まだ、陸の青さを知らない
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《sea11:戻ってきた対価》
異変を感じたのはステラだけではない。
珊瑚の海に住む何百という人魚が、その変化に戸惑いの声をあげ、街は一時的に大混乱に陥っていた。
容姿が昔に戻った人、魔法が再び使えるようになった人、逆に特技がなくなってしまった人、歓喜に叫ぶ人もいれば、落ち込み狼狽える人もいる。突然、目の前の恋人が別の人魚に変わったことを受け入れられない人もいれば、かつての関係を取り戻す恋人達も現れた。
それはすべて、海の魔女の契約から解放されたことを意味している。
「・・・・っ、あ」
音を立てて海底に転がったのは、虹色の涙。
「イヤ、いやだ」
止めようと思っても止まらない。
数年蓄積されていた涙が暴走するみたいに、自分で止めることが出来ない。次々に瞳の奥から溢れては、海水に触れて結晶になっていく。
海底に虹色の宝石が転がり続けるのをどうにかしたいのに、ステラは嗚咽をこらえることもできずに声をあげて泣いていた。
「どうして涙が止まらないの」
両手で押さえても指の隙間からこぼれていく。
「アズール」
一体、何があったのだろう。知りたくても知ることが出来ない。陸と海は違う場所。海面を出れば済む話でもなく、本当に遠い場所にいるのだということをこういう時ばかり痛感する。
「ジェイド」
首筋の痛みはまだ熱をもってそこにある。
「フロイド」
それでも、名前を呼ぶ彼らの声はステラには聞こえない。
「ねぇ、私泣いてるよ。涙が止まらないよ。ねぇ、私が泣かないようにずっと傍にいてくれるんでしょ、ねぇ、答えてよ」
今すぐ人間の足が欲しい。
対価に足る十分な宝石が山ほどあるのに、それを叶えてくれる海の魔女はもういない。
「アースラ様」
ステラは無意識に、かつてツイステッドワンダーランドに存在した偉大なる海の魔女、グレート・セブンの一人の名前を口にしていた。
「アースラ様、慈悲の心でどうか彼らを助けてください」
その願いが届いたのかはわからない。
わかっていることは、今の自分に出来ることはただ待つしかないのだということ。
どんな情報も逃さずに、三人の無事を信じて待つことしか出来ない。そしてそれが何日、何年も続くかもしれないという漠然とした未来と引き換えに、願うことしかできずにいた。
* * * * * *
海は今日も観光客で溢れている。
大混乱に陥った日から一週間と少し。変わらないようで変わった人々と、変わったようで変わらない人々を入り混ぜながら、今日も海は平穏な一日を迎えている。
「ああ、その髪。もしかして人魚姫じゃないですか?」
「赤い髪に虹色の鱗、マジカメでみたのと同じだ。綺麗、本当にお姫様みたい」
「写真撮っていいですか?」
目当ての場所に向かう道すがら、ステラは観光客に足止めされて一枚の写真を求められる。
今までなら無視を決め込んでいたが、今日はベティも傍にいないのに、ステラは快くその一枚を了承することにした。
「わぁ、ありがとうございます。噂では、結構赤い髪の人魚がいるって聞いてたんですけど、全然みかけなくて」
「この色は少し珍しいから」
「そうなんですね。あのサインもらったりって出来ますか?」
「私の?」
それはさすがにどうするべきかと、ステラが言葉につまりそうになったとき、横から見慣れない人間の男が近付いてきた。
「すみません。彼女、この後約束がありまして、時間も押しているので失礼します」
「はっ、え。ちょっ」
腰を抱くように強制的に連れ去られては言葉もない。
呆気にとられた観光客も人間の着ている服がナイトレイブンカレッジの制服で、勝手に何かを納得したらしい。大方、学校のイベントか何かだと勘違いしているのだろう。
その代わり、ステラの顔は驚愕に開いた口がふさがらなかった。
「困りますね。この僕に無断でファンサービスをするなんて」
眼鏡をかけた白銀の麗人。タコ足ではなく二足歩行で泳いでいるが、声も雰囲気も間違いなく夢にまで見た人物その人だった。
「アズール・アーシェングロット?」
「フルネームで言わなくても自分の名前くらいわかりますよ」
「本当に、本当に本物のアズール?」
「ここでは人目につきます。すこし、場所を移動しませんか?」
アズールの提案に賛成の意思をみせたステラは、その手首をつかんで最初から向かおうと決めていた場所まで泳いでいく。
「だか・・ら、僕の体力を考えろ・・と」
全力で泳いだステラの速さにどうやらアズールは溺れかけているらしい。人魚のときと変わらない仕草で地面に両手をついて息を整える姿が、懐かしくて泣けてくる。
「どうして泣いているんですか?」
息を整えて立ち上がった先で、ステラが宝石を増産させていることに気付いたアズールの声が、タコ壺に反響して帰ってくる。領域外にある秘密の隠れ家。毎日何時間も待ち続けることを決めた場所で、対面できている奇跡を泣かずして、何と言葉に出来るだろう。
「誰のせいだと思ってるの」
