まだまだ、陸の青さを知らない
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《sea12:人間の足》
十日目の朝。ステラはアズールの部屋で、生まれたての子羊のように足を震わせて立っていた。
「まっ、待って、ジェイド。やっやっぱり放さないでっ」
しがみついているのに離れていく。
どうして心底楽しそうに輝いて見えるのかわからないが、ジェイドがそういう顔をしているのだから信じられなくてもそれが現実なのだろう。
「無理して歩く必要はありません。移動は僕が運びますので、もっとしがみついていいんですよ?」
「やっ・・・ちょ、待って」
「ふふ、すみません。僕はあまり気が長い方ではないんです」
足だけが床に貼り付いたように動かせない。
腕はかろうじてジェイドの袖を掴んでいるが、振りほどかれでもしたら容易に転倒してしまうだろう。海ではあり得ない現象。浮力と重力の違いに慣れない体が恨めしい。
「簡単ですよ、こうやって歩けば、ほら」
「それが出来たらこんなッ、うわぁ」
「おやおや。人間の赤ん坊の方が上手かもしれませんね」
うまく足を前に踏み出すことが出来ずにバランスを崩したステラは案の定、ジェイドに抱きつくかたちでなんとか顔面を強打せずにすんだ。
支えてくれるつもりなら最初から手を離さないで欲しかったと、意味を込めて見上げてみてもジェイドに効果は見られない。
「それにしても、ステラは人間になると随分小さいですね。海のなかでも色々と小さかったですが、実際にこうして見下ろしていると陸の生物独特の視点が楽しめて、なんだかとても新鮮です」
勝てない身長差が悔しいところだが、震える足ではなにも出来ない。そのうえ何か反論しようものなら、ジェイドは迷いなく手を離すかも知れない以上、言い返せる台詞がすぐに思い浮かばない。
その様子をアズールのベッドの縁に腰かけたフロイドが見つめながら笑っている。
「女の子ってこんな弱っちぃの?」
「小さくも弱くもないもん」
「ステラ、早くこっちおいで」
「フロイド、それは遠い・・・無理」
「ステラは僕と離れたくないそうです」
「いいから来いって」
心外。海の中なら一瞬で泳いでたどり着ける距離も陸の上では生まれたての稚魚同然。ヒレでは負けない自信があっても、足では勝てる要素すら見つけられない。
「三秒、いや五秒くらい前に魔法薬飲んだばかりなのに」
ジェイドの腕の中でステラは頬を膨らませる。
誰にも聞こえないように小さく呟いたつもりなのに、「そんなすぐに変身しません。かるく五分は経過しています」と変身薬を調合した張本人に言われてしまえば反論の余地はない。
「アズール・・・おかえりなさい」
ステラに続いて「おかえり」「おかえりなさい」とフロイドとジェイドも声をかけているが、用事があるからと少し席を外していたアズールは部屋に戻るなり一直線にステラへと向かってくる。
「どうです、憧れの人間の足は」
「慣れないから変な気分、嬉しいけど、なんか、足だけじゃなくて全身重たいし、すごく疲れる。あとなに、この服って脱いじゃダメなの?」
薄手の白いワンピース。人魚姫が初めて陸にあがって身にまとったのは、海藻のドレスだと言われているが、今もしもそんなものを着させられたらたまらない。
簡素な服でさえ肌にへばりついて居心地が悪いのに、慣れない体に慣れない服を着ての歩行練習は想像以上に体力が奪われてしまう。
「俺たちの前では別に着なくてもいいけどぉ、他の雄の前で脱いだら速攻殺す」
「僕たちを殺人鬼にしたくはないでしょう?」
一体誰を抹殺するつもりなのか、冗談に聞こえない口調にステラの顔が苦渋に伏せる。
「服、邪魔。歩けるようになるまで着たくない」
