まだ、陸の青さを知らない
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《sea03:リアルな悪夢》
退屈な日常を終えて自室に帰ってようやく、ステラは盛大に息を吐き出した。胃袋の中にまで詰まったドロドロとした言い様のない感情が溢れ出ていく。周囲の水が濁った気がしたが口から勝手に出ていくものは仕方がない。
「私も早く陸に行きたーい」
そう叫ばずにいられる日があるだろうか。両手を広げて、Tの字にベッドへ転がって天井を見上げてみれば、そこにはアズールとフロイドとジェイドが三人で映っている写真がある。ナイトレイブンカレッジに入学する前日、お祝いの席で撮った写真。
たった一年ほどしかたたない時間が、もう随分と遠い昔のように感じられる。
「そういえば、今日フロイドとジェイドに会ったんだっけ?」
その実感が、唐突に蘇ってくる。
「もう、いつも突然なんだから」
思い返して顔が赤くなる。もっと綺麗にしていればよかった、もっと着飾っていればよかった。あとから湧いてくる後悔の乙女心が、くすぐったくて少し照れくさい。
時間にして、きっと数分の出来事だろう。
夢といってもいいほどの束の間の時間。それでもステラは確かに幸せを感じていた。
「次はアズールも一緒だといいな」
そこでふと思い出す。
今朝見た夢。晴れない胸騒ぎがどうか現実のものになりませんようにと、ステラは眠りにつく直前まで、天井に貼り付いた三人の顔を見つめながら祈り続けていた。
次の日は、いつも通り何事もなく過ぎた。といっても、自室で貝のように引きこもる一日を過ごしていただけだが、昨日のことを思えば平穏といえる時間を送っていた。
そして夜、また夢を見る。
負の感情が滲んだ墨のような黒がアズールを包んでいる。ステラがアズールの名前を呼んでもアズールは気付かない。それどころか、頭を抱えて壊れた機械のように何かを叫んでいる。泣いている。染まっていく。
「アズール・・っ・アズー・ル」
黒い水のせいでアズールの近くまで泳いでいけない。重たい液体がまとわりついて自由に進めない。血のにじむ苦しさを感じながら、泳いで泳いで、ようやくアズールに指先が触れるというところで、アズールは黒い泡となって消えてしまった。
「アズールッ!?」
ステラが悪夢から呼び起こされたのは、朝の訪れを示すわずかな光さえも見えない早朝。視界はまだ仄暗く、眠る周囲は静寂に包まれている。
「また・・・もう、やだぁ」
続けて悪夢を見るなんてどうかしている。
本当にアズールに何かあったんじゃないかと、居ても立ってもいられずに、ステラは一昨日と同じタコ壺に向かって泳いでいた。
暗い海は危険でしかなく、人魚が一人で泳ぐことは推奨されていない。人魚も人間も善人ばかりが存在しているわけではないことをステラもよく知っている。それでも向かわずにはいられないほど、さっき見たものは現実味を帯びた夢だった。
「アズール」
息が切れるほど早く泳いできたタコ壺の中はもぬけの殻。
「一人で来るなと、いつも言っているでしょう」と怒る声は聞こえてこない。
「どうしたんです。入るならさっさと入ってください、あなたは目立つんですから」と手招く声も聞こえない。
「いいですか、何かあればこのタコ壺の中に入っていなさい」
それは、アズールが陸に上がる前に言い残したこと。
「涙は流したくても僕がもらっています。返すつもりは、もちろんない」
「大丈夫、私はそんなに弱くないから」
「それでも陸にあがってしまえば、今までのようにすぐというわけにはいかないんですよ。僕が留守にしているあいだ、ここがステラを守ってくれます」
「泣き虫タコちゃんの隠れ家だもんね」
「誰が泣き虫ですか、そういう昔の話は今ここで関係ないでしょう」
そう言って笑い合った時間が懐かしい。
ステラは昨日と同じように体を小さく折りたたんでタコ壺の底に消えていく。アズールの吐いた墨よりも黒い水に包まれたおかげで、ようやくステラは目を閉じて夢のない眠りにつくことができた。
「ステラ、起きてください」
「ヒトデちゃん。またここで寝てるの?」
「ええ、どうやらそのようです」
聞きなれた声が聞こえてくる。浮上した身体を抱きしめてくる感覚は記憶に新しい。
「おや、残念。お目覚めですか?」
「ジェイ・・ド?」
