番外編
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『触れた熱に惑う』黒曜
春先のコートに身を包んで立っていると、どこからともなく飛んできた桜の花びらが目の前を通過していった。まだ残っていたのか、小さな花弁は風が吹くたびにくるくる舞って、薄紅色の流線型を描きながら地面へと足を降ろしていく。
「よお」
花びらの先から現れた短い低音。
冬からほとんど変わらない格好の黒曜が、待ち合わせの時刻通りに、約束した場所にやってくる。意外のようで、やっぱり真面目だと思わず笑みが零れ落ちた。
「なに笑ってんだ?」
怪訝な顔で問いかけてくる瞳が、心なしか優しく映る。春と表現できる心地よい気候の中にいるからだろうか。「何でもないです」と首を横に振る代わりに、黒曜に一歩足を向けて距離を縮めた。
「黒曜さん、お誕生日おめでとうございます」
開口第一声は決めていた。
誰よりも早く、直接伝えたかった気持ちを黒曜は察してくれたに違いない。昨日「店に行く前に会えませんか?」と素直に尋ねた質問に、何かを思案するような顔で数秒答えに迷っていた黒曜だったが、「いいぜ」とうなずいてくれて今に至る。
別に、会おうと思えばどこでも会える。それでも、会いたいと思ったときに会えるとは限らない。散りゆく桜が与える切なさを春の感傷と言えばそれまでかもしれない。けれど、その切なさが黒曜の返事を後押ししてくれたのかもしれなかった。
「ありがとな」
ポンっと、黒曜の手が頭にのる。
大きな手のひらは重くもなく軽くもない重力を乗せて、髪形を崩しに来る。わしゃわしゃと。それがなぜか、ひどく安心感を与えてくれた。
ずっとこうしていたい。
そう思って盗み見た黒曜の顔に、ドキリと心臓が跳ねた気がした。
「っ」
頭頂部から落ちるようにして引き寄せられた後頭部。
唇が柔らかな衝撃を伝えてくるせいで、目を閉じる暇なんてどこにもなかった。
あるのは奪うように口づけた黒曜の長いまつげだけ。
抵抗は無意味。
わかっているからこそ、腰に手をまわして引き寄せる黒曜の胸に両手をついてその思いを受け入れる。
「少しは抵抗しろよ」
なにがツボに入ったのかはわからない。
くすくすと嬉しそうな黒曜の息が、額に移動した唇の隙間から聞こえてくる。
「だって」
うまく目を合わせられずに地面に流した顔は、たぶん黒曜に指摘されるまでもなく真っ赤に染まっているだろう。
薄紅に舞う桜の花弁を足先で遊ぶふりをして、照れた熱を散らせるなら、この胸の高鳴りも誤魔化せるかもしれない。どうか黒曜に、この顔の赤さを指摘されませんようにと願いたくもなる。
「じゃあ、行くか」
成功して欲しいと思いはしたが、いざ成功すると戸惑いに慌てるほかない。
「あっ、まっ、待って」
追いかけるように伸ばした手は、ポケットに手を突っ込んだ黒曜の腕にすがりつくように、その体重を乗せていた。
ぐらつきもしない体躯。
一人でドキドキして馬鹿みたいだと、自分らしくもない感情に泣きたくなる。それでも振り払われることもなく、嫌がることもなく、されるがままに受け止めてくれた黒曜の温もりがすべての答え。
「おい」
「え?」
「花びらついてんぞ」
そう言いながら伸びてきた無骨な指先が耳の横辺りについていた花びらを連れ去っていく。前振りなく近付いては遠退いていく仕草にいちいち振り回されたくはないのに、視界に映る黒曜の一挙手一投足に煽られてしまうのだから仕方がない。
「これ・・・プレゼント」
「普通に渡せよ」
ノドの奥から笑う独特の声が黒曜の機嫌の良さを浮き彫りにする。ポケットに突っこんだままの手を自分が抱きしめて束縛しているのに、その手に受け取って欲しいというワガママを「可愛い」と思ってくれている気配が容易に伝わってきて嬉しくなる。
「じゃあ、あげません」
「もう俺のもんだ」
反対側の手が伸びてきて、贈り物は簡単に奪われる。
もともと渡すために用意したプレゼント。無事に渡せたのであればそれでいい。
「大事にしてくださいね」
「それは約束出来ねぇな。ってか、大事にしなきゃならねぇもんを俺に寄越すんじゃねえよ」
「でも、もうそれは黒曜さんのものになりましたし」
「ったく、いい性格してるぜ」
腕を組んで歩くだけが、満たされるほどに楽しい。いつもの見慣れた風景も違って見えるほど、黒曜越しに見える風景は薄紅色に染まって見えた。
あの角を曲がればスターレスというところまで来たとき、ふいにポケットから出てきた黒曜の指先に、貼りついた思いごと絡めとられる。
「お前はそうして、ずっと俺だけを見てろ」
グイっと引かれた体に、先ほどまでの余韻はない。
今夜もきっと最高のステージを魅せるため、黒曜はいつも以上に渦中の人物となるだろう。店に入れば二人きりの時間は終わり。わかっていてもやはりどこか寂しさはぬぐえない。
「明らかに寂しいって顔してんじゃねぇよ」
やはり、今日の黒曜はひどく機嫌がいいらしい。
「大事にしろっていうお前の願望を叶えてやるから大人しく客席で待ってろ」
ロッカールームに進行を変えた後ろ姿は、耳に魔法を吹き込むようにして消えていく。口にしなくても黒曜は永遠に大事にしてくれるだろう。それがわかっているからこそ、言われなくても黒曜しか映せなくなる。
おかげでまた、煽られた心は薄紅色に染まる花弁のように落ちていく。どこまでもずっと、触れた熱に惑うままに。
(完)