ようやく触れることが出来る。抱き着いても泡になって消えることのないアズールが現実に手の届く距離にいる。
「ごめん、ステラ」
人間になっても自分よりも大きな手で抱きしめ返してくれたアズールの鼓動が聞こえてくる。緊張しているのか、先ほどの余韻か、記憶のなかよりも早い鼓動でアズールの息が脈打っている。
「本当にすみませんでした」
抱きしめて耳に届くアズールの声が、苦しそうで、泣いているようで、ステラは強く掴むことでアズールの声にこたえていた。
仄暗い海底でふたり。
抱き合ったまま動かない人魚と人間を海の泡だけが知らずに海面へ昇っていく。
「随分心配をかけました」
「うん、心配し過ぎておかしくなりそうだった」
「愛されてますね、僕は」
「愛されてるんです、あなたは」
魔法薬で人間の姿でも息ができるようにしているというアズールの顔を覗き込む。眼鏡が見慣れない顔を反射させて、アズールの表情を曇らせた。
「契約書がすべて砂に変わりました。見てください。これは、昔の僕です」
手に持っていたらしい写真。
エレメンタリースクールの写真だが、ジェイドとフロイドと一緒に小さなタコの人魚が映っている。控えめに言ってもふくよかで、目立つほど可愛かった。
「あなたと違って僕はグズでノロマなタコ野郎だった。誰もが羨む髪も、憧れるヒレも、嫉妬する声も持っていない、あるのは人より多い手足だけ。最初、僕はずっとあなたのことが嫌いでした。努力せずに恵まれた容姿と比較して、どうして自分はと、劣等感を抱く対象として位置づけていました。でも、あの日。傷だらけで泣いているあなたをみて、僕は人が表面だけでは計り知れないものを誰もが抱えていることを知った。そして夢を見つけたあなたの強さに惹かれ、満月を浴びた海面で歌うあなたに恋をしました」
静かに語るアズールの声は、腕を伸ばせば触れ合える距離で淡々と紡がれる。
「誰にも渡したくなかった、どうしても手に入れたかった。わからないことは沢山ある。もっと知りたい、教えてほしい。結晶石を口実に契約してまで僕に縛り付けたのは、いつかあなたが本当の僕を知って逃げたくなったとき、どこにも行かせないようにするためでした」
真っ直ぐに立つアズールは、タコの足を持つ人魚の姿ではなく人間の姿で語っている。
何かの決別を告げに来たのか。
ステラの胸中はアズールが何を言うつもりなのか見当もつかずに、不安そうにヒレを動かすだけ。
「ステラ、契約書はもうない。それでも僕を選んでくれるなら。まだ僕たちと共に未来を生きたいと思ってくれるなら、もう一度、僕と契約してくれませんか」
「いや」
冒頭部分だけしか聞かずに、アズールの制服を掴んだステラの声が叫ぶ。
「アズールから離れるなんていや。涙も声も心だって全部あげるから、だからずっと私と一緒にいて」
見上げたアズールの顔は驚いている。
息を呑んで赤みが差したその表情は、いったいどういう意味なのだろうと、ステラはアズールの答えを待っていた。
「本当にあなたという人は、どうしようもなく馬鹿です」
もう一度、強く抱きしめられて困惑する。
「ステラ、愛しています」
その言葉をアズールの口からきいて、ステラはようやく安堵しながら首を縦に何度も振った。重なる唇の強さに、生きている喜びを分かち合う。
人魚は一途だと言われている。一度決めた番は、その生涯を閉じるまで共にあるという。ステラも例にもれず、もう三人を手放すことは到底出来そうになかった。
「というわけで、契約書の代わりにスマホをあなたに渡しておきます」
「え?」
「登録は、僕とジェイドとフロイド。あとご実家と僕たちの家は登録済みです。常に携帯して、いつでも連絡が取れる状態にしておいてください。マジカメで他の雄と連絡を取り合ったりするのは許しません。アカウントを作成できないようにしてありますが、念のため告げておきます。僕たち以外に連絡先を教えるのも禁止です。それから、今度僕の経営するモストロラウンジで歌ってください。陸の果てまで手に入れるという夢、どこまでもサポートするので中途半端に遊びにくるのはなしです」
当然のように早口で喋りだしたアズールのテンポについていけずに、ステラはいつの間にか手に乗せられた薄型の機械を握りしめる。顔はアズールを見つめたまま、多分、口も無作法に開いたままだったかもしれない。
「ステラ、聞いているのか?」
「・・・はい」
「まったく、腑抜けていては困ります。本当は渡したくなかったんですが、ジェイドとフロイドも渡せといいますし、このご時世。持っていないのなんてステラくらいですよ。陸と海は遠いので、なければなにかと不便ですし、仕方なく渡すのですからしっかり大事にしてください」
使い方はわかりますね。と、念を押されても正直よくわからない。海の中では特殊な鳴き声を出せば大抵の不便は解消される。陸は、こういう機械がないとどうも難しいらしい。
「時間がないのでもう行きます」
ニコリと笑う顔だけ残して、アズールは颯爽と去って行ってしまった。
「・・・え?」
後に残されたステラは一人、ようやく追い付いてきた事態に盛大な笑い声をあげて、夢の再会を喜んでいた。