まだ、陸の青さを知らない
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《sea06:魔女の正体》
視界が闇に慣れてくる。
見たことのない岩肌に囲まれた寂れた場所。墓場だといわれても頷けるような不気味さが入り混じり、独特の気配が一帯に漂っている。
生物の気配がどこにもない。それを有難いと思うべきなのだろうが、どうやら悠長なことを言ってる場合ではなさそうだった。
「・・・ぅ」
泣いて体力を消費した身では、危機管理の判断すら鈍るらしい。滲んだ血の匂いにつられてやってくるのは温厚とはいいがたい、いかにも獰猛な海の獣。慣れた視界の端に見えた大きな生物の影に、ステラは委縮した神経を尖らせて緊張を走らせていた。
今ならまだ、逃げられる。
最後の体力を振り絞って、全身全力で泳げばおそらく、自宅にはたどり着けるかもしれない。
疲弊した身体でどこまでやれるか。帰り道もわからない八方塞がりの場所で、ステラは心細さを隠すようにギュッと拳を握りしめた。
「これはこれは、誰かと思えば」
「なっ・なに・・だれ?」
溜息とも言える呆れた空気の振動がステラの緊張を最高潮に高ぶらせる。
闇に蠢く生物の気配。巨大な影は自在に動く複数の足をちらつかせ、音もなくゆっくりとステラの前にあらわれる。
「見事なまでにズタボロですね」
腰から下が八本の足に分かれたタコの人魚。グレート・セブンで伝えられる海の魔女と同じタコの人魚は黒に近い下半身とは対照的な白銀の髪を揺らし、静かな海を連想させる瞳の色を持っている。
珊瑚の海では珍しいタコの人魚。その神々しさの奥に潜む雰囲気は、知っている人物で間違いないだろう。
「アズール・アーシェングロット?」
名前を言い当てたステラを見下ろすようにたたずむその姿は、ステラの記憶の中とは随分違う。いつもタコ壺にこもって滅多に人前に姿を現さなかった男の子は、数年見ないだけでまったく別人のように変わっていた。
エレメンタリースクールのときに少し見かけたことがあるだけで、ミドルスクールにあがるころには、すっかり意識の端から消えていた同級生。ステラが他人に興味を持たなくなったせいもあるだろうが、アズールの容姿は想像とは真逆に成長している。
「皆が口々になりたいと羨望する今のあなたの姿をみて、一体何匹の雑魚・・・いえ、ファンががっかりすることか」
肩をすかせて両手をあげ、首を横に振る演技はステラの神経を逆なでしているようにしか見えない。本心で言っていれば尚のこと、この状況でその台詞を言ってのける目の前の男に、ステラはムカついていた。
「どうしてあなたにそんなことを言われないといけないわけ?」
思った以上に張り詰めた声が滑り落ちる。
「あなたには関係ないでしょう」
かろうじて名前を知っている程度の関係。
この間のリーチ兄弟といい、アズールといい、無神経もいいところだとステラは嫌悪を秘めた瞳でアズールをにらみつける。それを予想していたのか、はたまた何とも思わないのか。アズールは「わからない人だ」とでもいう風に息を吐くと、ステラと視線を合わせるようにゆっくりと海底に降りてきた。
「いいえ、大ありです。人魚姫と同じ赤毛の髪、光に反射して七色に虹を描く鱗、船乗りさえ海底に眠らせるという魅惑の歌声、そういう憧れの対象が身近にあるからこそ、人は求め渇望するのですから」
「いったい、何の話?」
「海の魔女の噂を聞いたことは?」
「あるけど・・・まさか、あなたが?」
「そうです。僕は不幸せな人魚を助けているんですよ。たとえば、あなたみたいな相談相手のいない哀れな人魚をね。あなたのように可哀想な人を助けるのが、僕の生きがいなんです」
ただの噂話だと思っていたが、その渦中の人物がアズールだとすれば合点がいく。しかし今度は、アズールの方が「意外」だという顔をした。
「驚かないんですか?」
「胡散臭い噂と同じ匂いのする笑顔を見れば、なんかそうなんだろうなって」
「失礼ですね」
「それにアーシェングロットを見た時、海の魔女に見えたっていうのもある」
対峙するアズールの顔が不可解だと言っている。
明確にわかるように説明しろと目がそう訴えているが、ステラは困ったように笑うことしかできなかった。
「まあ、いいでしょう。質問は置いておいて、とりあえず手当てが先です」
「手当て?」
「迷惑なんですよ、血の匂いをこの辺でさせてもらっては。なんとか防衛魔法で誤魔化していますが、深海の獣は敏感なものもいますから」
「そうはいっても、手当てなんてどうやって」
「目の前にいるのが誰か、お忘れではありませんか?」
そのとき、不敵に笑ったアズールの顔をステラは一生忘れることは出来ないだろう。
片手を前に突き出して、ステラに向かって何かの詠唱を唱えたアズールは、本物の海の魔女のように偉大な魔法士に見えた。
「これは特別大サービスです。先日、フロイドが思いっきりあなたを投げ飛ばしたそうですから、そのお詫びと言ったところでしょうか」