「それでも一番薄手のものを用意したんです。それ以上は譲歩できません。文句ばかりいうようでしたら、いますぐ人魚の姿に戻してもいいんですよ?」
アズールならやりかねない。ようやく憧れの人間の足を手に入れることが出来たのに、何も体験できないまま元の姿に戻りたくはない。
ステラは否定を表情で訴えると、諦めの息を吐いて、再び歩くことに意識を集中し始める。
「本当にみんな一日で歩けたの?」
足を踏み出す前に、今は人間の身体を自在に操る三人に確認する。
「本物の人魚姫がどれくらいの時間で陸を歩けるようになったかご存じで?」
「・・・わかった。がんばる」
そこから約一時間。なんとかジェイドの補助なしにバランスを保てるようになったステラは、壁から三人のいるベッドまでの距離を一人で歩いてたどり着くことに挑戦していた。
「そうそう。うまいじゃん、ステラ。右、左、右、左」
「どっちが右で左だっけ・・・おっけー、こうね。あ、ちょっと前に進んでる」
両手で見えない空中の壁を支えに進んでいた身体を止めて、顔をあげて距離を確認する。ベッドに腰かけてステラの到着を待つ三人が全員、携帯を向けて待機している姿に気分が滅入るが、ここはそう悠長なことを言っていられない。
「アズール・・ジェイド・・フロイド」
腕を伸ばして迷いなく飛び込んでいく。
重力に従って沈んだのは柔らかなベッドの上。何もかもが新しい感覚、それでも不安も恐怖も三人といれば全部が楽しみに変わっていく。触れ合える距離で声が響き、憧れ、眺めていた光景が確かなものになっていく。
「ステラ、愛しています」
静かに振り落ちてきたアズールの唇が、海とは少し違ってくすぐったい。
「アズールばっかりずるい、俺もちゅーする」
「・・・んっ、ぁ」
「アズールとフロイドのキスで終わりとは言いませんよね」
「待っ・・ァ・・ンッ」
人間の体はベッドの海を自由に泳げないらしい。逃げたくても柔らかに跳ね返す背後の弾力が、抵抗する腕の力を奪っていく。
「ぁ・・ッ苦し・・ぃ」
アズールに偽物の薬をつかまされたのではないかと思うほど息苦しい。唇を奪われるだけならまだしも、酸素を取り入れるための呼吸器が塞がれ続けて、まともに息が繰り返せない。
「よかったねぇ、ステラ」
耳元で囁くフロイドの声に過剰反応した身体が、大げさなほど震えて泣きたくなった。
「だいじょうぶ、怖くないよぉ。これで俺たち、おんなじ人間だね」
「にんげん?」
「ええ、愛のキスを三日と待たずに得られるなんて幸運です」
「え、でも・・ッ・それって、むかしば、な・・ふぁッ」
「さあ、やることは沢山ありますよ」
突然、腕を引かれてベッドの海から釣り上げられる。フロイドとジェイドはまだ横たわっていたが、自分たちの中央に置いたはずのステラの行方に気付いて、顔を見合わせて笑みを浮かべる。
「なっ、なに?」
今度はいったい何が起こるのか。ステラはアズールにベッドに座らさせられた意味がわからず、困惑の表情で固まっていた。
素足に触れたアズールの指が意地悪に視線の下で踊っている。けれど、その次の瞬間、ステラの瞳は言葉にならない息を呑みこむ。
「まさか、人間の足を手に入れたくらいで満足しているんじゃないでしょうね?」
魔法とは、こういう使い方が出来るのかと、ステラは自分の足にはめられた靴を見て何度も三人の顔とそれを見比べていた。
「僕たちが一緒に歩くんだ。きちんとその足で進んでいただかなければ困ります」
首を縦に振ってうなずく以外、出来る事は何もない。
放射状に差し込む光の柱と同じ。彼らの腕はどこまでも温かく、深く、憧れの世界へ連れていってくれる。海底で夢見た陸の上もその先も。照らされる範囲は予想外に輝きながら、これからも広がり続けるに違いない。
絡み付いた人魚のヒレごと深海の泡に沈むその日まで。
fin.