まだまだ、陸の青さを知らない
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《sea09:惨劇の始まり》
血に飢えた太陽が海に溶けて消えていく。それでなくても、多くの赤が大量に浮かんだ海面の色は鮮やかに映える。
赤い絵の具だけで描かれた世界。
忘我の谷へと繋がる港付近は、緊急事態を叫びながら惨劇の幕を開けていた。
「きゃぁぁあ」
「逃げろぉおお」
悲鳴は海岸から雪崩れ込むように谷の中心部へ向かっていく。それでも広く複雑な街が事態の全貌をつかむにはまだまだ遠い。
馬を走らせる人、魔法で飛んでいく人、どこかに連絡をとる人、立ち向かう人。様々な人が驚愕を記憶に焼き付ける視線の先、血の海から現れたのは、伝承でしか聞いたことがない三体の人魚。
そのうちの一体。八本足をしたタコ足の男は優美な笑みで海面を歩き、赤の雫を頭から滴らせ、大地に足をつけるなり人間の姿に変わっていく。
見惚れるほど美しく、優雅に足を運ぶその姿は、逃げ惑う人々にとって恐怖以外のなにものでもなかった。世界の終わりだと腰を抜かした仮面の人々にアズールは語りかける。
「これは終わりではなく、始まりの合図です」
波は大きく唸り声をあげ、海に飲み込まれた太陽は消え去り、夜が闇を連れてくる。周囲は黒に染まり、何も見えない視界の端。星よりも秘めた怒りを宿して光る、ふたつの瞳に人々の視線は再び恐怖の声を叫んでいた。
「おやおや、期待にお応えして人魚の姿をお見せしたのに、ご希望にそえなかったようで残念です。観客の皆様、そう怯えないで。別に取って食ったりは致しません」
「すげぇ散るじゃん。近くに来て捕まえてみろよ」
滑らかな巨体をうねらせて、中央の少年に続くように現れた人外の生物に、人々の悲鳴は加速していく。想像の人魚とは違うせいかもしれない。マジカメで話題が盛り上がる人魚は、おとぎ話として語り継がれる人魚姫を連想させていた名残りもあるのだろう。
偉大なる海の魔女を思えば、人魚の形に千差万別あることなど容易に想像がつく話だというのに、人間はどこかでその想像を結び付けていなかったに違いない。
美しさと不気味さが交錯した黒い影。
得体のしれない人魚たちの様子はすぐに危険生物と判断されたのか、人の群れは反射的に杖や武器を構えてアズール達を威嚇する。それは誰かの合図を待つまでもなく、人間に変身しきる前に仕留めようと、魔法や人工の火炎を繰り出していた。
「そんな攻撃、効くわけねぇだろ。バインド・ザ・ハート」
影から溶け落ちるように人間の姿になったフロイドの手前で炎は反転し、港は半円型に火柱をあげる。
あちら側とこちら側。
人間と人魚を隔てる境界線は、それまで悲鳴を叫んでいた人々を一瞬にして黙らせ、ついで怒号と狂気を舞い上がらせる。火が鼓舞するせいもあるだろう。「相手はたった三匹だ」「殺せ」「捕まえろ」そういう声が粉塵に混じり、珍しい人魚の素材を手に入れようと躍起になる熱気が燃え上がる。
「だから、当たんねぇっつってんだろ。炎ってのは、こうやって出すんだよ」
「うわぁあ・・・ッな、なんだこいつ、どうして海の生物が火を・・・それも魔法を扱えるんだ」
「はぁ、魔法に海も陸も関係ねぇし」
「クソッ、やれ。人魚は人魚だ、稀少素材として売りさばいてやる」
それでも繰り出される攻撃のすべては、フロイドたちに当たる前にすべて跳ね返っていく。どんな魔法もどんな攻撃も、跳ね返ったものが見当違いの方向で被害を膨らませる。その光景を多くの人が理解出来ず、口をあけてただ首をかしげていた。
「ど、どうなってやがる」
理解不能。ユニーク魔法だとわかっていても、その回避方法がわからなければ永遠に攻撃は反撃となる。攻撃は最大の防御だというが、その意味をはき違えた桁違いの魔法を前に、大抵の人は挑む姿勢を後退させて散っていく。
「・・・ばけものだ」
誰が呟いたのか、無傷のまま笑みを絶やさない人魚の行進は街の中心部を目指していくのだから無理もない。止めようと立ちはだかる人間は、ひとり、また一人と減っていき、果敢にも勇気を振り絞ったものは見せしめのように燃えていった。
「今日はフロイドの調子もいいようで何よりです。オードブルはまんべんなくこんがりと、焼き色が綺麗につきそうですね」
「そういうお前は少し焦がしすぎているようですが」
「アズールよりはマシでしょう?」
お互いに相手の繰り出す魔法の火力に異論を唱える。
たしかに少しやりすぎな気もするが、実際にその結果は見ていないのだからどうしようもない。周囲は燃え盛る炎の熱さに、ようやく鎮火の方向へ意識が切り替わったらしい。消火活動の声が混ざり始めて、好奇な視線がアズール達から分散していく。
「人魚に火炙りにされるとは、前菜にしては洒落た余興にもなりません」
