まだ、陸の青さを知らない
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《sea01:タコ壺の人魚》
昔、この世界に存在した偉大なる魔法使い「グレート・セブン」の一人、海の魔女は慈悲の心で人々を救ったという。
海は現代になった今でもグレート・セブンを崇拝し、魔法士に憧れるものは多い。そしてそれは海だけでなく、陸や空を含め、ツイステッド・ワンダーランドに生きる者すべてに言えることであり、魔法を使えるもの、使えないもの、獣人、妖精、人魚といった数多の種族が共存するこの世界において、魔法士の称号が持つ意味は万物共通の認識といえた。
つまり魔法士養成学校に通えることは素晴らしい名誉であり、将来を約束された最短の道も同然。特に陸にある二大学校「ロイヤルソードアカデミー」「ナイトレイブンカレッジ」は、誰もが知る名門の証。そこは誰もが無条件で通えるわけではない。通いたくて通えるのであれば、時間も財産も惜しみ無く注ぐだろう。
選ばれるための条件は多く、開かれる門扉は数が限られている。一握りに与えられた才能、知識、魔法の質、生まれながらの力を持ち合わせた者だけに許された特権。
それは、人魚も関係なく平等に。
あの日、水陸両用魔法の馬車が珊瑚の海でも名高い三人を連れていった夜、ステラは憧れを具現化させた彼らを深海から見送っていた。
「・・・みんな元気かなぁ」
あれから約一年、まだ海面が氷で覆われる少し前の夜明け間近。
ステラはタコ壺で一人、内側の壁に描かれた膨大な文字を眺めながらヒレを抱えて呟いていた。小さな気泡が軽い音を立てて浮上していくが、耳鳴りがするほど静かな海底では、それさえも心細く消えていく。
冷たく暗い海は都心部を離れた途端、闇の色に変わり、その上、タコ壺の中となれば自分の指先も見えないほどの暗闇が襲う。けれど、それが今は心地良い。
夢でもいいから会いたいとき、思い出の欠片でいいからすがりたいとき、ステラの居場所は決まっていた。
常識的な人魚は怖がって誰も近付かない海域。仄かな明かりだけを頼りにやって来れる場所。それこそ人目を避けるような岩陰に転がる大きなタコ壺は、目指して訪れなければ見つけられない場所にあった。
それは意図して、そういう風に作られている。今では珊瑚の海で知らない人はいないほどの有名人。アズール・アーシェングロットの隠れ家なのだから当然、簡単に見つけられないように出来ていた。
「アズール」
ステラの声が、また気泡に変わってタコ壺の壁で霧散する。
「ジェイド」
ぎゅっと抱き込んだ自分のヒレが、少しだけ軋む音がする。
「フロイド」
かつては呼べば響いた名前も今は壁に消えていくだけ。彼らはあの日、馬車に連れられて、誰もが羨む陸の世界へ行ってしまった。
会いたいときに会えていた頃が懐かしい。まだ二年目に差し掛かったばかりだというのに、変化の乏しい海の時間はステラを孤独で包むのに十分な時間だった。
「・・・会いたい」
ついに小さな丸形にうずくまったステラは、暗闇に溶け込むように目を閉じる。深海の静寂はただひっそりと流れていた。
「あー、やっぱりいたぁ」
どれほど眠っていたのか、幻聴が聞こえてくる。
「本当にいましたね」
聞こえるはずのない声が聞こえてくる。あまりに会いたいと願いすぎて、閉ざしたはずの耳にフロイドとジェイドの声が響いてくる。
「ヒトデちゃん、またタコ壺にへばりついてんの?」
「・・・ついてないもん」
「強がりは身体に毒です。ああ、そんなに抱き締めては、せっかくの綺麗なヒレに傷がついてしまいますよ?」
「真っ暗だからわからないもん」
「時間に余裕があるときなら面白いから別にいいけど、今日は俺たち急いでんだよねぇ」
「フロイドの言うとおりです。ほら、顔をあげて、可愛い姿を見せてください」
促される声にステラは首を横に振る。
拒否を示したのは、ただの防衛。大好きな声に反応して素直に顔をあげたとき、そこがただの黒い水だったときの絶望感は計り知れない。
「ステラ?」
珍しく、フロイドが名前で呼んでくる。
普段はいつからそう呼ばれるようになったのかわからないアダ名で呼ぶくせに、こういう時ばかり優しく響いてくるのだからタチが悪い。
「怖い夢を見たの」
ステラは閉じた目蓋の裏側に映る幻影に向かって、少し困ったように笑った。
