番外編
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『鼓動並木は布越しに』ソテツ
雲一つない晴天に恵まれているのに、空はどこかパッとしない薄青の色をしている。それが悲しみではなく優しい色だと思えるのは、ようやく温かくなり始めた穏やかな陽射しのせいなのかもしれない。
「わっ」
「キャッ」
突然背後から大声で呼びかけられて足元がぶれる。
「おっと」
後ろから横に回って、肩を抱き留めてくれた存在が犯人に違いないが、それよりも内心、盛大に転ばずに済んだことにホッと安堵の息を吐き出していた。
「ソテツさん!?」
黒いマスクをしているが、言い当てた人物に間違いはない。匂いも声も雰囲気も店で見るよりも一層、外界に馴染んだ影が黒いマスクの違和感をなくしている。似合いますね、なんて。こんな場違いな状況ですら口にしてしまいそうだった。
「あはは、悪い悪い」
本当に悪いと思っているのか、ちっとも悪びれない顔が子どものような笑みを浮かべている。その顔を見て、怒れるなら苦労しない。
「もう、驚きました」
そう言うのが精いっぱいの反論をソテツがどう聞いたのかはわからない。それでも、ゆるやかに瞳を細めて腕の力を弱めてくれた。
こんなご時世。満開の桜を見に、散歩をしている人たちに会いはするが、例年通りの賑わいは見られない。毎年同じ光景を繰り返していた桜並木は驚くほど静かに妖艶な枝を伸ばし、薄青の風を堪能するようにサァッと軽い歌を奏でている。
「はい」
「なんですか?」
「驚かせた詫びだ」
隣に立ったソテツが渡してきたホットドリンクに、手の平から温かさが広がってくる。
「ありがとうございます」
お礼を言って素直に受け取った頭に、ポンっとソテツの手が重力を乗せる。大きな手に撫でられるのは心地いい。きっとソテツに見つけてもらったノラ猫は、こんな気持ちで懐いてしまうのかもしれない。
「さ、行くか」
頭から落ちて、右手をさらったソテツの手が体を連れていく。いったいどこに行くのか、聞いてもはぐらかされるだけで、結局目的地まで答えは教えてもらえないのだろう。それでも半分マスクで見えない横顔に「え、どこに行くんですか?」と遠慮がちに問いかけてみた。
「どこにも」
ニヤリと細めた目が鋭利に歪む。
「ただ、お前と歩いてみたかったってだけだ」
それまで普通に掴まれていただけの手に指が絡まって、ソテツの歩幅が半分に減っていく。徐々に同じスピードに並んだその気配の隣で、反比例するように赤くなっていく頬を止められない。繋がる指先から緊張が伝わっているかもしれないが、ソテツにバレたら何をされるか。
「マスクがあって助かった」と、思っていることを悟られたくはない。誰がどう見ても、桜並木を寄り添って歩く二人の関係は「恋人」にしか見えないだろう。誰が何と言おうと季節は春。散歩するには絶好の気候と風景が目の前には広がっている。
「それにしても見事なまでに人がいないな」
「そうですね」
朝と昼の中間の時間。花見シーズンには足の踏み場もないほど、どこまでも人の群れで埋め尽くされているはずの道は、驚くほど静かな気配に満ちている。
酔っ払う大人も、はしゃぐ子どもも、出会いを求めた男女もいない。時々、散歩をしている親子や夫婦、ジョギングをする人にすれ違う程度で、誰もが短い時間の「花見」を楽しむ程度にとどめているようだった。
「今日は誘ってくれてありがとうございます」
もらった頃より幾分か冷えたホットドリンクを繋いでいない方の手で握りしめる。まだほんの少しだけじんわりと、熱を持った飲み物が揺れて、ここが現実だと告げたような気がした。
「たまにはいいだろ」
頭上から降ってくるソテツの声もどこか弾んで聞こえるが、たぶん間違ってはいないだろう。
「せっかくなのに、上にある桜は見ないのか?」
そう促されて、平行線に見ていた視界を上にあげる。
「ッ!?」
マスク越しに当たった唇に、心臓は確実に止まっていた。不意打ちは本当に心臓に悪いからやめてほしいと、何度願ったところでソテツ相手には無意味なこと。
マスクがあって本当によかったと、絡まり合う指先に引かれるまま、早まる心臓の音だけを聞いていた。
完