番外編
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『紫陽花傘に魅せられて』ケイ
差した傘を打ち付ける雨音が周囲の喧騒をかき消して、アスファルトの上に張った水面を歩く音だけが聞こえてくる。
「はぁ」
思わず零れ落ちた溜息は、通い慣れた店の開店時間よりも少し早く進んでいた。雨のせいか。傘に遮られた視界は足元ごと灰色に染め、仄暗い空気が肺の奥まで満ちていく気配がした。
「……きれい」
大通りを走る車を避けるタイミングで、持ち上げた傘の端に白の毬玉が飛び込んでくる。灰色の世界に突然現れた色。赤でもなく、青でもなく、人通りのない深い雨に彩を添える風物詩に引き寄せられる。
遠目にはひとつの花に見えながら、近づくと単独の花が寄り合っているだけだと気づく。特別意識したわけではない。ただ、視線が奪われるまま公園に植えられた紫陽花の前で立ち止まると、意識しなくても梅雨独特の気配にのまれてしまいそうだった。
「この辺で白って珍しい」
無意識のうちに頭に浮かんだのは、これから訪れようとしているアンダーグラウンド。誰にでもなく呟いた言葉は雨の音のせいで傘の内側に秘められてしまった。似ているようで違う集合体。紫陽花は吸収する成分で色が変わるというが、何色にも染まらない白は、濁った空気の中では思わず手を伸ばしてしまうほど美しい。両手の平に丸ごと乗る紫陽花をフラスタに加えることが出来るなら、少しは彼らと今を共有できるだろうか。
「美しいものだな」
聞きなれた低い声が耳をかすめる。
「ケイさん!?」
驚いたのも無理はない。雨の夕暮れ。人気のない公園で遭遇するには確率の低い話。けれど聞き間違いではなく、紫陽花から視線を移した先では、やはりケイの姿がそこにあった。
「どうしてケイさんがここに?」
「偶然きみを見かけて、な」
少し視線をそらした後、ケイは再び視線を合わせてくる。いや、合わせるというより凝視されているという方が近いかもしれない。
「私の顔に何かついてますか?」
「いや。紫陽花に少し嫉妬していた」
「嫉妬?」
「熱い視線を向けられるのは、願わくば俺だけでありたいものだ」
「まっまた、そういうことを」
視線が雨の中を泳ぐ。照れた成分を吸収して赤が差した顔を傘の下に隠すことが出来て良かった。それでもケイは些細な変化を見逃しはしないだろう。これだから、彼らの前で平常心を保っていることが難しい。
嘘か本当か、冗談か本気か。物語のように結末がわかっていれば、もう少しうまく対処できたかもしれないのに。
「これからスターレスですか?」
「ああ」
柔らかく笑いかけてくれる仕草に、ホッと肩から力が抜ける。なぜだろう。最近、二人きりを意識する時間が少ないからか、こうして何でもない日常の合間に居合わせると何か特別なもののように感じられる。見つめ合う静寂が周囲の喧騒を遮断して、ただの公園の一場面さえ、ケイの手にかかればまるで舞台の一部に紛れ込んだ錯覚に陥ってしまう。
「こんなところで会えるとは思わなかった」
「え?」
「このまま店まで同行出来ると俺が嬉しい。もちろん、きみが構わなければの話だが」
「はい。行きましょう」
何でもない風に差し出された手に無意識に手を重ねる。
握られて初めて、ケイと手を繋いでいるという事実に意識が追い付いてきた。
「え、あのっ」
灰色の湿気に満ちた世界にケイの匂いが重なりを告げる。
「こっこれは、どういう…っ…?」
突然、体躯のいい胸元に引き寄せられる身にもなってみてほしい。そう文句を言いたくても、至近距離で顔をあげるには心臓の音がうるさいような気がした。
雨が消してくれたとしても、密着した肌では誤魔化しようがない。
いつもと違う雰囲気に流されて、手を差し出したそのとき、はじめてケイの服が雨にあたっていることを知った。
「ケイさんが濡れてしまいます」
見上げるほど近くなった距離に赤面するよりも現状を打開したほうがいいだろう。傘の外はまだ雨が降っている。自分の傘を折りたたみ、雨宿りでもするみたいにもぐりこんできた長身は、当然のように傘を奪って肩を抱き寄せてきたのだから気が抜けない。
「雨というのも悪くないものだな」
悪戯に笑って歩き出した横顔を追いかける。
向かう先は同じ場所。同じようで違う形をした花弁が、集ってひとつの花となる場所へ。(完)