まだ、陸の青さを知らない
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《sea05:双子の門番》
周囲が少しずつ変わり始めたことに気が付いたのは、それから間もなくしてのことだった。
「どうしたの、素敵な髪だわ」
「海の魔女と契約したの。おかげで彼とよりを戻せたのよ」
彼氏がステラに鞍替えしたという身に覚えのない理由で暴力を振るってきた先輩が、ある日、ステラと同じ赤い髪をして登校してきた。髪を染めたとか、魔法で色を変えたとか、そういう単純な変化ではない。
いったいどうやって手に入れたのか。誰もが見惚れる髪の質感は、ステラと大差なく自然そのものだった。
「対価さえ払えば、どんな願いも叶うんですって」
胡散臭い噂。それでも欲望というものは際限がないらしく、ミドルスクールでは海の魔女の噂が瞬く間に広まった。
それからというもの、毎日のように何かの変化が起こるようになった。
「彼、とてもハンサムになったわ」
「ええ。ですが、料理はとても下手になったそうですよ」
「特技を対価に容姿を手に入れたんだってぇ。海の魔女は対価を払えばなんでも願いを叶えてくれるし、俺たちが紹介してやってもいいよ?」
「素敵だわ。わたしも海の魔女に会いたい」
「あたしも、あたしも」
数人の男女が集まって盛り上がる会話は、海の魔女の話題ばかり。どこもかしこも変化で溢れ、変化が日常に溶け込んだ異様な光景。
「聞いた、隣のクラスの子。頭にイソギンチャクが生えたんですって」
「魔女の呪いだから仕方ないよね。払えないやつは当然じゃね?」
「魔女の呪い?」
「なんでも。願いを叶えてもらう対価を支払えない場合、魔女の呪いで操り人形になってしまうらしいですね」
「それでも小魚ちゃんたちにわぁ、願わずにいられないことって沢山あるんでしょ?」
「そうなんだよな。俺、叶えてほしい願いがあるんだけどさ、対価はなんでもいいのかな」
「見合っていればなんでもいいそうですよ。ただ、決定権は海の魔女にありますが」
そこかしこで囁かれる噂。ミドルスクールで海の魔女の話を耳にしない日はないと断言してもいいほどに、流行の最先端にその存在は君臨していた。
グレートセブンの一人、タコの人魚でありながら絶大の力を持っていた大魔法士と同じ、八本の足を持つ美しい魔女の噂を聞かない日は一日もない。
「ばかばかしい」
ステラはうんざりした顔でその群れの横を通り過ぎる。
偽った姿を得てまで手に入れたいと思う気持ちがよくわからない。恵まれていると賞賛されるものを持っていても手に入らないものは沢山あるのに、なぜ人はそこまで貪欲に欲しがるのだろう。
「ステラ、残念だが。次のホリデーのメインを交代することにした」
「・・・え?」
「それでも明後日の披露会には顔見せとして出席してもらう」
「どういう、こと?」
「わしは、より魅力ある演奏会にしたいと常日頃から思っている。今回はステラより、彼女の歌声がふさわしいと全員が納得した」
そこには、数日前に岩陰で喧嘩をうってきた歌姫の姿があった。
視力を失ったのか、盲目の瞳に信念を燃やしているものの、泳ぐのもやっという姿でそこに立っている。
「なんでも海の魔女と契約したらしいよ」
ベティが興奮気味で話しかけてくる声が気持ち悪い。
「今後一切の視界を捨てて、世界中の人を虜にする歌声を手に入れたとかなんとか。本当かどうかはわからないけど、ステラも聞いてみればそんなことはどうでもよくなるよ。とにかくすごいんだ」
その声に被せるように発せられた歌は、たしかに胸を裂くほどの衝撃だった。威力を保ったまま心の深いところまで突き刺さった棘が、痛くて、抜けてくれない。
そこまでして手に入れたかった場所。
覚悟と気配に圧倒されて、ステラは何も言い返せなかった。
「ねっ、ねっ、すごいでしょ。あ、ちょっとステラ。どこに行くの?」
「ベティ、放っておけ」
「えっ、でも」
一瞬、躊躇したベティのヒレがステラに届くことはなかった。
ステラは自分でも驚くほど呆然と、当てもなくその場を立ち去っていた。一言で言えば、なにがどうなっているかわからない。
自分の知らない場所で、自分の知っている世界が壊れていく恐怖をどういう言葉で表現すればいいのかわからない。わからないことがただ、ひたすらに怖いと感じていた。
「あれぇ、どうしたの?」
突然目の前にあらわれた長いヒレに、驚いたステラの泳ぎが止まる。
どこかで聞いたことのある声。間違いようもない。昼間にミドルスクールで話していた集団にいた、ウツボの片割れ。
「あなた、リーチ家の」
「はぁい。フロイドでぇす」
無心で泳いできたせいで、いったいどうやってここまで来たか思い出せない。長い尾ひれで進行方向を塞ぐ目の前の相手から逃げ出すには、どちらに向いて抜け出すのが正解なのか判断が難しい。
「こんな危険な場所に女性おひとりですか?」
「増えた!?」
「おや、驚かせましたか。僕はフロイドと双子の兄弟、ジェイドです」
「どうして、あなたたちがこんな場所に」
それぞれ右側と左側に金色の瞳を持つ渦中の兄弟。なんでも噂が本当なら、海の魔女への通行許可書はこの二人が持っているという。