「随分呼んで起きなかったので、眠り姫のようにキスで目覚めさせてみようかと思案していたところです」
開けた視界に飛び込んできたのは「次は悩む前に実行します」と少しうなだれたジェイドの姿。本当に残念だと思っているのか、唇の代わりに瞼や額にキスを落としてくるのだから安心はできない。
「ジェイドっ」
腕を伸ばして首筋にすがりつく。夢でなく本物に会えるのなら、昨日のようにあっという間の感覚でなく、存分に甘えたいと思っていた。
「なに、ステラってば本当にヒトデモードじゃん」
「これはこれで役得ですね」
「ジェイド嬉しそぉ。ねぇねぇ、次は俺がギュッとするばんー」
ジェイドに抱き着くステラごと、抱き締めたフロイドの圧力が苦しい。こういう時ばかり察しがいいのか、二人はそろって優しく締め上げてくるのだから、夢じゃない現実の感覚に溺れてしまいそうだった。
離さなければいけないとわかっているのに、ジェイドにすがりつく腕の力が弱まろうとしない。
「ねぇ、アズールは?」
「僕たちでは役不足だと?」
「そういう意味じゃなくて」
「いけない子ですね。ステラに会いたくて会いに来た僕たちの気持ちを知っていて、まさか抱き着いてまで他の男の名前を口にするなんて」
「ジェイド、ふざけないで」
「ステラは信じてくださらないのですか。ああ、こんなに愛しているのに伝わらないだなんて、悲しすぎます。ねぇ、フロイド?」
「そうだね、ジェイド。会いたかったのは俺たちだけだったみたい」
しゅんと項垂れる姿に胸が痛くなる。巻き付く二人の強さが弱まって、悲しそうに目を伏せられると言葉もうまく選べそうになかった。
「あ、えっと、私・・・」
「ステラは俺たちに会えて嬉しい?」
「当たり前でしょ。私だって会いたかったし、一緒にいられるならなんでもッ」
そこまで口にしてから、しまったと悟る。
「なんでも、なぁに?」
「ステラ、はっきり言ってくださらないとわかりません」
ジェイドに埋めていた顔をあげて、よく似た双子の顔をみてから気付くなんてどうかしている。
「・・・いじわる」
前後左右から噛みつかれた首の付け根が少し痛い。見事に半円の歯形が残る形で所有の証を刻んだ二人は、ようやくステラを通常通りに扱うことを決めたらしい。
「意地悪なのはステラの方ですよ、それくらいで済んでむしろよかったと感謝していただきたいくらいです」
「綺麗についたね。これでしばらくはイヤでも感じていられるよ」
上機嫌な二人の間でステラは顔を赤くしたまま首筋を髪で隠す。いつまでもじんとした鈍い痛み。たしかに、これだけ目立つ位置に刻まれては感じないほうが無理な話。
「それで?」
「え?」
「会って早々熱烈な歓迎を受けた身としては、なぜそういう経緯に至ったのかの理由を知っておきたいのですが」
困ったような顔で問いかけられて隠し通せた試しはない。提案のようでいて強制。ステラは頬から赤みを消して、その辺の岩の上に腰を降ろすなり、二度も見た悪夢の詳細を二人に告げた。
「アズール、大丈夫だよね?」
見上げた先でジェイドとフロイドが顔を見合わせて、何とも言えない気配をにじませている。こういうとき、二人は欲しい答えをくれないことが多い。
現に、ぽんっと優しく頭に乗ったフロイドの手は、稚魚をあやす誤魔化しにすら感じられた。
「大丈夫だって、俺たちがいるし。あのアズールが消えるわけないじゃん」
安心を得られるには少し足りない。
二人を信じていないわけではない。夢でみた光景があまりにも強すぎるせいで、アズールの元気な姿を見ない限りは安心できない。それに近い感覚がどうしても払拭できないでいる。
「でも、そうですね。今日の日没で例の人間との決着もつきますし、一度、落ち着いたらアズールにも顔を出すように伝えますよ」
「ほんと?」
「ええ」
ようやく笑みをみせたステラにホッとしたのか、ジェイドとフロイドの気配からも緊張が抜けていく。
今日の日没。
それは、時計の針があと二周もすれば終わるくらいの短い時間。
「あ、やべ。ジェイド、そろそろ行かないと」
「ふたりとも、もう行っちゃうの?」
「そういう顔をしないで、ステラ。またすぐに会いに来ます」
今度は歯型ではなく、触れる程度のキスを残した二人の気配が遠ざかっていく。
「次に来るときはアズールも一緒に」
彼らがそう言うのだから、大丈夫だろう。
ステラは首筋に残された痛みに触れて、そっと自分に言い聞かせていた。