まだまだ、陸の青さを知らない
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《sea11:懐かしい腕》
優しい波の音が聞こえてくる。心地よい冷たさに揺られ、静寂に包まれた空気がステラの気持ちを落ち着かせてくれている。
泣きたくなるほどの穏やかさ。
嗅いだことのない上品な香りが漂っているのに、なぜか知っているような、誰かを連想させるような、不思議な感覚がしていた。
「・・・っ」
目をあけたとき、そこは夢ではないかと疑った。疑ったまま息を吐いて、何回か瞬きして、ようやく隣にいる人を認識する。
「フロイ、ド?」
視界に入った人物の名前を呼んだだけなのに、ステラの体は痛いくらいに抱き締められる。思わず「痛い」「締めすぎ」と苦笑しながら離れることを要求しても、その力は弱まりそうになかった。
「バカステラ」と耳元でかろうじて聞こえたのは消えそうなほど小さな声。フロイドは感情のまま指先を震わせ、二人が浸る水を揺らしているが、ステラ自身の感情は想像していたよりも随分と落ち着いていた。
フロイドの頭を数回撫でて、静かに息を吐く。穏やかな気持ちの正体はこれかと、口元が緩んでいく。
「ん・・・ジェイド?」
陶器が粉砕する音が聞こえて顔を向けてみると、そこにはジェイドに似た気配が残っていた。確信がないのは、そこにあった人影がすぐに消えていったからで、確証を持てたのは床に散らばったカップの残骸が置き去りにされているせい。
人間の姿に見えた気もしたが、それは見間違いかどうか判断できない。
「ジェイド、本当に本当だろうな?」
「いくらなんでもこんなときに冗談は言いません」
騒々しい空気が慌てたように戻ってくる。
聞きなれない足音。それでも聞きなれた声を連れて現れたその姿は、紛れもなくジェイドとアズールの二人だった。
「・・・ステラ」
フロイドだけでも苦しいのに、一人から三人に増えた圧力では呼吸すらままならない。
ここは一体どこなのか、フロイドは人魚の姿で、ジェイドとアズールはなぜ人間の姿なのか。問いかけたいことが山ほどあるのに、抱き着き、巻き付く腕たちはそれを許してくれない。
「痛っ」
抱きしめられた苦しさよりも、全身に走った痛みを口にする方が勝ってしまった。
今度は驚くほど速く離れた三人が、同時に心配そうな視線で覗き込んでくる。そこで初めて、ステラは自分がフロイドと二人で並べるほどの広くて浅い水槽に入れられていることに気が付いた。
「どこ、ここ?」
「ナイトレイブンカレッジですよ。緊急を要しましたので学園長の許可は現在取り付けている最中ですが、心配はいりません」
「ナイトレイブンカレッジ!?」
アズールの説明に、反射的に起き上がって叫んだ身体が苦痛を訴える。
全身を針で刺されたようにひどく痛い。喉も痛いせいか、声が自分のものじゃないみたいにかすれている。
「フロイドと一緒にちゃんと浸かっていてください。ステラのヒレを修復させるには、これが一番早いですから」
「ひれ?」
「見なくていいよぉ。大丈夫、俺がちゃんと綺麗に治してあげるから」
大きな手で包まれると安心する。
何が一体どうなって、こうなっているのか、いまだに理解できないままだが、ステラは襲われる眠気に誘われて意識を手放しかけていた。
「・・・夢じゃ、ないよね?」
すがる腕が消えないように、次に目をあけたときにもそこにあるように、自分の願望がみせる幻影じゃないことをステラは祈る。
怖くて、恐くて、たまらない。
夢でいいから会いたいと願い、夢でいいから傍にいたいと思い続けてきたが、実際に夢で終わってしまうとしたら耐えられない。
「夢じゃねぇから安心して眠って。アズールもジェイドも俺も、みんなステラの傍にいるよ。次に目を開けた時も、その次も、その次の次もずっと」
「絶対?」
至近距離で覗き込んだ瞳が見たことのない温かさで見つめ返してくる。
本当なのだと無条件に信じられる視線は、フロイドもアズールもジェイドも同じ。
「・・・約束だから、ね」
抗えないほどの疲労の波に流されて、泣き声をあげて訴える余力もなく、なんとか微笑んだステラは再び眠りについた。無意識に零れ落ちた一石の涙。
空気に触れた瞬間生成されたそれは、オークション会場で一粒四十万の価値がついた人魚の涙。フロイドの腕の中で眠るステラを見つめていたアズールは、その宝石をつまみ上げると、何ともいえない瞳でそれを握り潰していた。
「アズール、そんな顔をしないでください」
割れた食器を片付けるために腰をあげようとしたジェイドがその様子に気づいて声をかけるも、アズールの表情は晴れそうにない。
しばらく無言の空間が続いたあと、おもむろにアズールが呟いた。
「僕は、もっと力が欲しい」
「ええ、僕もアズールとまったく同じことを思っていました。氷に閉ざされた海に置いていれば安心だと、愚かで浅はかな考えだったと思います。何度悔いても悔やみきれません。もう少し早くついていれば、あと少し遅れていたら、自分を殺してしまいたいほどの後悔。これほどまでの感情が自分の中にあることにも驚きましたが、今回のことは永遠に僕を縛り付ける枷となるでしょう」
時折苦しそうな息を吐くステラを見つめるジェイドの瞳は、熱を帯びて揺らめいている。
必死だった。
探している間も、見つけた時も、連れ帰ってからも、目を覚ますまでも、意識を取り戻した今もまだずっと。
「ジェイド、フロイド」
空気を裂くように名前を呼んだアズールの声に、ジェイドとフロイドはそろってステラからアズールにその視線を向ける。そしてその視線を真っ向から受け止めながら「僕は怖い」とアズールは切り出した。
「ステラを失うことになりえた可能性がゼロじゃなかったことが怖い」
人間の姿のときは眼鏡をかけているアズールが、そのガラスの奥に隠した双眸のさらに奥深くに光を灯す。
過信していたわけではない。
それでも余裕はどこにもなかった。
助け出せたからいいものの、それは何の慰めにもならないことは知っている。生死はいつも表裏一体。それは海にいても陸にいても変わらないのだと、改めて知る機会を得た以上、粉骨を刻んで身に刷り込ませなければ意味がない。
次に放たれる言葉は、なんとなく想像出来るようで、まったく未知のもの。ジェイドもフロイドも固唾をのんでアズールの言おうとしていることを待っていた。
「ステラは誰にも渡さない。お前たちにも渡さない。ステラが望む形を保ってるだけで、危険因子だと判断すればすぐに切り捨てる。お前たちもステラの番であり続けることを望むなら、それ相応の力を得る覚悟を見せてください」
「三人いればいい」などという甘い考えは最初から持ち合わせていない。
声高らかに告げるアズールに、ジェイドとフロイドの口角も大きく持ち上がる。
「当たり前じゃん。誰に言ってんの?」
「僕たちの方が先に力をつけてステラを独り占めにしても、文句は言わないでくださいね」
「もちろん、そうでなくては困ります」
宣戦布告。そうともとれる火花を散らせた三人は、互いの気配に深い海の色を宿していく。
故郷の海に漂う影と同じ。
闇は触手を伸ばして広がりを見せ始めている。
その日、獰猛な海の魔物たちは、安全な場所で眠りについているにもかかわらず、寝言でまで自分たちの名前を呼ぶステラの頬に触れながら底知れない笑みを浮かべていた。