まだまだ、陸の青さを知らない
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《sea07:オークション》
初めて訪れる陸というのは、目がいくつあっても足りない風景に満ちている。
戦闘に傷付いた船が空を飛ぶこと丸二日。
ステラを乗せた人攫い一行は、忘我の谷と呼ばれる目的地に到着していた。
特に管理している国や機関は存在しないため入国審査もなく、許可書もいらない。どうやら大昔に行商人が、陸続きにあるどこかの国と国の間で身を休めるための場所として足を止めたのが始まりらしく、それが今でも流れとして続いている。昔は美しい風景と流れる川に旅の疲労を癒し、互いの情報交換の場所として栄えていたのだろう。滞在するのも、退去するのも自由気まま。
その気楽さがいつしか大地に根付き、時代が流れるにつれて負の遺産が蓄積されていったのは有名な話。「自由」そう言えば聞こえはいいが、無法地帯といえる場所だけに治安は悪く、今ではよい噂を耳にすることはない。人身売買、薬物、武器の受け渡しといえばまだ可愛い方で、絶滅が危惧される珍獣取引や危険な魔法素材の類もそこかしこで目にすることが出来る。
つまり各国で禁止されている非合法な行いが忘我の谷ではすべてがまかり通り、そのエサに誘われた悪魔たちがこぞって集まる最悪の場所。
文明が進んだ現代では、あえてここを目指さなければ誰も足を踏み入れることのない、いわくつきの土地。
忘我の谷ではどんな悪行も許される。いつしか各国の政府高官や貴族たちも足を運ぶようになり、様々な買い物を楽しむようになった。
忘我の谷を訪れる人々が仮面で顔を隠しているのは、おそらく、そう言った背景があるせいだろう。
「おい、丁重に扱えつってんだろ。今回のオークションの目玉だぞ」
突然の怒声にステラの入った水槽が大きく揺れる。
なんでも空から海に着水した船の倉庫から、暗幕で保護されたステラ入りの水槽を運び出すところで問題が発生したらしい。鎖で厳重に巻いた空気穴があるだけの四角い水槽を荷車に移動させる途中で、肝心の暗幕がずり落ちそうになっていた。
「っと、あぶねぇ。こいつが見られたら一巻の終わりだ」
「オークションが始まる前に俺たちの命が摘まれちまう」
運び出している男たちは仮面をかぶり、慎重に作業を再開させる。その一瞬、ステラは暗幕の隙間から見えた光景に思わず感嘆の吐息を零していた。
「すごいすごいすごい」
初めてみる陸の光景。
巻貝のように先端が尖った三角形が大小さまざまに大地を埋め尽くしており、仮面をつけた人々が往来している。空は月が支配する闇だというのに、小さな明かりがそこら一体に浮遊していて昼のような明るさに溢れていた。
「絶対傷つけるな。価格が大幅に下がっちまうからな」
「ああ、今回はこいつ目当てに来る客も多い。さっさと運んじまおうぜ」
動き始めた台座の車輪が回る。
ステラは一定に揺れる水槽のなかで、ずっと興奮が冷めない自分の状態に舞い上がっていた。
「陸、陸だわ。私、陸にいる」
「くそっ、鳴くな。バレたらどうすんだ」
人間にわかる言葉を使うことすら忘れるほど、ステラは外の世界が見たくてたまらなかった。せっかく憧れの陸にあがったというのに、このままでは何もできない。どうにかして外を見たい衝動に駆られて水槽を強く叩いてみたが、返ってくるのは同じ音だけ。
周囲はステラが運ばれていることに気付きもしない。
いや、彼らにとって得体のしれない物が運ばれて行く様子は馴染んだ風景のひとつなのだろう。ひとつひとつに興味を持てるほど異常事態は少なくない。
ここでは非日常が普通で、挙動不審は当たり前。醜い本性をさらけ出せると名高い忘我の谷で、ステラの身を案じる人は存在しない。
「もしかして、ここなら人間になれる魔法薬を売ってるんじゃない?」
大人しくしていろと言われた手前、ステラは声に出すことなく考えを巡らせる。
暗幕で視界を制限されていても聞こえる様々な声が、そこかしこで商売をしていることを伝えてくる。魔法薬を売る店、その素材を売る店、素材を得るための道具を売る店、他国で取引が禁止されたものほど高値で取引され、滅多に手に入らないものほど値は吊り上がる。
その究極がオークションなのだと、ステラは船の中で聞いて知っていた。
地面を転がる音に混ざって隣の人の声も聞こえないほど騒然とした空気が、異様なまでに支配する街。人間に変身する薬のひとつやふたつくらいあっても、なんら不思議はない。
「オークションは明日の夜だ。それまで大人しくしててくれよ」
周囲の喧騒を離れた薄暗い場所。
