番外編
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『ふたり隠れてキスをしよう』モクレン
都会とは違う澄んだ空気を思いきり吸い込んでみる。
鼻に抜けていく自然の気配が新鮮で、肺の奥に溜まっていく密度の感覚に酔いしれそうになるほど、日常では感じることのできない空気の味がする。その目新しさに、鼓動が高まっていくのを止められない。
「空気が美味しい」
思わず零れた声は、自分でもわかるほど弾んでいたと思う。それもそのはず。
ここは、夏フェス会場の山の中。
一人では絶対に来られなかった場所。会場から少し離れた木陰で熱さをしのぎながら、目と鼻の先で体を動かすメンバーを眺めていた。
「何かうまいものでも見つけたのか?」
「あ、モクレンさん」
木陰に重なるように現れた影に笑ってしまう。
本番を待ちきれないのか、時間が経過するごとにモクレンの体は軽くなっていくように見えた。浮足立っているといえばそれまでかもしれないが、純粋に踊ることを楽しむ姿に、想像しなくても最高のステージになる確信を与えてくれる。
「で?」
「え?」
「なんだ、聞いてなかったのか?」
言いながら近付いてきた声が珍しく隣で足を止めて、結果、木陰の下で二人肩を並べる。
てっきり本番まで「モクレンにとっては軽い準備運動」を続けるだろうと思っていたのに、どうやら束の間の休憩をここでとるつもりらしい。他のメンバーは、ここぞとばかりにどこかへ姿を消してしまった。
「いいんですか?」
「ん?」
本当に今日は機嫌がいいらしい。右隣に立つモクレンの瞳が、まるで宝石のようにきらめいている。その瞳を見つめ返していると、ここが山の中だということをつい忘れてしまいそうになる。
夜でも店でもない。衣装もメイクもいつもと違う。まだ明るい時間から二人きり。
「姫?」
怪訝そうな声で呼ばれて初めて、自分がじっとモクレンの顔を見つめたまま無言でいることに気が付いた。
「どうかした?」
「いや、あの…っ、モクレンさんが楽しそうだなと、思って」
「ああ、楽しい」
そう言って笑う顔は出来ることなら写真におさめたい。いつもと違う場所で、普段見られない表情と出会えるのは、それだけで来た意味があるとうなずける。
「踊れる場所があるというのはいい。早く舞台で踊りたい」
「今にも体が浮いて飛んで行ってしまいそうですね」
「そうだな。出番を最初から私に全部寄越せばいい。それなのに本番まで……あいつら、どこへ行った?」
そこで周囲を見渡して、ようやくモクレンは誰もいないことに気付いたらしい。
「もうとっくに、皆さんどこかへ行かれましたよ」
笑い声が漏れてしまうのも仕方がない。モクレンがこちらにきた瞬間、蜘蛛の子を散らすように消えていったメンバーを思い出すとおもしろい。
「かわいいね」
「え?」
うまく聞き取れなかった言葉に顔をあげて問いかけたのがいけなかったのかもしれない。
「せっかくだ。栄養補給になにか食べ物をよこせ」
「私はなにも持っていませんよ?」
「嘘をつくな。なにか食べていただろう」
持ち上げられた顎に期待した自分と、触れるほど近くで不満そうに瞳を細めたモクレンの仕草に、また笑いがこみあげてくる。
「空気がおいしいって独り言、聞こえてたんですか?」
まさかダンスに夢中で視界にすら入っていないだろうと思っていたモクレンが、独り言で釣れるとは思っていなかった。
モクレンの指が支えたままの顔から笑みを取り払うことが出来ない。
「そんなに美味しかったのか?」
「はい、いつもと違う味がしました」
「へぇ、それは興味深い」
「っ……んぅ、ん?」
夏の風が木の間を駆け抜けるのと同時に、唇に触れたのはモクレンの気配。
驚きに見開いた視界には、アメジストを光らせていたはずの瞳を閉じた長い睫毛が見えている。
「ちょ…ッ…モクレ…ん」
反射的に離れようとした後頭部にもう片方の手を添えられて、舌の上を滑った痺れが体を硬直させる。
本当に食べられてしまいそうだと、音をたてて踏み込んでくる唇に、吐息が吸い上げられて消えていく。
「うん、まあ。たしかに、いつもと味が違う気がしないこともないな」
満足のいく味見をしたといわんばかりに、モクレンの顔が笑っている。
「でもさすがにこれ以上は私が無理だ」
それはどういう意味なのか。
本番を知らせる合図の中ではわからない。それでも去り際に「その目でずっと私だけを見つめていて」と囁かれた言葉には、自信をもって答えることができた。(完)