まだ、陸の青さを知らない
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《sea09:ヴィラン》
「着飾る」ということをこの日の夜ほど意識した日があっただろうか。
髪を丁寧にとかし、鱗の位置を整える。ヒレの角度、佇まい。笑いかけるタイミング。通り過ぎていくたびに、振り返る人波の群れ。羨望と嫉妬、好奇な目が全身を舐めまわすように見つめてくる。寒い水底。
愛嬌はよくわからないが、振り撒ける愛想はすべてばらまくつもりでここにいる。
「すっすすステラ様、好きです。受け取ってください」
「綺麗な花ね、ありがとう」
「ステラ様、どうかわたしと一曲踊っていただけませんか」
「ごめんなさい。今夜は誰も選ばないって決めているの」
微笑みだけで人を殺せるかもしれないと思ったことは今までにない。それでも今は、それすら可能かもしれないと思うほど、ステラは完璧な人魚姫を演じていた。
気分がいいのも影響しているかもしれない。
理由は簡単。なぜか、今日は嫌がらせが一回もなかった。どこか遠巻きに眺められるだけで、近付いてくる悪意がひとつもなかった。触れる害がない一日はストレスもなく、ステラは最高の気分のまま赤い髪をなびかせ、気品ある態度を心がけていた。
これもすべてアズールのおかげといいたいところだが、小瓶にはまだ手をつけていない。
「お集まりの紳士淑女の皆様」
貝の音が鳴り響き、司会が登壇して、いよいよ本番が始まった。
ホリデーの演奏会を成功させるための祝賀会。スポンサーを招くための会ということもあり、名前くらいは聞いたことのある有名人から雑誌でみたことのある偉人まで、多方面に顔の広い役者がそろう。
仮にも王宮主催の祭事の成功を願う会。一年で一番大切な演奏会を支援する人は多く、裕福な貴族たちはこぞって参加する。退屈な海の世界で、数少ない娯楽に関心を持たずにはいられないのかもしれない。
それに、ここは大人たちにとって大事な社交場のひとつだろう。
「今年は海の魔女との契約により、最高の歌声を手に入れた歌姫がメインをつとめます」
盛大な拍手と共に迎えられた盲目の女性。詳細を聞かされていなかったとみえる一部の人は面食らった顔をしていたが、大多数の人は称賛を浴びせるように笑顔で拍手を送っている。
それをみて、改めてステラの瞳に闘志の炎が燃え上がった。
初めて降板を伝えられたとき、ショックと同時に「なぜ?」という疑問、そして真っ先に感じた「悔しい」という本音。
奪われて初めて、失って初めて、ステラは歌が自分にとって存在意義を表すものだと知った。知ってしまったからには、もう知らなかった頃には戻れない。スポンサーたちが許諾した今年のメインは、もう何をしても変わらない。
自分で、なくした。
それがたまらなく不快で、不甲斐なくて、どうしようもなくイヤだった。だから決めた。
本番では決して披露できない自分の歌を今日、ここで知らしめておこうと。最初は自分の席として用意されたその場所。たとえ取り戻せなくても、瞳を対価にして歌声を手に入れた歌姫を相手に、奪い返すくらいの気持ちはみせておきたいと思った。
「ここで皆様に、人魚姫の再来と名高い未来の歌姫ステラ・ノーブルの声を聞いてもらいましょう」
前座として用意された舞台。案の定、会場からはさざ波に紛れた酷評が一定数沸き起こる。
「初めは、あの子が主役をやるはずだっただろう?」
「どうみてもまだ子どもじゃないか」
「一度決めた配役を入れ替えると聞いたときは驚いたが、まああの年では仕方あるまい」
「そもそもなぜ、あの子が主役に?」
「おおかた、お偉方の贔屓目だろう。実力よりもコネがものをいう場合もある」
「まあ、歌をきけば実力のほどは知れるさ」
「しかし余興にしては趣味の悪いことを考えるものだ。いったい誰が設けた席か、下手をすればこの一回であの子のこれからは終わるだろうに」
盲目の歌姫が勝ち誇った笑みを浮かべているのがよくみえる。苛立ち、焦り、不安、恐怖。舞台に上がるまで、ステラはそれらに押し潰されたらどうしようと、内心穏やかではなかった。けれど、立ってみたら意外とそうでもない。
それは、視界の端に最近仲良くなったばかりの三人組の姿を見つけたからかもしれない。タコとウツボ。大人たちに引けを取らない出で立ちで、堂々とそこに鎮座する彼らの瞳に自分の姿が映っていることだろう。
ひとりではない。
絶対大丈夫だと、なぜか自信をもってそう言える感情に、ステラは勝利の笑みを浮かべて大きく息を吸い込む。ピアノの音がひとつ聞こえたその夜、ステラは何年先まで語り継がれるほどの美声で会場を魅了した。
「お見事です。ただの歌で感動したのは生まれて初めてです」
「ヒトデちゃん、すげぇじゃん」
「ありがとう、ジェイド、フロイド」
