まだまだ、陸の青さを知らない
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《sea03:叶わない約束》
鍋爆発事件から四日、温かな日が連続した影響で通常よりも氷が溶けるのが早いらしいというニュースが飛び込んできた。
そのせいかどうかはわからないが、水温も心なしか過ごしやすくなったような気がする。防寒対策のない海底では些細な違いしか感じられない変化でも、陸では幾分か変わるのだろう。その証拠に例年よりも早めに船が来ているとかで、観光客の受け入れ態勢がそこかしこで始まっている。
「ステラ、次の演奏会で使う二枚貝は何色がいいと思う?」
「別に何色でもいい」
「そういうわけにはいかないよ、久しぶりに陸からのお客さんが来るんだ。海らしく、ど派手に仕上げなきゃ」
「私は陸に行きたい」
「あれだけアズールに怒られて、まだ諦めてなかったの。フロイドと仲直りしたら?」
「電話出てくれないんだもん」
「陸の雌に気に入られて忙しいんじゃない。彼らモテるし」
王宮のレッスン室でステラは嬉々として喋るベティを生暖かな目で見つめている。
月に数度、定期とも不定期ともいえる感覚で開催される演奏会。指揮者の気分が盛り上がれば即席で始まることもあるだけに、いつ、どこでも万全の態勢で音楽を奏でられるように仕込んでおくのが珊瑚の海の習わし。
基本、声で参加するステラには縁のない話。忙しく準備をしているのは、もっぱら楽器や衣装を担当する裏方のほう。
「ボクはマスコットグッズも新調する予定なんだ」
「へぇ」
「ステラの知名度も徐々に広がりをみせてるし、どう、ボクと一緒に珊瑚の海限定キーホルダーになるっていうのは」
「遠慮するわ」
「そういわずに、種類はニ十個もあるよ」
そう言って、顔に引っ付けるほど近くに持ってこられたのはベティを象った愛くるしいマスコットキーホルダー。珊瑚の海に来た記念に購入する観光客が一定数いるらしく、箱に収納された表情の違うキーホルダーは、胡散臭い笑顔でステラを眺めていた。
「・・・ベティだけの方がいいと思う」
この中に自分の顔が並ぶなんて冗談じゃない。
そういう皮肉を込めたにもかかわらず、良い意味で受け取ったらしいベティは照れながらその箱を陳列棚に並べる算段を建て始めている。陸の人間は土産物が好きだということをベティはもちろん、海の人魚はみんな知っているのだから気合が入るに違いない。
「珊瑚の海限定」と趣味の悪いシールを箱に貼り付けて、ベティは楽しそうにヒレを動かしていた。
「陸はもう暖かいと思う?」
生まれてから一度も珊瑚の海以外で過ごしたことのないステラには、想像することさえ難しい。
アズールやジェイド、フロイドのいる賢者の島は、ステラのいる海とは随分違う景色をみせていることだろう。空に浮かぶ雲は形を変え、寮生やクラスメイトがいる校舎では見たことのない種族が会話をしているのかもしれない。海よりも広く栄え、把握できないほどの文化や文明が入り混じった特別な場所。
「私も早く足がほしい」
せっせと春の準備を始める相棒の横で、ステラは腰かけた岩の上で肩ひじをつきながら思いをはせるように海面の方を眺めていた。
「春には帰ってくるって言ってたんだからいいじゃない。ボクに監視・・・ステラの近くにいるようにって頼むくらいには気にかけてるわけだし、それに、ちゃんと会えるのが一年に一度っていうなら特別な感じで楽しめばいいよ」
「私は毎日会いたい、それが無理でも毎日声が聞きたいし、顔だってみたい」
「写真は?」
「もう見飽きるくらい何度もみてる」
本来、ステラの携帯の画面は日替わりで三人の顔を写している。頻繁に送られてくる写真を保存して、その日の気分で設定することが朝の日課にもなっていた。
それがここ数日、見飽きるほど眺めた写真は更新すらされず、送信すらされてこない。
フロイドの気紛れがそうさせるのか、それにしてもアズールやジェイドまで連絡を寄越さないというのは少しやり過ぎだとステラは愚痴をはいた。
「みんなが何に怒ってるのかわかんない」
「目を離せば鍋を爆発させたりしちゃうステラに愛想を尽かせたんじゃない?」
「おしまいだわ」
「うーん、そりゃ海では毎日一緒だったかもしれないけど、あっちじゃ朝から晩まで働かなきゃならないんでしょ。遊びに行ってるんじゃなくて、勉強に行ってるわけだし、水槽生活が息苦しくて余裕がないのかも。だから、きっとフロイドは連絡出来ないんだよ。アズールとジェイドもあれでしょ、寮長とか支配人とかキノコってやつで色々忙しそうだし、どうせ春には会えるって決まってるんだからステラは海の生活を楽しもうよ」
