まだまだ、陸の青さを知らない
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《sea01:些細な喧嘩》
腰まで伸びた赤毛の髪は艶やかに美しく、七色に光り輝く尾ヒレは見るものの視線を奪い、放たれる歌声は船乗りたちを深海に眠らせる。そう噂されている。
昔話に出てくる人魚姫の再来。
誰もが憧れ、羨望と嫉妬の対象として一目置く存在。ステラ・ノーブルは珊瑚の海でちょっとした有名人だった。
「だから、なんでわかんないかなぁ」
液晶画面の向こう側で、苛立つ声が制服の上着を脱いで前髪をかきあげている。
見慣れない顔。それでも随分と見慣れてきた顔。
本来の姿は水掻きのついた扇形の耳と、ぬめりのある独特の皮膚と長い肢体を持っているのに、人間は随分と同じ形を好むらしい。いや、陸で生活するには海とは違う身体が必要なのだろう。
「フロイドのわからずや」
「はぁ?」
陸に適応するために魔法薬で人間の姿になったフロイドが、苛立ちを隠すことなく画面越しにすごんでくる。
その迫力を直接体感していない余裕がそうさせるのか、ステラはまったく怖くないといった風に、強気にふんっと鼻をならしていた。
「どっちがわかってねぇんだよ。その態度可愛くねぇ。ってか、俺だからこれ怒るだけで済んでんだよ。アズールとジェイドに絶対言ったらダメだかんね」
「どうしてダメなの?」
「それがわからない世間知らずだからに決まってんじゃん」
数分の押し問答。
当初はこうではなかった。
「もしもーし。ステラはいま何してんの?」
上機嫌のフロイドが気紛れに電話をかけてきたときは、ステラも午後の暇をもて余していたこともあって、互いに笑顔で通話していた。
寮の廊下を制服で歩くフロイドに合わせて、背景も映像として流れていく。昼食は何を食べたとか、抜き打ちの小テストで満点だったとか、今日は部活がない代わりにシフトが入ってるなどといった、他愛ない話に花を咲かせていた。
雲行きが怪しくなってきたのは、ステラが呟いた「マジカメ」の言葉から。
「マジカメで有名な人が、ナイトレイブンカレッジにいるって本当?」
「ヒトデちゃんってば、なんでそんなこと気になんの?」
ここでフロイドが発する声の高低差に気付くことが出来ていれば、ここまで事態は悪化しなかったに違いない。
好奇心に弾んだステラの声が、悪気なくフロイドの機嫌を逆撫でしていく。
「気になるっていうか、どんな人なのか、ちょっと知りたいなって」
「だから、なんで?」
「特に理由があるわけじゃないんだけど、ベティがね、陸で仕事するなら陸で有名な人を知っておくべきだっていうから。それもそうかと思って・・・でも、名前を思い出せなくて・・・ナイトレイブンカレッジに通うフロイドたちなら、なにか知ってるはずだから聞いてみようかと」
「ベタちゃん先輩のこと言ってんでしょ」
「ベタちゃん先輩?」
「ステラは知らなくていいの」
廊下から寮にある自室の扉をあけて、フロイドは散らかった机の上にステラが映る携帯を置いた。
おかげでフロイドの代わりに天井が画面を占領している。
「フロイド」
少し怒った声で名前を呼べば気を取り直してくれたのか、画面は天井一色から傾斜して、再びフロイドの姿を映し出す。
「先輩ってことは、ナイトレイブンカレッジに通う人ってこと?」
「ステラしつこい。それ以上言ったら本気で絞めるよ」
「その人、かっこいい?」
「俺のがかっこいいし」
長めの息を吐いてフロイドが遠ざかっていく。何をするつもりなのか眺めてみれば、
学校の制服を着替えるつもりなのだろう。躊躇なく突然上着を脱ぎ始めている。
だからといって、ステラがそれに赤面することも恥ずかしがることもない。
珊瑚の海で一緒にいたころは服など着ていなかった。ないほうが普通で、着ているほうが異質。逆にいえば人魚のときと違い、背ビレのないフロイドの背中はどこか別の人のようにみえた。
「ベタって検索しても出てこない」
「は?」
人間の肌で半分を占めたフロイドが、髪をかきあげながら振り返る。その怒った視線に、ようやくステラも口を閉ざした。
「私だって陸のこと知りたいもん」
「だから、それは教えてやるって」
「じゃあ。ベタちゃんなんて変な名前じゃなくて、本当の名前を教えてよ」
「やだ」
「どうしてイヤなの?」
そして冒頭に戻る。
上半身裸のまま前髪をかきあげ、睨み付けてきたフロイドをじっと見つめること数秒。視線をそらしたフロイドのせいで、流れは急速に動き出す。
「俺、今から店だし電話切るよ」
「え?」
「もう氷が溶けたって、ステラは絶対呼んでやんねぇ」
そして画面は、ステラの意思を無視して通話が切れたことを伝えてきた。
強制終了。
結局フロイドとの会話で得られた情報は少ない。
「フロイドのばーか」
物言わぬ画面に向かってステラは告げる。そのままヒレを抱え込んで小さくうずくまれば、また、吐き出した泡だけが水面を目指すように抜け出していた。