そうでなくても珊瑚の海の常識として、この双子にまつわる噂は海の魔女以外にも色々ある。関わりを持つのは危険。脳が警鐘を鳴らし、本能が警告を宿し、警戒心が全身を包んでいく。
「何か悩みごとがあるなら、海の魔女に相談されてみては?」
「悩み、なんて何もないわよ」
「声、震えてるの可愛いねぇ、ジェイド」
「ええ、フロイド。実に加虐心を煽られます」
「ちょっと、どいてよ。興味なんかないってば」
「そう怖がらなくても、とって食ったりしねぇよ。すぐそこのタコ壺に入れば、欲しいものが手に入るってだけ」
「欲しいものなんて何もない」
「嘘はよくないって。そんな奴いるわけないじゃん」
覗き込まれるように尋ねられても、欲しいものなどひとつもない。他人の評価が正しく自己評価に繋がれば苦労も苦悩もないのかもしれないが、何が欲しくて、何を得たいのか、今のステラにわかるわけもない。
「・・・いらないものばかりよ」
吐き捨てるように呟いたステラの言葉に、双子は顔を見合わせてイヤな笑みを浮かべる。
その瞬間、ステラはフロイドのヒレに巻き取られるように体を引き寄せられた。
「イヤっ、放してよ」
「そうですか。さすが最初から恵まれたものを持っている方は他の方とは違いますね。それではどうぞ、お引き取りください」
「え?」
「ここから先は、悩める人魚のみに入ることが許された聖域ですので」
「そういうわけだから、じゃあね、ヒトデちゃん。ばいばい」
「ちょっ・・・きゃぁぁあ」
人魚が溺れる。などという経験をしたと、誰に言っても信じてもらえないだろう。
「ッごほっ、ゴホッ・・な・・なに、信じられない。嘘でしょ、女の子を投げ飛ばす奴がいるなんて」
遠心力で巻き起こった水圧に吹き飛ばされて、逆らうことも出来ないまま流されたステラは、見知った海域の岩の上で肩をついて息を整えていた。
笑顔で手を振る双子の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
「最低、大っ嫌い」
精一杯の悪態をついて呼吸を繰り返す。泳ぎが下手な人魚を見たことはあるが、まさか自分がその目に遭うとは夢にも思っていなかった。
そこから先は、どうやって家にたどり着いたか覚えていない。最悪の気分のまま眠りについて、最悪の気分で目覚めた次の朝。世界はさらに最悪の方向に進んでいた。
「いい気味だわ。あれだけ傲慢に振舞っていたくせに舞台を降ろされるなんて」
「大した歌声でもなかったから当然でしょ」
「ミドルスクールに通う稚魚が大舞台なんて出られるわけないじゃない」
「そもそも自作自演だったんじゃない?」
ひそひそと囁かれる声は、ステラがホリデーの演奏会で降板になったことを伝えている。新聞記事よりも早く人魚の噂は広がるのだから無理もない。誰もが嬉々として他人の不幸を語り、蜜の味として堪能しているだけのこと。
ここまでは別によかった。
ステラにとって自分のことを囁かれるのは今に始まったことではない。好きに言わせておけばいいと、無視を決め込んで時間が流れていくのを待っていた。
「ステラ、ちょっと顔かしなさいよ」
「いやよ。もう、私に興味なんかないでしょう」
「可哀想なお姫様を慰めてあげるって言ってんのよ」
多勢に無勢。一人では何も出来ない群れは、集団の力で抵抗するステラを連れていく。
「放してってば、いま相手にする気分じゃないのよ」
「痛っ、ちょっと、なによ。今まで大人しくしていたくせに、どうして今頃になって抵抗するわけ」
「あれでしょ、役をとられたことが悔しかったりするんじゃない?」
「それに、自分だけモテなくなったことが腹立つとか?」
「あはは、器がちっさい。そんなだから、こういうときに助けてくれる友達のひとりもいないんでしょ」
「ホリデーコンサートでリエーレ王子とお近づきになれるチャンスも無くなって可哀想」
「そういうわけで、友達も、運命の王子様もいない可哀想なステラちゃんに、わたしらからのプレゼント」
この日ほど、自分の運命を呪った日はどこにもない。
「どうせ男に飢えてる頃でしょ。こいつらも可哀想なお姫様を慰めたいってさ」
「ッ!?」
「ご自慢のヒレでどこまで逃げきれるか楽しみね」
耳に残る女たちの甲高い笑い声。捕食のためだけに狩りを楽しむ、自分の何倍もある男たち。
その場から逃げだすのに無我夢中で、どこをどう曲がって泳いできたのかも記憶にない。ただ必死で、捕まるわけにはいかないと、息が切れるまで泳ぎ続けた。
「はぁ・・・はぁ・・・」
気付いた時には一面の闇。
光の差さない領域は立入禁止区域だとされ、誰も好んで近寄ったりはしない。それでも、今のステラには心安らぐ暗闇だった。
「・・・ぅ」
全身が痛い。視界の悪い海域を必死で泳いだせいだろう。いたるところを擦りむいて、周囲に自分の血のにじむ匂いがする。
「早く、血、とめなきゃ」
血の匂いは災厄をよぶ。スクールに通う以前の稚魚でも知っている深海の掟を守るなら、ステラは早急にこの場所を立ち去り、安全なところで傷の手当てをするべきだった。
動ければ、どれほどよかっただろう。
涙が溢れて止まらない。嗚咽が闇に吸い込まれていくのに合わせて、虹色の鱗も力なく垂れ下がり、海底に涙が転がり落ちていく。それらはすべて、黒に染まりながらステラの孤独に合わせて震えていた。