番外編
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『指先から染みる甘露』モクレン
狂い咲き。
そう表現したくなるほど頭上一面に覆いつくされたピンク色の靄は、ほのかな花の香りの中に「サクラの精」と見まごう人の姿を馴染ませている。
「姫、こっちにおいで」
誘うような風が告げるモクレンの声。目の前にふわりと現れて、手を取りながら桜の下に連れていく。
もう見頃も終わりだからと、比較的周辺よりも咲く時期の遅かった場所に足を運んでみただけのつもりが、なぜこんなことになったのか。考えても、気まぐれに訪れた運命のような偶然に理由などない。
「あれは・・・モクレンさん?」
陽気な春の気配にあてられて、意外と人の多さが目立つ公園。たった一本残された満開の木。街の中に休憩場所として設けられた程度の小さな公園で、見知ったシルエットは間違いなくモクレンの姿だった。
モクレンは気づいていないのか、じっと桜を見上げたまま動かない。いや、桜というよりかは季節外れに一本、満開に咲く桜の木に興味を持っているように見えた。また、何か。ダンスのヒントになるものを得たのだろうか。
「モクレンさん、こんにちは」
「ああ、姫か」
立ったまま腕を組んで、頭上の桜をじっと見つめていた顔がコチラを向く。最近どことなく温かみを増した眼差しではなく、どこかうつろな瞳。もともとの中性さも相まって、より一層境界線のぼやけた雰囲気が妖しの熱を放っている。
一言で妖艶。
触れてしまえば消えてしまいそうな儚さがモクレンの体からにじみ出ているようだった。
「どうかした?」
ハッと、現実に引き戻される。先ほどまで感じていた気配が薄れ、今はいつものように優しいモクレンの笑みが目の前にあった。
「いっ、いえ」
誤魔化すために、耳に髪をかけるふりをして視線をそらす。そこで、モクレンの手に小さなビニール袋があることに気が付いた。
「買い物ですか?」
「ん、これか」
カサリとビニール独特の音が響いて、モクレンは中を思い出したように声を紡ぐ。
「桜餅だ」
「桜餅ですか、いいですね」
「だが、足りない」
「え?」
「うまい桜餅があると聞いて買いに来たはいいものの、みっつしか買えなかった」
残念そうな声。への字型に曲がった唇が不服を訴えているが、それは本心だろう。モクレンの胃袋は際限を知らない。
「それは残念でしたね」
思わず同調の言葉が口をついたのは、そんなモクレンの姿を知っているから。
いつの間にか近くなった彼らとの距離。気づけば咲いている桜のように、知らない間に近くなった距離が、言葉の向こうに隠された心情を見せてくれる。ステージの上でも下でもない、見慣れた街の風景の中でもそれは同じ。
「たしかに残念だ。仕方がないから思いつく限りの店に寄って桜餅を買い占めてやろうかと思っていた」
「そこまでですか?」
「それはさっきまでの話だ」
悪い顔。何か妙案を思いついたらしい。おもむろに近くの柵に体重を預けると、買ったばかりの桜餅を取り出して「はい」と差し出してくる。
「私にくれるんですか?」
いくら近くなった距離でも先の未来を予測することは難しい。予想外の行動に驚きの声をあげるとするなら、ここで食べる食べないという選択肢よりも、モクレンが食べ物を人に分けるという事実の方に困惑の声が漏れた。
「ひとつ食べろ」
「え、でも、貴重な桜餅なのに」
「私がやると言ってるんだ。遠慮なく食べていい」
「じゃ、じゃあ。いただきます」
おずおずと指でつまんで持ち上げる。モクレンがじっと見つめてくる以上、そのまま口に運ぶほかなかった。
「んっ、おいひぃでふ」
桜よりも桜の匂いが漂って、薄紅色の生地に包まれた甘さが舌の上に広がっていく。甘過ぎないほどよさが、たしかにモクレンが足を運んで買いにくるだけの美味しさがあると思わず頷きたくなるほどだった。
「可愛いね」
「え、なんですか?」
「君に会えるなら、ここで足を止めて正解だった」
言いながら、残ったふたつのうちの一つをほぼ一口で食べるモクレンに言葉を奪われる。先ほどまでどうやって桜餅の味を感じていたのか。わからない戸惑いに、味覚まで奪われる錯覚さえ与えられた気がした。
話題をそらせようと、頭上を覆う木に視線を戻す。道行く周囲も物珍しさから足を止めて魅入る人は多いが、立ち止まるつもりはないのか、モクレンのように桜餅を食べている人は見かけない。
「姫は、なにか用事?」
「いえ、少し桜を見ようかなって思っただけで特に用事というわけでは」
食べ終えたモクレンに視界を戻す羽目になってしまった。結局、話題も見つからないまま戻した視界の中で満足そうに微笑むモクレンの瞳に捕まる。
「姫、こっちにおいで」
モクレンにサクラの精でも憑りついたのだろうか。妖しの気配が漂う仕草に思わずまた、金縛りにあったような不思議さを感じてしまう。
「君の指先から桜の匂いがする」
「それは、さっき食べた桜餅のせいだと思います」
「このまま食べてしまいたいと言ったらどうする?」
「えっ!?」
「冗談だ」
微笑した口角に目が離せない。先ほどから指先に唇が当たっているが、それがわざとしているのか、偶然なのかの判断もつきにくい。
「というのは冗談だ」
「どっちですか!?」
心臓がいくつあっても足りないと、心拍の跳ね上がった体が熱を帯びて紅に染まる。
やはりいくら距離が近づいたと言っても、未来は予測できない。まだまだ先の言動を読めるほどには至らないのだと思う反面、読める日は永遠に来ないのだろうとも漠然と悟る。
「どっちでもいいだろう。私が君を思っていることに変わりはない」
脳に直接響くような甘さがふわりと舞い落ちて、前振りなく感情を奪っていくのだから。現状に戸惑い、現実に抗うな、という方が無理な話。それならば、今だけは。風に煽られた花弁さえも嫉妬する春の中で。
(完)