「忙しくても連絡くれてたもん。世話が焼ける私なんかより、陸の人間を好きになったのかもしれない」
「いやいやいや。さっきは冗談で言ったけど、あの三人に限ってそれはない。会いたいかどうかは次元の違いというか、認識の差というか・・・むしろ次に会った時が最後というか、離れているうちが花というか、自由というか、隣の海藻が青くみえるのと同じというか」
ぶつぶつと泡で言葉をにごすベティに、ステラは欲しい答えが得られないことを悟る。
大体、観光客を受け入れることで頭がいっぱいの守銭奴に、愚痴を解決してもらおうと思う方が間違っている。
「あれ、ステラどこに行くの?」
「どこだっていいでしょ」
「わかってると思うけど海面付近はダメだよ。流氷に巻き込まれてケガしたとか、そういう話はボク聞きたくないからね。危険な場所には行かないで、アズールに言われたとおり大人しくしてるんだよ。それにジェイドにも怒られたくないでしょ。あと、薬作りは禁止だからね。バレたらフロイドに締められるどころじゃなくなっちゃう」
ベティの声はもうほとんど聞こえない。
泳ぎ去ってしまえばこっちのものだと、ステラは氷が溶ける準備に忙しい海域を後にして、一人静かに海面を目指していた。危険だとか、禁止だとか、そういうものが今はすべてわずらわしい。逆に、絶対誰もいないと確信できる場所だからこそ、ステラは迷いなくそこに向かっていた。
徐々に光は強くなる。暗闇を抜けて、薄明かりが視界を明るく照らしている。
海面を覆う分厚い氷の中に閉じ込められた太陽の光がそうさせているのか、氷が割れるような軋みのある音がそこかしこで鳴り響き、辺りは静かなようで十分に騒がしかった。
「フロイド、もうすぐ氷が溶けちゃうよ?」
不貞腐れたステラの声は誰にも聞こえない。
今日までに何度も着信を残した携帯の画面を見つめる。あきらめずに自分から電話をかければいいのかもしれない。そう思って、通話のボタンを押す手前までを繰り返す。
指でそっと触れるだけ。
簡単な作業のはずが、こじれた感情はその課題を難題にしてステラの頭を悩ませる。
「迷惑かもしれない」
ベティの言うように、垣間見える三人の生活からもわかる通り、陸は色々と忙しいみたいだった。せっかく陸で、それも憧れの学校に通うことができた三人の邪魔はしたくない。
「いつもどうやって連絡していたんだっけ」
通話からメッセージに切り替えて、改めて送ろうとすると、何を送っていいのかがわからない。
こういうときに気の利いたセリフのひとつでも浮かぶ性格なら、どれほど気楽に生きられたことか。
「海の魔女の伝記にあるように、黙ってうなずき、なにもしゃべらず、静かにしてるのが一番。なのよね・・・人魚姫だって、それで恋人の元に行けたんだから」
秘密の隠れ家に残された沢山の書物には、錬金術や魔法関連のものはもちろん、処世術、経営戦略、小説、伝記などまで幅広くそろっていた。人間に変身できる魔法薬が載っているレシピを探していた時に、偶然読んだ本の一説。ツイステッドワンダーランドに語り継がれる偉大なる魔法使いのひとり、グレート・セブンとして名高い海の魔女を取り上げた本にそう書かれていたのを思い出す。
「それにしても、うるさい」
ステラが到着した時よりも、大きな音が頭上から響いてくる。
「今年は氷が溶けるのが早いって言ってたけど、いままでこんな音してたっけ?」
思わず耳を塞ぎたくなるほどの異音。いつもであれば軋みと光が浸潤して、春の風物詩といえるほど神秘的な光景を繰り出すはずが、今年は少し様子が違うらしい。
少しというより、だいぶん。
じっと頭の上にある氷を眺めていたステラは、その瞬間、目の前に振り落ちてきた巨大な斧の渦に巻き込まれたことを知った。
「・・・やばっ」
あまりの驚きに手が滑って、アズールからもらった携帯が海底深くに落ちていく。
ステラの本心はそれを追いかけて拾いたかったが、無遠慮に海に投げ込まれた異物のせいで混乱した海流にうまく泳げない。伸ばした手は虚しく、携帯と逆方向に流されて行くだけ。
「アズール・・ッ・ジェイド・・・フロイ、ド」
陸はなんて遠い場所にあるのだろう。
海で警告の鳴き声を響かせれば、ものの数秒で駆けつけてくれた影がどこにも見えない。珊瑚の海へ帰る道がわからなくなるほどの強大な渦がステラの体を吸い込んでいく。
それは最速で抜け出そうとするステラをあざ笑うかのように強引で、無遠慮に。人魚としての自信さえ喪失させるほどの力で、まだ冬の厚さが残る氷を砕いていた。