「アズールが黒い泡になって消えちゃう夢」
口にしてしまえば現実になる気がして怖かったが、一度吐き出してしまえばそれを止める術はない。
「声も何も届かない、アズールが泣いて叫んで悲しんでいるのに、何も出来ないまま消えていく夢」
ぎゅっと抱き締めたヒレが、また少し、鱗の軋む音がした。
「・・・大丈夫、だよね?」
しんと声がやむ。フロイドとジェイドはどこへ行ったのか、やはり幻影には限りがあるのだと、ステラは小さく丸くなる力を緩められない。
あの二人が傍にいるから大丈夫だと思う反面、暴走したアズールの力の巨大さに身震いがする。まだ十七歳、世間から見れば子どもだろう。それでも桁違いの魔法力を持ち、高度のユニーク魔法を扱い、知略を巡らせて相手を手玉にとる姿は大人顔負け。
直近の会話では二年にしてあのナイトレイブンカレッジにある寮の一つ、オクタヴィネル寮の寮長を勤めているという。
「大丈夫に決まってんじゃん」
「え?」
タコ壺の奥まで伸びてきた腕が、ステラの身体を軽々と外に引きずり出す。
「フロイド!?」
「はぁい、フロイドでぇす」
抵抗する暇もなく片手で引き上げられた先では、幻影でも幻覚でもないウツボの人魚が微笑んでいた。
紛れもなくフロイド・リーチ。今は陸の学校にいるはずの彼が、なぜ嬉しそうに目の前にいるのか。検討もつかない状況に言葉も出ない。
「ステラってば、変な顔~」
尾ひれを巻き付けながら上から覗き込む顔が三日月型に歪んでいる。そのままステラを食べるつもりなのか、フロイドは大きな口を開けてステラの顎を持ち上げた。
身体をゆっくりと絞められて、山形に鋭い歯が並んだ口の中に吸い込まれてしまえば、それでおしまい。それこそ丸のみにステラは食われてしまうだろう。
ただ、本当には食べられないことをステラは知っていた。知っているからこそ、ステラはフロイドにあわせて大きな口を開けてその仕草を真似る。
「フロイドばかりずるいです」
「っンッ」
首が直角を越えて、背筋が後方に反るほどの力が背後から加わってくる。犯人は一人しかいない。
「ジェイ・・ド、っ」
端から見れば、前後から密着した巨大なウツボの人魚に締め上げられて、今にも食べられそうになっている可哀想な少女。尾ひれの先、指先はもちろん、髪の毛先まで囚われて身悶える。
誰も来ることのない暗い岩陰で交わす求愛。久しぶりの再会は濃厚な味がした。
「どうして?」
双子の求愛行動から解放されたステラは、半分夢見心地のまま言葉だけを宙に浮かせる。
相変わらず髪や手に絡み付くフロイドとジェイドの気配は好き放題しているが、二人が顔を見合わせるあたり、質問の意図は伝わったのだろう。
「アズールが人間と賭けをしていまして。アトランティカ記念博物館に向かう前に、ステラに会いに来たんですよ」
髪に唇を押し当てて喋るジェイドのせいで、話してくれた言葉の八割も理解できない。たとえそうでなかったとしても、理解できた可能性が低いということは、この際考えないでおくことにした。
「アズールが、賭け?」
思わず笑みがこぼれてしまう。
あのアズールと賭けをするモノ好きがいるとは、ステラには当然信じられなかった。
「アズールは人間に何をさせるつもり?」
「んー、それはステラには内緒ぉ」
「えー」
「あは、怒った顔がフグみたいで可愛いねぇ」
「たしかにステラの百面相は見ていて飽きないですが、フロイド、そろそろ現地へ向かわなくては」
全身にまとわりついていた空気が離れていく。
暗く陰気な深海で触れていた温もり、聞こえていた声の安心感が無くなる感覚は少し怖い。今朝見た夢と重なるせいだろう。ステラは泳ぎ去ろうとするフロイドとジェイドの背びれに触れようとして、寸で止めた。
「アズールが、勝つよね?」
「当然」と重なる声が波になって消えていく。
この胸中に渦巻く不安は一体何か。フロイドとジェイドがいる限り、万が一ということはないはずだが、それでも言い様のない靄がステラに安堵の息を吐かせないでいる。
今朝見た夢、それはアズールが黒い泡になって消える夢。
「どうか夢でありますように」
強く願う心の吐息が水面に向かって流れていく。
静かに浮上していった酸素の塊は、ステラの不安を現わすように水面まで待たずに割れてしまった。
それでも、今は信じることしかできない。
朗報を待てばいいのだと無理矢理納得するふりをして、ステラもタコ壺がある岩陰を後にした。