歌いきったあとの高揚感をまとったまま、ステラは拍手を送る三人のもとに駆けつけていた。
「それに、アズールも」
「素晴らしかったです」
「聞いてくれてありがとう。まさか、三人がいると思わなかったから驚いちゃった」
「驚いたのはこちらも同じです。魔法薬は、結局使わなかったんですか?」
感動の余韻なのか、いつもより表情が柔らかくみえるアズールにステラはいたずらな笑みを返す。
「歌を披露するときに使うわけないでしょ。使うのはこれからよ」
「はい?」
「これで、もっと完璧」
そういって、取り出した小瓶の液体を一気に口に流し込む。そのまま現状を理解していないアズールの手首を掴んで、ステラは全力で会場の廊下を泳ぎ始めた。
「ちょ、あなた。なにを考えているんですか!?」
「いいから、撒くのよ」
「撒くって何を」
アズールの声が途中で切れるのも無理はない。ステラの声にあてられた人魚たちが、こぞって握手やサインを求めて波のように襲ってくるのだから、これで逃げないほうがどうかしている。
右へ、左へ。時に息を潜めて立ち止まる、なんてこともない。やりたいことをして、行きたい場所まで突き抜ける。
周囲の混乱を置き去りにして、ステラは逃げるのではなく、初めて奪い去る感覚を味わっていた。
「あははは。楽しい」
「笑い事ではありませんよ・・はぁ、はぁ・・ぅっ・・こん・な・・・聞いてません」
「アズール、全力ってすごく楽しいんだね」
「・・・楽しいのは結構ですが、タコは他の人魚と違って早く泳げないんですよ」
息切れをするアズールの横で、頭の先からヒレの先まで真っ黒に染まったステラが笑っている。
夜の深海にとけこむその姿をステラだと認識できる人魚はどこにもいないだろう。一部のタコとウツボを除いては。
「ぎゃははは、うける。アズールめっちゃ息切れてるし」
「笑うな、フロイド」
「そうですよ、フロイド。笑っては失礼です」
「ジェイド、お前も顔が笑ってるんですよ」
会場を魅了したばかりの歌姫が、会場をとっくに飛び出して領域外のタコ壺にいるとは誰も思わないだろう。あれほど万全な警備を整えていた大人たちも知らない。明日には今夜の噂で大変なことになるかもしれない。新聞の一面記事にのるかもしれないし、問題行動をする人魚は今後一切歌わせてもらえないかもしれない。
それでも、今夜の主役は紛れもなく自分だった。
釘付けにされた魚たちの目が、息をするのも忘れて見つめてくる熱量が、たまらなく快感で心地よかった。あの会場にいた今夜の人たちの心に、自分の記憶は少なからず残るだろう。
それが今のステラには、どうしようもなく心が踊る要因のひとつでもあった。
「あー、全然、歌い足りない」
アズールを囲んでジェイドとフロイドが楽しそうにしているのを眺めながらステラは叫ぶ。
そして唐突に、水面めがけて泳ぎだした。
「こっ今度はなんですか?」
うんざりした声をあげながら、アズールもついてきてくれるらしい。右手と左手をそれぞれジェイドとフロイドが引っ張っているせいかもしれないが、ステラはそれに構っていられるほどの余裕がない。
興奮が勝って、後の事なんてどうでもよかった。
ジェイドやフロイドがついてこようと、アズールの息が切れようと、この胸に湧いて溢れる感情を止めることが出来ない。
『ねぇ、アーシェングロット。私の色を真っ黒にできる?』
『それは髪の色や肌、鱗といった全身ですか?』
『二時間、ううん。一時間でいいの、一瞬で影みたいに黒く・・・できる?』
それは涙を対価に交渉した魔女との契約。
一夜限りの魔法。
何に使うか、どんなことをしようと思っているのか、聞かれれば答えるつもりでいたが、アズールは何も聞かずに不敵に笑っただけだった。
『誰に言っているんです。お安いご用ですよ』
なぜ、会場に三人の姿があったのかはわからない。家系にスポンサーの地位があったのかもしれないし、潜り込んだというのも考えられる。
もしかしたら契約の結果を見にきただけ。いや、アズールの魔法は何から何まで完璧なのだから、本人たちもそんな心配はしていないだろう。
「あーーーーー」
水面に顔が出るなり声の限り叫んでみる。
海のなかとは違い、潮風が肌にまとわりついて、乾いた空気が肺を痛めてきたが関係ない。
もう、全部どうだっていい。
ステラは生まれ変わった気分で、声の限り叫んでいた。歌っていた。
全身からとめどなく訴える感情のままに、悪役を成し遂げた快挙に輝いていた。
「アズール、ジェイド、フロイド。私、歌姫になるわ。海だけじゃなく、全部手に入れてみせる。いつの日か陸の世界の果てまでも」
波の音がうるさいくらいに鼓膜を震わせる。頭上に浮かぶ満月の光を浴びて、ステラの魔法は暗闇のなかから解放されていく。
頭の先から色の液体を浴びたように本来の姿に戻っていくステラを三人の人魚だけが、その目に焼き付けるように見守っていた。