番外編
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『ふたり隠れてキスをしよう』クー
トンボが川の水を叩いて飛んでいく。止まることの知らない静かな渓流が、心地いい響きと共に視界の端を泳いでいた。
「なんだか幸せな夢を見ているみたいだ」
ポツリと聞こえてきたクーの声に、視線を向けてみる。
見上げるほど高い位置にあるクーの瞳が眩しそうに空を見上げているが、空から斜線を描く木漏れ日に当てられたクーは、森に迷いこんだ旅人を永遠の夢にさらっていく妖精みたいだった。
「わかる気がします」
無意識に発した言葉をクーは優しく受け止めてくれる。
二人並んで歩く森の小道は静かに太陽光を足元に届け、街中では聞くことのない虫の合唱や鳥のさえずりに溢れている。あと数センチ近寄れば手が触れる距離にいながら、触れない距離感がクーらしい。
それでも小石につまずいてしまったときは、きっと咄嗟に助けてくれるだろう。
「どうかした?」
なぜ、そんな風に見つめるのか。クーの隣にいる心地よさの正体を知りたい。
「自然はいいですよね」
答えはもらえない気がして、慌てて視線を別の場所へ向ける。
当たり障りのない言葉を発したのは、そうでもしないとクーの魅力に呑み込まれてしまいそうだったから。
夜の舞台で見るクーも、自然の中で見るクーも、切り取られた絵の住人と遜色ない。夏の夜の夢。シェイクスピアの描いた喜劇の題名が頭をよぎるほどには、浮世離れした空気が満ちている。
「そうだね」
立ち止まり、向き合うために体勢を変え、少し眉を下げて細まったクーの瞳は、何とも表現しがたい色をしていた。
「クーさん?」
まるで本物の妖精のように、このまま消えてしまいそうな気がして、無意識にクーの服を掴んでいた。今度は少し驚いたのか、一瞬だけ目が見開かれる。
「ワタシはどこにも行かないよ」
そんなに不安そうな顔をしてしまっただろうか。
優しく崩れた表情に撫でられる髪。穏やかさに包まれている錯覚が心地良い。
「キミに黙って消えたりしない。だけどそうだね、キミをさらって消えてしまうのはありかもしれない」
悪戯に告げる口が憎らしい。
思わずじっと見上げた頬に、髪を撫でていたクーの手が滑り落ちてくる。
「キミといると、不思議と心が凪いでいくんだ。キミはワタシに欲しいものをくれる気がする」
「欲しいもの?」
「それがなにかはワタシにもわからないんだけどね」
クスッと笑ったのがいつもの顔で、知らずにホッと息をはいていた。
胸を撫で下ろすために一度下げた視線。
「ずっと探しているんだろう。だから旅をしてしまう――」
告げる静かな声につられて、再度見上げた顔に抵抗はない。
見えたのは閉じたクーの瞼。
さらさらと光る白の髪が綺麗で、やはり悪戯に片目を開けた顔が悔しいほど憎らしい。
「――なんて、そう言えばキミはついてきてくれるかい?」
安心感なんてとんでもない。何が起こっているかなんて、理解する暇もなかった。それこそ、妖精の魔法にかけられたように現実味のない感触が去っていく。
「これは二人だけの秘密」
かすめた唇の熱は、あとから体温をあげるものらしい。本当は盛大に叫んでしまいたいのに、クーの指先が落ちた髪を耳にかけてくれるのでさえ、真っ赤に染まった顔は何も反応してくれない。
「約束だよ」
ごくりと喉が鳴るのは、睫毛が触れるほど近いクーのせい。
「キミとワタシの」
「はい」と答えたはずの声は、再度重なった唇の奥に溶かされていく。
気付いていないだけで、旅はもう始まっているのかもしれない。渓谷の音に紛れて消えた吐息と共に。