番外編
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『願うことなら』晶
ふと見上げた空に流れる雲は、風に追い立てられて西の方へ向かっている。時折覗く青の色が優しい雰囲気を出していても、今日の降水確率は九十パーセント。
まだ雨は降っていない。微妙な天気。
それでも見渡す限りの人々が手に傘を持って歩いていたということは、降りだすのも時間の問題ということだろう。
「なーにしてんの」
すっかり喫煙場所として定着した店の裏口。リハーサル途中の休憩といったところか、珍しく一人で煙草を吸う晶に声をかけられた。
「なになに、今日は早いじゃん。オレに会いたくて、つい来ちゃったとか?」
言いながらタバコの息を明後日の方向に吐き出した晶は、指先に持つ煙を消している。あまりに自然すぎて、それが気遣いであるということに気付くのが遅れた。
「ありがとうございます」
「んー?」
ゆるい返答の意味はわからない。
心地良い声の響きに煽られて、うやむやに散った「ありがとう」は、晶にとっては必要なかったことかもしれない。
「邪魔してしまいました?」
本当はまだ吸う予定だったに違いないタバコの長さに、少しの罪悪感を覚えてしまう。休憩の息抜きにかぶるとは、タイミングが悪かったなと、申し訳ない声がこぼれ落ちた。
「全然」
軽い返答が、ひらひらと蝶のように晶の笑みを運んでくる。
目に見えない粒子ごと舞った残り香を、吐いた息に合わせて空へ昇華させるためだろう。頭上には相変わらず、降りそうで降らない雨雲が広がっている。それでも流れる風だけは、速度を保ったまま走り続けていた。
「オレがきみを邪魔に思うことなんてないよ」
「え?」
「んーん、こっちの話。で、こんな早くにどうしたの?」
「雨が降る前に来ようと思ったら、予想外に早くついちゃいました」
空から視線を戻した先で、同じように空を見上げていたらしい晶と目が合う。
「……っ…」
いつからそんな目で見つめられるようになったのか。その目にどういう心情が隠されているのか。知るよしもないが、初めて会った頃よりも晶の瞳に熱がこもっているように感じてしまう。
トップシンガー。
明確にその看板を背負うと、人は魔力を放つようになるのだろうか。灰色の空に見え隠れする青色に魅せられたみたいに、晶の瞳に吸い込まれそうになる。
「今、なに考えてるの?」
一気に距離の近付いた顔が間近に迫る。
「…っ…晶さんの目が、綺麗だなって」
「えー、照れるぅ」
独特の語尾で軽口を叩く。それなのに、いつものからかう調子ではなく、キスをする直前の甘い空気が漂っている気がするのはなぜなのか。
「ねぇ、もっと見つめてよ」
この声に捕まったら逃げられないことを知っている。
自分の意思とは無関係に、作り出された世界に招かれる感覚は、いつも見ている世界と同じ。目が離せない舞台と同じ。登場人物が五人か二人かという違いでしかない。
「ずっと見つめていいから、そうしてオレだけを見てて」
舞台が日常の中に降りてくる。時計の針が風を奪ったように、一瞬の静寂に魅せられる。
そうした延長線上で思わず「はい」と声に出しかけたとき、空から落ちてきた一滴の雨が頬を撫でた。
「えっ、あっ、雨?」
あれだけ降りそうで降らなかった空から、次々に透明の雫が降ってくる。
「晶さん、早く中に入りましょう」
腕を引いて駆け込んだ裏口。たどり着くまで変化のなかった空からは、今はもうバケツをひっくり返したような激しい雨が降っている。それでも逃げ込んだ場所は地下世界。
しんとした静寂と独特な湿気の匂いが充満して、蒸し暑い息苦しさを感じてしまう。
「なんだか、暑いですね」
熱いのを湿気のせいにして、晶から視線を外す。
とてもじゃないけど、今は顔を見る余裕がない。静かな廊下に自分の心拍だけが異常な早さを告げている。原因はわかっている。雨に打たれて冷静な思考回路を戻されると、先ほどの時間が急に恥ずかしくなってきたせい。あのまま、晶の雰囲気にのまれていたら、今頃溶けて雨に流されていたかもしれない。
「晶さんは濡れませんでしたか?」
現実的ではない考えを濡れた袖をはたくことで地面に落として、なんとか誤魔化すことに意識を集中させる。
「うん。オレは全然大丈夫。はい、これ使って」
「えっ、そんな悪いですよ」
「いいから、いいから。その代わり、リハ見ていってよ」
頭に被せられたタオルに視界が途切れている。晶の胸から下しか見えない以上、いまどんな顔をしてるのかわからないが、逆に顔を見られることもないからありがたい。
「オレのタオル、そんなに気に入っちゃった?」
不意打ちに覗き込んできた視線に囚われる。
「抱いて寝ちゃったりして」
「そっそんなことしません!」
「えー、してくれてもいいのに」
つれないなぁと笑う晶の距離が遠ざかる。そのままどこかへ消えてしまうような気がして、慌ててタオルから顔を出したところで自分の過ちを知った。
「リハ、見ていってくれるんでしょ?」
無意識の頷きは肯定の意味。
「……っ…」
無言で首を縦に振った拍子に奪われた唇が、忘れた熱を刻み付ける。
「じゃ、いこっか」
何事もなかったように、いや、少し不敵に笑った晶に手を握られて、足が自然と前に踏み出す。
当分タオルは返せそうにない。
タオルに染み込ませた吐息が、叫べない感情を吸い込んで、晶の歌に変わるまでは。(完)