まだまだ、陸の青さを知らない
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《sea06:空飛ぶ船》
誘拐されたにしては随分と快適な船旅をステラは送っている。
三食昼寝付きで運搬される不満があるとすれば、ヒレも伸ばせない窮屈な水槽に放り込まれ、呼吸をするための小さな穴が空いた蓋をされていることだけ。代わりに水槽が鋼鉄の鎖で頑丈に止められはしたが、身体に巻き付いていた網は取り払われ、傷がつくような事態は起こっていない。
野蛮な船乗りたちから暴力を振るわれることもなく、むしろ腫れ物に触るような態度で扱われている。
「痛めつけてでもなんでも、泣かせればいい話だろ?」
「バカ言え、一回泣かせて終わりって話じゃねぇ。あれは金になる魚だぞ」
「殺さなきゃいいじゃねぇか。どうせ来週の今頃には人魚姫はお偉方の慰みモノだろ。売り飛ばす前に土産もらう程度、別にかまわねぇだろうよ」
「オークション前に傷モノにしてみろ。本体の価値が下がっちゃ、それこそ俺たちの苦労が水の泡だぜ。舞台にあげる前は保存状態がものをいう」
「ああ、修復魔法が扱えるくらい魔力がありゃよかったぜ」
「違いない」
誘拐犯の一人が言うには、ステラの流す涙は一級品の価値があるということだった。人魚が生み出す素材の市場価値からしても、その地位は高く、下手をすればステラ自身よりも高値で取引される可能性があるという。
「てなわけで、この船旅は何がなんでも穏便に運ばなきゃなんねぇ」
「いつも襲ってる商船も今回は見逃したくらいだしな」
「ああ。その分、別の船には目をつけられてこのざまだ」
「たしかに、あれは見かけない船だった。だが、珍しい宝を手に入れたって船長は喜んでたさ」
捕獲されて五日目の夕暮れ。ステラはそんな男たちの会話を水槽の中で聞いていた。
船というのは、案外厄介なものらしい。
風がなくなれば速度は落ち、海流が変われば舵が乱れ、荒れた波に帆は奪われ、襲撃で壊された穴は即座に塞ぐ必要がある。
「・・・大丈夫?」
どこの海の上かもわからない場所で、ステラは穴が空いた壁の修理をする船乗りに声をかけた。
「今は忙しい、話しかけるな」
そう言いながら黙々と作業をしている男の顔には、相次ぐ不幸の睡眠不足にたたられて、ひどいクマが出来ている。青白いその顔は見覚えがあった。思わず声をかけてしまったのは、その姿が三日目の徹夜を迎えたタコの人魚とよく似ていたからだろう。
「・・・はぁい」
まるでアズールから拒絶されたような錯覚に気分が落ちる。陸にあがった人魚たちは、さぞ「忙しく」しているのだろうと、心までも干からびてしまいそうな気さえしてくる。
考えだすと悪い方向に転がっていくばかりで、少しも状況はよくならない。気分転換もままならない不自由な水槽では尚更、塞いでいくばかり。
ステラは退屈を隠しもせずに小さな息を吐くと、水面をヒレで叩いて気分を紛らわせた。
そもそもステラが収納されている格納庫に穴が空いたのは、つい二時間ほど前のこと。爆撃と共に海水が流れ込んできて、久しぶりの感覚に喜んだのも束の間、鎖で巻き付けられた水槽はステラを守ると同時に逃がしてくれなかったのだから仕方がない。
幸い、運よくここまでケガのひとつもせずに生きているが、本当にこれは「生きている」と言えるのだろうか。狭い水槽、暗い格納庫。腐った木の匂いと硝煙の香り。このまま一生、未来を誓い合った番たちと会えないくらいなら、いっそ気付かぬうちに泡になっていたほうが幸せじゃないかとすら思ってしまう。
「随分派手に穴が空いたもんだ。ったく、あいつら一体何者だ」
「見慣れない船だったが、妖精の粉を持っていたからな。案外、オークション関係者だったりしたのかも」
「ああ、その可能性もあるだろうさ。けど、こうも同業者で潰し合ってりゃ、忘我の谷につくまでに海の底だぜ」
「情報が漏れてんじゃねぇだろうな」
「まさか。だったらもっと死ぬ気で奪いにくるだろ」
修復作業をしている男たちが呟くには、この不測の事態は海賊船に襲われた結果とのこと。別にそれは珍しいことでもなんでもなく、奪い奪われは日常茶飯事。出会えば戦闘、勝敗のつけ方はいたってシンプル。命と宝のどちらか両方を得るだけのこと。
今回はステラを捕獲した船が勝利したらしく、戦利品として魔法の粉を手に入れたらしい。妖精国に住む小さな羽を持つ生物の鱗粉だそうだが、それをふりかけたものはどんな物体でも宙に浮かせることが出来るらしい。
つまり、今、船は海の上ではなく空を飛んでいるということになる。
すべて不確定要素なのは、ステラが実際にその目でみたわけではなく、目の前で愚痴をこぼす船乗りたちの会話を盗み聞いて知った話のため。真実の保証はどこにもない。
「大事な客人だ、一番奥に隠せ」
そう言われて、格納庫に水槽ごと押し込まれた孤独な身では、交代する見張り役の会話でしか詳細を知ることが出来なかった。
現在、修復作業要員としてステラの前にいるのは二人の男。
