まだまだ、陸の青さを知らない
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《sea04:氷の世界》
耳鳴りがする。
海ではない乾いた風が肌を撫でて、湿った髪や鱗を凍らせようと冷気で包み込んでくる。
「ゴホッゴホッ・・っ、な・・一体、なに?」
ぶつ切りにバラされたのか、不揃いな氷たちが周囲に浮かんでいる。漂流するそのひとつに運良く打ち上げられたステラはひとり、何もない場所に浮かんでいた。
「・・・どこ、ここ」
氷に閉ざされた海の上には初めて出る。見渡す限り白一色の世界は広く、吐く息が見えるほど白く染まって、空まで高く昇っていく。
静かな世界。
海とは違う静寂さに、ステラは言い様のない雰囲気を感じ取る。まるで獰猛なサメの群れに囲まれるのと同じ。張り詰めた空気が似た気配を醸しだしていた。
「ッ・・ゴホッごほっ、んんっ」
どうやら生きているらしい。
氷に助けられて、暴走する海流からなんとか抜け出したステラは、せき込みながら自分の無事を確認する。陸の空気は乾いていて、色んな匂いが混ざっている。肺が吸い込む痛みに「生きている」、それだけを認識できる。
「なぜ」や「なにが」「どうして」はとりあえず、自分にはなにひとつ答えられない。
「ケガをしていないことをまずは喜ぶべき?」
誰に問いかけるわけでなく、自分で状況を把握するために問いかける。一体何が自分の身に降りかかったのか、わかっているのは海面を覆っていた氷を下から眺めていたことだけ。
そしてフロイドに電話をかけようか悩んでいた手が、驚いた瞬間に携帯を落としてしまったことを思い出した。
「うわぁ・・・やっちゃった」
今頃それは、海底の暗闇にどこまでも落ちているだろう。
肌身離さず持っているように。手渡すときにアズールから告げられたそれは、ジェイドからも毎日のように言い聞かされた台詞。耳にタコが出来るとうんざりした返答をした記憶があるが、今はその言いつけが怖いほど脳内に反芻している。
守れなかったときの報復は、なによりも厄介な相手。
ステラは駆け抜ける悪寒から身を守るように、自然と自分の体を抱き締めていた。
「でも・・・大丈夫、よね?」
鍋事件以来、誰からも連絡はきていない。
直前まで眺めていた画面でも、それは真実だったのだから怖がることは何もない。
「よし、携帯はまた春にでもアズールに謝ろう」
結論が出れば話は早い。
せっかくの贈り物を失くしてしまったことは今更どうにもならない。海は広くて深い。たとえ運よく真っ直ぐに落下していたとしても、海は流れが速い場所も多く、落し物は見つからないことが多い。加えて現在位置が特定できない以上、紛失物と巡り逢えるほうが奇跡だろう。
ステラは漂流している氷の上で三人の顔をそれぞれ打ち消すと、ようやく周囲に意識を戻す。そして初めて、自分は大きな帆船の近くで遭難していることを知った。
「あんな場所に船?」
進路を間違えて進んできたのかもしれない。氷に苦戦した様子の船は、無差別に巨大な錨を投げ込んで、周囲の海面を割っているようにみえた。
「氷の下に人魚がいるって知らないのかな?」
もしかしたら、自分のように巻き込まれた人魚がいるかもしれない。ステラは運良く無傷で済んだが、あの暴挙に襲われて安全とは言い難いだけに、無視するのも気分が悪い。
「って、誰もいるわけないか」
氷が溶ける時期に海面に行くことは禁止されている。それは稚魚でも守る暗黙の約束。
まして、観光客受け入れの準備に忙しい海の底から、わざわざ危険な場所にヒレを運びたがる人魚はいない。
「こんな状況を楽しむのはアズールやジェイド、フロイドくらいよね」
自分のことは棚にあげて、ステラは悪童三匹の顔を思い浮かべて苦笑する。何年も傍にいたせいで、自分も感覚が狂ってしまったのかもしれない。そう思えるほどには、ステラの胸中は恐怖よりも好奇心が勝り始めていた。
「そういえば、陸の人間と話すのは初めてかも」
きちんと言葉が通じるだろうか。不安は尽きないが、じっとしていても始まらない。
ステラは意を決したように、それでも流氷を盾に身を隠しながら、ゆっくりと近付くことにした。
「うわぁ」
感嘆の息とは、まさしくこういうものを表現するときに使うのかもしれない。ステラは空まで届きそうなほど大きな柱を見上げて、無意識にヒレを上下に振る。
