストに十字の体勢で縛り上げられて野ざらしにされていた。
「海賊同士のもめごとか?」
「ああ、なんて物騒な。これだから野蛮な海賊は相手に出来ないんですわ」
「怖い、怖い。関わり合いたくないものですわね」
仮面をつけていても顔を背けたくなる現状。それも忘我の谷では些末な事件のひとつに過ぎない。
人が人として尊厳を維持し、権利を主張できるのは、すべて法で守られた元であると知らなければ、ここに足を踏み入れること自体が間違いに他ならない。無法地帯で守れるのは己の力のみ。それを知っているものだけが、この谷に入ることが許され、また生きて出ることが許される。
残念なことに、哀れな船乗りたちはそれが出来なかったがために海の藻屑と化した。
ただ、息亡き彼らの代わりに弁明するなら、怒らせた人外の魔物たちから身を守れるものはそう多くはないと付け加えておくべきだろう。
「ひっ・だ・たっだずげ・ッ」
オークションが終わって金を得るまで、甲板で怠惰な余暇を過ごしていた船乗りのひとりは、体中の酸素を泡に変えながら海底に引きずり込まれていた。
服の首元を捕まれ、浮力に逆らうように深海まで沈んでいく体の端には長い尾ひれが揺れている。
人魚。陸に生きる人間と同じように千差万別の姿があるのだと、海水を大量に飲み込む船乗りは初めて知ったに違いない。
「おやおや、フロイド。人間は海のなかで息が出来ない生物なんですよ?」
「ええ、そうだっけぇ。俺、興味ねぇから知らなかったぁ」
「それにしては一番、お話しをしてくれそうな人間を選んで連れてきてくださいましたね」
「俺、えらぁい」
脳に直接叩き込まれるかのような音響。酸素を求めて苦痛にもがく身体でも、なぜかその声は聞こえてくる。
水圧で軋む体に巻き付くのは、よく似た二体の深海生物。人間では考えられない長さの身体を自在に操り、鋭い歯と爪をちらつかせて、不気味な笑みを浮かべている。
「おやめなさい、フロイド、ジェイド。大切なお客様です」
助かったと安心するのはまだ早い。
まだ太陽が顔を見せている時間だというのに、黒い闇を連れて現れた人魚のせいで男の顔は絶望に染まっていく。逃げだす希望を失ったのか、フロイドとジェイドに巻き付かれた人間は抵抗するのをやめてアズールの姿をじっと見つめていた。
「この姿は久しぶりですが、やはりタコの人魚はあなた方稼業の人間からしても珍しいのでしょうね」
紳士的な態度で話しかけてくる黒い人魚。崇高で神秘的だとさえ表現できるその姿は、伝説として語り継がれる海の魔女を連想させる。
「初めまして、アズール・アーシェングロットと申します。さあ、僕と取引をしましょう」
天使のような笑顔で何を言い出すのか。綺麗な顔と裏腹に、一切の色を失くした瞳が恐怖を煽ってくる。
状況を把握するのに時間を費やしていた男は、自分が海の中にいるのを思い出したのだろう。再び酸素を求めて暴れ始めていた。
「苦しいでしょう。人間が海で呼吸をするには方法が二つしかない。ひとつは海の上に顔を出すか、もうひとつはこの魔法薬を服用するか。お好きな方を選んでいただいて結構ですよ、僕は慈悲深いので、今すぐ殺したい感情に駆られていても待つことが出来ます」
指先が触れるか触れないかの距離でちらつく小瓶。腕を伸ばして奪い取りたくても、男にそれは出来ない。
どこが慈悲深いのか問いただしたくなる。魔法薬を強制的に選択させる状況で、何が「好きな方」だと、男は死の淵で藻掻きながら必死の形相でアズールを睨みつける。けれど、その視界は無慈悲に反転して左右対称の双子の顔を写していた。
「ねぇ、アズール。それじゃあ、俺たちが待てないみたいじゃん」
「実際、待てませんでしたしね。少し尾ひれに力を込めただけで、真っ二つになる船にも問題があったのではないかと思いますが」
「言えてる。あれは脆すぎ、大事なものを運ぶなら、もうちょっとちゃんとした船にしたほうがいいよぉ」
「ちょうど壊れたことですし、新調なさるときはぜひ頑丈な船をおすすめします」
海でも笑い声はこだまするものらしい。
渦巻くように反響する双子の笑い声を聞いていると、どんどん意識が遠くなっていく。
「ご覧の通り、僕のツレは少々短気で凶暴だ。海の上に顔を出す前に、底にたどり着かなければいいのですが。ああ、あなたはこの魔法薬をお望みでしたね。では、この契約書にサインを」
金色の羊皮紙と魚の骨で出来たペンが眼前に踊る。
迷っている時間はどこにもなかった。男は自分の名前を即座に書くと、小瓶を奪い取るようにしてその中身を一気に飲み干していた。
「どうです、海で呼吸が出来る気分は」
「さっ・・・最悪だ。俺を捕まえて一体どうしようってんだ」
「いやですね、捕まえるだなんて。我々は対等な契約関係にあるのですから」
「たっ対等だと?」
「あくまで契約上の話です。ですので、あなたは私に対等の証として対価を支払って頂く必要があります」
「対価・・・対価ってなんだ、俺から何を・・・」
「先ほども言ったでしょう。殺意を抑えているだけだと、見苦しく騒ぐな」
八本の足は自由自在に動かせるらしい。それぞれが主人である本人の意思で動いているのかどうかはともかく、息を吹き返した人間を黙らせるくらいには役に立つ。
「彼女ではなく僕を獲物に選ぶべきだった」
聞き取れないほどの小さな声で呟いたタコの人魚は、その圧力で絞め殺しかけていたことに気付いたのか、人間の捕獲を再びフロイドに任せるようにして離れていく。
「僕はね知りたいんですよ。あなた方がはるばる珊瑚の海から連れ去った、赤い髪の人魚姫が今どこにいるのかを」
「どっどうしてそれを、誰にも知られないように最善の注意を払ったはずだ」
その瞬間、対価として要求されているものの正体を確信した男の態度が豹変し、発動した攻撃魔法がアズールの方へ向かっていく。
「この期に及んで魔法で応戦するとは愚かな。しかし、この程度の魔法で生きていられるとは、攫い屋稼業はラクでいいですね」
「っな・・・なんなんだ、お前たち・・・」
「雑魚にしては頑張るじゃん。偉いねぇ、よしよししたげる」
「フロイド、それでは頭が割れて死んでしまいます。ふふ、僕の兄弟がすみません。でもわかってくださいね、氷を砕き、毒を蒔き、痕跡を残さないように魔法をかけたうえでの犯行、追跡魔法や魔道具が反応しなくてとても困りました。ここまで追いついた労力を考えていただければ、これくらい可愛いものでしょう。ああ、そんなに怖がらないで」
逃げだす方向へ切り替わった男の身体は進行方向を塞がれて、困惑の表情のまま固まる。
黄金色に光る瞳を見つめていると、意識が根底から奪われていくような錯覚に陥っていくのだから無理もない。
「あなたの力になりたいんです、ショック・ザ・ハート」
その声を最後に男の記憶は途切れていく。沈んでいく。
代わりに、美しい赤に染まり始めた水面に昇っていく三体の人魚を視界に残しながら、男の体は深海の闇に溶けて消えた。