「・・・ありがとう」
「礼には及びません。通常なら対価を要求するところですが、この程度の魔法、要求するほどでもありませんし」
温かな光に包まれて心地よい刺激に目を閉じ、再度開くころには傷口は全部ふさがっていた。どこから血を流していたのかもわからないほど綺麗に、痛みもなく健康に、朝起きた時と同じ姿でステラはアズールの前に座っている。
「すごい。こんな魔法、どうやって身に着けたの?」
身を乗り出してわかったことだが、アズールには唇の右下にほくろがひとつあるらしい。
それをじっと見つめて答えを待っていると、小さな咳払いがひとつ聞こえて、アズールは「簡単なことです」と胸に手をあてて教えてくれた。
「人よりも多く魔法陣を書き、人よりも多く詠唱を覚え、人よりも多くの本を読み、昼夜問わず学び続けただけです。僕を馬鹿にしてきた、馬鹿どもを見返してやるために」
いくら魔法を操る力を持っていても、一昼夜でそれを成し遂げられるわけではない。アズールは簡単に言っているが、それがどれほど大変なことで、どれだけの時間を費やした結果に得たものだろう。魔法力のないステラには想像もつかないが、並大抵の努力ではなかったに違いない。
それでも、あまりにも簡単に「だけ」だというアズールに、ステラは自虐的な息を吐いてそれを否定した。
「それは、アーシェングロットだから出来たってだけよ」
聞きようによっては賛辞だともとれる言葉をアズールは言葉通りには受け取らない。言葉に含まれた真意を聞き分けることが出来るのか、アズールは最大限の皮肉を込めた目でステラを笑った。
「実に不愉快だ。僕のしていることなんて、後天的なものでしかない。つまり誰にでも可能な範囲だということです」
「でも、魔法が使えるじゃない」
「僕はその力をもって生まれたましたからね。ただ、言葉を返すなら、魔法を使えるのは僕だけじゃない」
「そうだけど」
「対してあなたは恵まれた個性を持ち、与えられた才能があるのに、なぜそれを生かさないのです?」
アズールの声には苛立ちや憎しみが混じっているようにも聞こえた。
「何人の人魚があなたのようになりたいと、この僕に対価を払って契約したか、数えるのも馬鹿らしくなるというのに、あなたは何もせずにのうのうと生きている」
「私のようになりたいだなんて、みんなどうかしてるわ」
「持つ人は皆、同じ台詞を吐きます」
「私のことを知らないくせに、私になりたいなんて矛盾してる」
「他人の願いなんてそんなものですよ」
「見た目で判断して、本当の姿を知ろうともしない馬鹿ばかりじゃない」
「否定はしませんが、そういうあなたは、誰かに理解してもらう努力をしたのですか?」
アズールの瞳が暗い海の空気を含んで、ステラの上に重くのしかかってくる。
声は確実に、軽蔑と侮蔑が滲んだ冷たい海の色をしていた。
「稚魚じゃあるまいし、ましてや意思疎通が出来ないモンスターを相手にするわけでもない。理解してほしいと願いながら、理解してもらうことを諦めている。あなたこそ臆病な殻に閉じこもって、本気でみんなと向き合わなかっただけでは?」
正論にぐうの音も出ない。ただ、あれほど毎日、毎日。心にもない言葉や態度を向けられて、それの正体が憧れからくる反動だと知ったところでどうしろというのだろう。
過ごしてきた年月は、払しょくできない黒い記憶となってステラの胸に巣食っている。
「私だって、捨てられるものなら捨てたい」
「それが不愉快だと言っているんです。捨てたい、なんて愚かなんでしょう。そうして悲劇のヒロインぶるのはやめろ」
「なっ!?」
「欲しがりなんですよ。いいではありませんか、ちょうど海の魔女が目の前にいるんです。貪欲に求めてみてはいかがです」
「私・・・私は本当の私を知ってほしい」
「では、契約しますか?」
差し出された手をとれば、それで万事解決。
少し面白くない結果だが、一人の少女の人生が変わると思えばそれも運命。けれど、ステラはアズールの申し出を丁重に断っていた。
「ううん」
宙に浮いたアズールの手が、行き場を失くしたように言葉まで失くしている。
「僕が言うのもなんですが、ここは僕の手を取ってハッピーエンドとなる流れのはずなんですが?」
「やめてよ、どんな流れなの、それ。私はお姫様じゃないんだから契約するわけないでしょ。私が欲しいのは与えられるものじゃなくて、与えてもらえるものなの」
「あなた・・・随分イヤな性格をしていますね」
「アーシェングロットには言われたくないかも」
「僕のこと知りもしないのに?」
「あなたこそ、私のこと知らないじゃない」
数秒の沈黙。そして、なぜか同時に空気の泡を吹き出していた。
ようやくどこか違う生物のように感じていたアズールへの警戒心がなくなり、ステラは打ち解けた感情で笑っていた。
同じ海で育ち、同じ年月を過ごし、それでも同じ人生や環境、境遇ではなかった二人はこの瞬間、物語の出会いを果たしたのだろう。
暗闇の中でふたり。
互いの瞳に映るのは、どこか似たところを感じる懐かしい気配。