ステラが捕獲されたときに確認出来た人数は十三人だったが、実際にはその倍以上いる。船長を筆頭に何人かに分かれて役割を担っており、人数が少なくなるほど情報の濃さが増していく。おかげで、ステラは船の外を一切見ていないのに、目的地と自分の置かれた立場を認識することが出来ていた。
「・・・ぼうがのたに」
その地名を聞いたことがない。
ステラが知っている陸の名前は、ナイトレイブンカレッジのある「賢者の島」だけ。陸には多くの国があり、似た人種が集団となって様々な生活をし、文明を持ち、独自の文化を築いているとアズールから聞いたことはあるが、さすがに細かい地名までは聞いたことがない。
フロイドからも出会った陸の人間の話を電話口でよく聞かされたが、忘我の谷という言葉を使っていた記憶もない。
「・・・ボウガタケならジェイドが知ってそうだけど」
ジェイドが好んでいる「キノコ」という山に生える特殊な植物には似たような名前が多い。一度その話題に触れると何時間も解放されない機雷があるため滅多に触れなくなったが、「しいたけ」という名前を一時期飽きるほど聞いたので、その名残りがステラにありもしないキノコの名前を捏造させる。
そう考えると自分の思考のほとんどは、三人を中心に回っているのだなと痛感して、また溜息がこぼれそうになっていた。
「今度会ったら聞いてみよう」
そのためにも、なんとかここから脱出しようと思う気合いだけが、今のステラを保つ希望。
「チャンスは絶対ある。ほんの小さなミス、ほんのちょっとした穴、ただ一つのミスを見逃さなければ大丈夫」
人魚の言葉が人間にはただの鳴き声に聞こえるのか、ステラの独り言は作業をする男たちには相手にされない。どれほど決意を秘めた台詞を吐こうと、届かないのであれば何を呟いても呟かなくても結果は同じ。
行き先が未知の名前を持つ場所だろうと関係ない。ステラは必ず生じる小さなチャンスを逃さないために、じっと息を潜めてそのときを待つことにした。
* * * * * *
同時刻、夜の深海はかつてない闇に染まっていた。
見渡す限りの視界を「黒」という単純な色の名前で済ませることが、あまりにも軽率に感じられるほど、その闇は深く、濃いとぐろを巻いている。
深海の底でその闇を受けて黒光りするそれは、ステラが落とした例の携帯。液晶にはアズールの名前が表示され、その着信履歴は画面を埋め尽くすほど繰り返し残っている。
「ジェイド、フロイド」
言葉とは到底思えない冷たい波動で闇が呼んだのは二つの闇。
「やはり、携帯がある場所にいるわけではなかったですね。この辺りはステラの活動範囲を越えていますし、流されたというには何もなさ過ぎます」
「ステラに限って流されるとかありえねぇし、てか電話に出られない状況になってんじゃねぇよ」
「肌身離さず持っているように約束したものをこんな場所に置き忘れるなんて酷い話です。早急に理由を問い合わせたいところですが、ステラの気配はここで終わりのようですし、巨大なクジラにでも飲み込まれない限り理由が思い当たりません」
「アズール、俺、そろそろ限界なんだけど。全部、滅茶苦茶に壊したい気分」
渦巻く闇の原因は三体の影。タコ足を揺らす一体を筆頭に、左右を泳ぐのは金色の瞳たち。もしも誰か彼らの知り合いがいたとして、いや、いなかったとしても、今の姿を目にした者は誰一人として彼らに言葉をかけることが出来ないだろう。
緊迫した空気。
触れるだけで切り裂かれそうな殺気。
「フロイド、今は押さえてください。でないと僕も一緒に暴れてしまいそうです」
「あは、ジェイドのキレた顔、久しぶりに見た」
そのとき、深海に不釣り合いな音が無遠慮に鳴り響く。明るいコール音だけが不気味に空気を切り裂いて、持ち主が答えてくれるのを待っている。
「もしもし、親父?」
意外にも、その要望に応えたのはフロイドだった。弾んだ声で数回短い受け答えをし、今にも暴れだしそうだった雰囲気を静かな怒りに変えていく。
暗闇の中で動いたのは視線だけ。
鳴き声も届かない距離では文明の利器に頼るべきときがあるのだと、フロイドの態度が物語っている。
「うん、わかったぁ」
鋭利な爪を光らせ、水かきのついた手で携帯の通話を終了させたフロイドに、アズールとジェイドの神経が注がれていた。
「馬鹿なマナティは無事だってぇ」
「それは何より。彼が無事でないと契約違反になりますから」
「僕たちの番から目を離した時点で契約違反と言いたいところですが、アズールの慈悲深さに感謝すべきですね。とりあえずベティさんの意識が戻ってよかったです。それで、フロイド。父は他に何か言っていましたか?」
「妖精の粉を追え。だってさぁ」
「どうします、アズール」
「どうって、決まっているでしょう。奪われたのなら奪い返すだけ、敵に回したのが誰なのか、存分に後悔させてやる」
闇は黒い影を連れて海面へ浮上していく。
その範囲は広く、陸へ押し寄せる波となって進んでいく。低く早くすべてを飲み込むために、夜の色に紛れた海は忘我の谷に向かっていた。