本当は、忘我の谷という存在ごと、地図の上から消したい気持ちに駆られている。
どこもかしこも逃げているのは仮面をつけた上流階級の人間ばかり、焼け落ちたテントの中には檻に閉じ込められた珍しい生物が痛ましい姿で横たわっているのも何度か見えた。素材は鮮度が命だというが、欲望に忠実な谷ではその言葉通りの実演販売も少なくはない。
「見世物じゃないんですよ。まったく、こういう場所はどこも空気が悪い」
混乱が混乱を呼び、戦闘を忘れた人々の騒ぎのなかで、アズールはホコリを払うために自分の服を軽くはたく。白い粉が宙を舞って、はぜる火の粉と重なるように空に静かに昇って行った。
「先ほどの方が仰っていたオークション会場というのは、どの辺でしょうか。ここからはよく見えませんし、似たようなテントばかりでわかりませんね」
「全部を回ればいい。と、言いたいところですが、時間がありません。手分けして・・・フロイドは?」
「フロイドでしたらあそこです」
「またあいつは、こんなときに何をやってるんだ」
アズールは、ジェイドの視線が促す場所で一人歩くフロイドを見つける。
「はい、これ」
「なんです?」
「オークション会場に入るためのチケットだってぇ」
「会員制のチケットじゃないか」
「さっき、そこにいた人たちにもらったぁ。はい、これはジェイドの分」
「ありがとうございます、フロイド。これで探す手間が省けましたね。アズール」
フロイドの言い方では何の問題もなくチケットをもらったように聞こえるが、実際にそうかと聞かれれば、そこは素直に「はい」とは言い難い。それでも今、ステラへとたどり着く目印になるものは幸運にも手に入ったのだからそれでいい。
アズールは「まったく」といつもの息を吐き出したあとで、にこやかに見つめてくる双子の顔に笑みを返した。
「郷に入っては郷に従え、と言いますので」
ところどころ焼け焦げた服は一瞬で礼服に変わり、顔の半分以上を隠す仮面が三人の顔を覆う。
「では、行くとしましょう」
向かう先はただ一つ、人魚姫のオークションを謳わっている秘密の仮面夜会。
その会場は意外にも街の中心にあり、上流階級しか入ることの出来ない紋章が描かれた巨大なテントには、複数の警備員が配置されている。加えて、チケットを持っていなければそもそも入場すら出来ない魔法で囲まれていた。
その証明に、アズールはジェイドと共にフロイドが手に入れたチケットで粛々と館内に踏み入れたが、同時に偽造チケットで入室しようとしたらしい客人はもれなくその場から姿を消した。
「強制転移魔法の類いでしょうか。さすが厳重な警備ですね」
ジェイドが耳打ちする情報にアズールも静かにうなずく。
「ええ。億単位の金が動くといわれるだけあって、使用されている魔法も上級クラスといっていいでしょう」
「政府の役人、王侯貴族、名のある著名人が参加するとされる世界最大級のオークション会場。一筋縄ではいかない要素が多いようなので、いざというときはこちらも強行突破しかありませんね」
「嬉しそうな顔だな」
「そう見えますか。これでも我慢強く耐えている方だと自画自賛しているところです」
一見、やわなテントに見えた会場は、何かの魔法で構築されているのか、豪奢な廊下が続いている。深紅の絨毯、頭上のシャンデリア、廊下には「本日の品」と銘打たれた壁掛けの写真が延々と並ぶ。
「火ネズミの衣、夢誘いの笛、蛇の三枚葉。先日盗難騒ぎがあったものから、所有者が行方不明となっている事件のものまで、よくもまあこれだけ集められたものです」
「収集に関してはアズールも人のことは言えませんよ」
「お前もな」
そう言って、壁にかけられた品書きからジェイドに顔を向けたアズールは、そこでジェイドが一枚の写真の前から動いていないことに気がついた。
「なんだ?」
「手持ちで足りるか考えていたんです」
「・・・行きますよ」
キノコの話になる前にその場は離れるに限る。そうしてしばらく歩き続けるうちに、二人の会話はほぼ交わされることがなくなっていた。
「悪趣味といえばそれまでですが、これらを嬉々として売買する稼業が成立している現実に言葉が出ませんね」
廊下を進むにつれて壁にかけられた写真の内容は悲劇を増していく。コレクターに人気というならまだしも、戦争を煽る新素材、傾国を促す魔法石、娯楽のための奴隷、見栄を満たす珍獣。その一番最後に、虹色に光る人魚の涙「実演販売(本体別売り)」とその「本体」なのだから気分も悪くなる。
わかっていたことでも、目にするまでどこか期待していた自分がいたことを否定はできない。
ステラによく似た人魚であってほしいという希望。
違っていてくれと願う心。
それらは簡単にくだけ散り、無情にも足を踏み入れた会場で彼らは愛する番のオークションを現実のものとして認識した。