よく絵画や挿絵に記されているような「帆」は張られていないようだが、それでも一目で陸に生きる人間が作った「船」だとわかる以上、テンションは抑えようと思って押さえられるものではない。
「沈んでる船以外で、こんなに大きな船は初めてだわ」
黒光りするほど光沢のある船の側面には筒状の穴が数本、等間隔に飛び出ている。何の為かは知らない。氷を粉砕しながら進んでいるのか、それとも氷そのものが目当てなのか、見る限りではその両方ともとれる速度でゆっくりと船は前進している。
先ほど海の中で聞いた異音は、この船が通り過ぎていく音なのだと理解してもまだ、船は目の前に堂々とそびえ立っていた。
「素敵、どんな人が乗っているのかしら」
溢れ出る好奇心のままに、ステラはここまで身を隠していた氷を捨てて、単身泳いで突き進む。強引に進んでいるからか、船の周囲は海面に顔を出せるほど氷が少ない。おかげで、触れられるほど近くに寄ることが出来る。
「すごいすごい、クジラみたい。人間って本当に面白いものを作るのね。でも、こんな場所で一体何をして・・・」
「あーー、さっむ。ったく、寒くて凍えちまいそうだ」
人間の言葉が聞こえてくる。
船の上で氷の世界の冷気に震えているのだろう。頭から防寒具を着込んだ人間が、何か大きな車輪を回しながらぼやいている。
「本当にこの下に人魚なんか暮らしてんのか?」
「だとしても、人魚を拝まねぇと帰れないだろ。金が動いてんだ、文句言ってないで探すぞ」
「だったらお前、泳いで探して来いよ」
「馬鹿言うな。こんな場所で海水浴でもしてみろ、一瞬で氷漬けだろうが」
陸の人間には耐えられない冷たさも、ステラにとっては馴染んだ海水。一緒に泳げば仲良くなれるかと思ったが、そう簡単な話でもなさそうだった。
人間はどうやら海に飛び込むことが出来ないらしい。
「ここからじゃ、よく聞こえない」
顔半分だけを出した状態では、人間の声ははっきりと聞こえない。
そこでステラは、海から飛び出て船のヘリに腰かけた。
「人魚に会いに来たの?」
「ああ、そうだ。だから早く見つけて帰りてぇ」
「残念だけど、人魚には氷が溶けてからじゃないと会えないわよ。他の温かな海に行ってみたら?」
「いや、ここの人魚じゃねぇと意味がねぇんだ。なんせ、珊瑚の海の人魚ってのが最旬のブランドなんでねって、おまえっ」
驚いた人間の顔が複数。数え方が陸と同じであれば十三人。全員防寒具を頭からかぶって、肌を赤く染めている。中には寒さに唇がかじかんで、うまく言葉が出ない人間もいるようだった。
「人魚、人魚がいたぞ。赤い髪の人魚。本当にいたんだ」
「たしかに、これは見る価値があるってもんだ。喋る魚だとばかり思ってたが、まさしくこれは百聞は一見に如かずってやつだな」
「なっ、なあ、お嬢ちゃん歌ってくれよ。あんた有名なあの人魚姫だろ?」
「人魚姫?」
ステラは船の端に腰かけながら首をかしげる。乾いた前髪が流れるように揺れて、赤い色が視界に踊っていた。
男たちの船には氷を割るための鉄の武器が積まれ、足元には縄や網がいくつも転がっている。魔法でそれらを操ることが出来るのか、アズール達が持つようなペンによく似たものを持って、全員が立ちながらステラを眺めている。
「マジカメでアップされてるのを見た奴が何人もいるんだ。あの伝説の人魚姫と同じ赤い髪をした人魚姫が珊瑚の海にいるって」
「けど、検索で全然引っかからねぇ。なんでも最近じゃ、人魚姫の写真を投稿するだけでアカウントが消えるっていう都市伝説があるくらいだからな」
「おっかねぇよなぁ。ま、本物を捕まえ・・・本物と会えば、そのネタが嘘か本当かもわかるってもんよ」
「ってわけで、オレたちゃ、はるばる氷の世界にまで探しにきたってわけさ」
代わる代わる喋る男たちの群れを見つめながら、ステラはヒレを動かしていた。
話の内容云々よりも、いつも見ている種族と異なる容姿や声の響きは、何もかもを魅力に感じさせる。刺激された好奇心。瞳を輝かせたステラは、くすぐったい気持ちを隠しもせず、人間の群れに向かって笑いかけた。
「残念だけど、私は人魚姫なんかじゃくて、同じ赤い髪をしてるってだけ。でも、そうね。珊瑚の海で知らない人魚はいないくらい、歌には自信があるかもしれない」