静まり返ったオークション会場の裏手にあるテントまでステラを運んできた男たちは、役目を終えたと言わんばかりにどこかへ消えていく。それと入れ違うようにやってきた別の人間が、暗幕をどけてステラを確認するなり、何か書類のようなものに丸を付けて去っていった。
「大人しくっていったって、この状態じゃ水槽から出るのも無理だし」
すぐそこに心を躍らせる輝かしい世界があるのに、じっと見ていることしかできない。実際には「見る」ことすら叶わない。暗闇で目を閉じて、耳から得られる情報だけで想像しなくてはいけないが、想像出来るほどの経験がステラにはなかった。
「どうしよう」
途方にくれたステラの息が、伸ばせない全身を窮屈そうに縮めていく。そしてどういうわけか急速な眠気に襲われて、ステラはそのまま深い眠りに落ちていった。
* * * * * *
目覚めたのは次の日。
いつの間に太陽が昇り、また沈んだのか。ステラが目を覚ましたのは、眩い光を一身に浴びた舞台のうえだった。
「それではお待ちかね。絶世の歌姫、珊瑚の海に生息していた赤髪の人魚です」
朦朧とした頭では何も考えられない。
暗闇に慣れていた視界が、熱のある照明の光に対応できていないのか、ぼやけた空間が歪み、仮面をつけた好奇な視線たちが自分を見下ろしていることがかろうじてわかる程度だった。
「・・・頭がぐらぐらする」
なぜかステラが水槽の中で動くたびに、歓声と拍手が聞こえてくる。
「すごく気分が悪い」
自然の力ではない何かに抑制されているみたいに意識がはっきりと働かない。
それが魔法か薬の効果によるものだと気付くのに、数分の時間を費やしてしまうほど、ステラの思考は鈍っていた。
「今は逃げ出さないように漬けていますが、傷一つない健康体。観賞用、愛玩用、研究用、どれにするのも落札者の自由です。そして今回の人魚はいままでとは一味ちがう」
「ッ・・・キャァァア!?」
電気よりも激しい痛みがステラを襲う。
何が起こったのかわからない。全身が切り裂かれるほどの痛みと恐怖に、混乱した脳が嗚咽と吐き気を連れてくる。
出したくて出すのではない悲鳴が自分から発していることに気付いた時には、ステラの両目から大量の涙が溢れていた。
「ご覧ください、両目から溢れるこの涙。ひとたび零れ落ちれば宝石に変わり、その価値は人魚の涙と言われる稀少素材のなかでも天下一品。かつて金のなる木が五億円で落札されましたが、今回はそれ以上の落札額が予想されるでしょう。ではまずは、お約束。本体の落札を始める前にこの天然素材、人魚の涙を百万マドルから開始します」
痛みを通り越して全身が熱い。
沸騰する鍋の中に放り込まれた魚の気持ちが今ならよくわかる気がする。
「じぇ・・ど?」
なぜかジェイドの姿が見えた気がした。
それでも確かめようはない。ステラは指一本まともに動かすことは出来なかった。無残にも剥がれかかった鱗が視界の端にうつって、火傷に似た肌の裂傷から滲んだ血が浸された液体に流れ出ていく。その目的が涙を得るためだというのだから最低だと文句を言いたくても、疲弊したステラの口は何も紡がない。
「・・・・ぅ」
無理矢理叫んだことで喉の一部が負傷したようだった。
窮屈な水槽、眩暈がするほど熱い会場、魔法で痛めつけられた身体は脆く、意識は徐々に薄れていく。
「人魚の涙、千三百二十五万マドルで落札決定です」
嬉々として弾む声が舞台の明かりに混ざって聞こえてくる。
木の打出が数回鳴らされる音が響き、自分では無価値だと思っていた涙の落札額が決まってもまだ、ステラは力なく項垂れたままでいた。
「それではお待ちかね、ここで本体のオークションに移行します」
これは夢なのだろうか。
「一億、一億二千万、一億五千おっとここで二億八千万が出ました」
憧れた陸は、愛すべき人たちの元ではなく、理不尽なまでの暴力へ導くところなのだろうか。
「さあ、まだまだ上がっていきます、三億、三億六千万、三億八千・・・四億二千万」
止まらない価格競争に会場がざわめいている。
どんどん人間たちの声が遠ざかっていく。聞こえてくるのは懐かしさすら感じるほどの波の音に似ている。低く、そして高く打ち寄せる波の音。うっすらとぼやけた視界には、海水がなだれこんでくる幻影すら見える。
幻影は海だけでなく、愛しく美しい流麗な尾ひれまで連れていた。
「・・・こんなことになるなら、フロイドに謝ればよかったなぁ」
意識を手放す直前、ステラはどこで間違ったのかに気付いていた。本当はとっくの昔に気づいていた。それでも会いたい気持ちが抑えきれずに、待つ我慢が出来ずに、意地を張って、悪い事態を引き寄せてしまった。
「ごめん・・っ・なさい」
窮地を助けてくれるのはいつも決まって同じ腕。
口調は怒りながら、それでも抱き寄せる腕は優しく、ステラは会場に乗り込んできた巨大な波ごと幻影の中を泳ぐフロイドに攫われていた。