沈黙は不安と比例している。
頭のなかでは、フロイドの最後の言葉が何度も反芻していた。
「・・・本気じゃないよね?」
泣きたくなってくる。
ホリデーを終え、監獄のような冬の氷が溶けて春を迎えることだけがステラの唯一の楽しみだというのに、それが無くなることはあまりにも悲しい。
受け入れ難い事態になることは、なんとしても避けたかった。
「なんであんなに怒ったんだろ?」
かろうじて太陽の光が差し込む暖かい場所で、ステラは虹色のヒレを前後に揺らす。
鱗がそれを反射して、岩肌が独特の紋様を描いていた。
「ステラ、こんな場所で何してるの?」
「フロイドと喧嘩」
「ははぁん、わかった。怒られたんだ」
「怒られてないもん。怒ってるのは私のほうなの」
小さくうずくまるステラに声をかける人魚はそう多くない。いや、むしろ一匹だけと言いきっていいかもしれない。
マナティの人魚、ベティ。
幼馴染みとも友達ともいえる関係だが、ベティは人というより魚の要素の方が強い。とはいえ、『喋るマナティ』というキャッチコピーで、自らプロデュースしたマスコットグッズを観光客に売り付けるくらいには自分の容姿に愛着を持っているので何も問題はないだろう。
『泳ぐ着ぐるみ』と陸の人間に銘打たれているマジカメを漁るのがもっぱらの趣味で、実際、丸々とした愛らしいフォルムは観光客に人気があった。
「喧嘩になった理由はなに?」
「わかんない。マジカメで有名な人を聞いただけなのに怒って電話切られた」
「それでか」
「なにが?」
「さっきボク宛に『しめる』って送られてきたメッセージの意味がわかったよ」
ベティはそういうが、ステラにはその意味の方がわからない。
そもそも、そういう物騒なメッセージを送ってくる知人は傍に置かない方がいいんじゃないかとさえ助言したくもなる。
「まあまあ機嫌をなおして。あのフロイドのことだから、海草でも編んでいればそのうちまたすぐ連絡がくるよ」
「でも氷が溶けても呼ばないって言われたのよ?」
「呼んでくれなきゃ行けないわけでもないじゃない」
「え?」
「アズールが作るほど完璧な魔法薬じゃないにしても、人魚が陸で暮らすための方法はいくらでもあるでしょ。どこかの店に魔法薬くらい売ってるんじゃないかな。ボクはいらないし、珊瑚の海ではあまり見かけないけどね」
ベティの発言にステラは目から鱗が落ちるほどに驚いた。
待っていなくても、たしかに、探してみる価値はある。
「私、ときどきベティが天才なんじゃないかって思うわ」
「いまごろ気付いたの?」
「驚いたみんなの顔を見るのが楽しみになってきた」
二人で笑いあって沈んでいた腰をあげる。街へ戻るベティと競い合うように泳いで、ステラは虹色のヒレを輝かせていた。
* * * * * *
一方その頃、ナイトレイブンカレッジにある寮のひとつ。オクタヴィネル寮が運営する紳士の社交場、モストロ・ラウンジ内は荒れに荒れていた。
「マジムカつくんだけど、ねぇ、ジェイド。俺ってカッコいい?」
「それは同じ顔を持つ僕もカッコいいということでしょうか」
「ジェイドはカッコいいから、俺のこともカッコいいって言って」
「はい、フロイドも僕もかっこいいです」
両手を添えてにこりと笑うジェイドの視界には、割れたグラスと陶器の破片。テーブルの上に散々しているそれらを写す瞳は、冷たい深海を思わせる。
「それにしても、いったいどうしたんです。今日は機嫌がよかったはずでは?」
姿勢よく腰かけるソファーで、視線だけが優雅に泳ぐ。小さく怯える青ざめた顔を通り越して、ジェイドは自分によく似た双子の片割れに問いかけていた。
背もたれに体重を預けて、足を投げ出していたフロイドは、顔をおおっていた帽子を掴んでその視線を受け止める。ゆっくりと起き上がった身体は、頭にかぶりなおした帽子ごと前のめりに息を吐いた。
「ヒトデちゃんが、ベタちゃん先輩を紹介してほしいって」
「なるほど、それは心穏やかではありませんね。ぜひ詳しく聞かせてください」
「えー、いま話す気分じゃねぇんだけど」
「まあまあ、そう言わずに。こちらの方もなにやら話したいことがあるようですし、話を聞いているうちにフロイドも話したくなるかもしれませんよ」
「じゃあ、お先にどうぞぉ」
「フロイドもそう言ってることですし、さあ遠慮なさらず、お好きなだけ喋ってください」
いつの間に話題の中心にされたのか、震える体ではよくわからなかったのかもしれない。左右から覗き込まれ、微笑みと怒りを宿す瞳のなかに自分の姿を見て初めて、その少年は自分の置かれた状況を理解したようだった。
それを助長するように、目の前には優雅に足を組んで微笑む第三の男。
「では、早速聞くとしましょう」
美少年と形容した方がしっくりくるが、この威圧感を肌で感じて、その言葉を口にする猛者は限られている。
「せっかくVIPルームにお招きしたんです。遠慮なさらずとも結構。当然、割られたグラスと陶器の請求はさせていただきますが、情報に見合った対価はお支払いしますよ」