番外編
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『越してきた隣人』link鷹見
桜のつぼみが太陽の光を吸いこんで、弾けようとする直前の穏やかな朝。薄い青が空を覆って、滲む雲が優しい色をしている朝。春の匂いを運ぶ風に揺れる洗濯物の向こうに、その人は現れた。
「おはようございます」
昨日引っ越してきたらしい隣人は、穏やかな笑みを浮かべて煙草を青空の下に漂わせている。どちらかといえば彼は朝というより夜が似合う気がした。身なりの整ったスマートな佇まいと、真っ赤な瞳。口元の穏やかな笑みに反して、内包した鋭利さを隠そうとしない視線に、なぜか朝から悪寒が背筋をはう。
「おは、ようございます」
随分と暖かな朝だと思った数分前の感想に比べて、体は自然と自分の身体を抱きしめていた。
「ああ、すみません。突然声をかけてしまって」
「いっいえ。私こそすみません。でも、少し驚きました」
洗濯物が視界を遮る。ぱたぱたと悪戯な風は胡散臭い彼の雰囲気を煙ごとどこかに流してしまったらしい。次に見た赤い瞳は随分と人当りのいい雰囲気を持って、そこにいた。
気のせいか。
瞬時に解けた警戒心が自然と肩の力を弱める。休日の朝からベランダで出会うにしては、あまりにも突拍子で心の準備が出来ていなかったのだから無理もない。
「あ、そうだ。少し待っていてもらえる?」
「えっ、はい」
煙草の吸殻を持っていた携帯灰皿でかき消しながら、部屋の中に消えていくその横顔を見送った。
春の風は、洗濯物をよほど愛しているらしい。外に干すのは間違ったかもしれないと少し視線を落としたそのとき、「待たせてごめんね」と律儀な声が聞こえてきた。
「こんな場所でどうかとも思ったんだけどね。引っ越しのご挨拶を」
「えっ、あ、わざわざすみません」
「昨日は会えなかったから」
丁寧にそう言って笑う姿に他意はみられない。
単純に、タイミングのよい挨拶なのだろう。
「鷹見といいます。何か困ったことがあったらいつでも遠慮なく言って」
「高見さん?」
一人暮らしが多いマンションに表札を掲げる人は少ない。それ以前に、彼以外の住人名を憶えているかと聞かれても自信がない。
「スターレスという店で働いているんだ」
「スターレス?」
「ショーレストラン。よかったら友達でも誘って遊びに来て」
にこやかに告げるその口調に、あきらかに営業トークなのだと伝わってくる。彼からすれば、隣人に鴨がいたというだけの話。幸い、お酒の飲める年齢ではあるが、生憎、ホストに貢げるほどのお金は稼いでいない。
「私、大通りのコンビニ店員なので」
「知ってる」
「え?」
解いたばかりの警戒心が再沸してくる。自慢ではないが、隣にまで越してくるようなヤバいイケメンとの面識は身に覚えがない。端整な顔をして底知れない恐怖を与えてくる「たかみ」という人物を思わず凝視していたに違いない。
「よく気が利くし、いつも愛想がいいなって思ってた」
にこっと、また誰にでも見せるような笑顔を貼り付けて鷹見は続ける。
「俺もね、そこで煙草買ってるから」
そう言って、ポケットから取り出された煙草の銘柄をみて急速に記憶は巻き戻した映像を脳内に投影した。
「ああああああ、私もあなた知ってます」
知っているどころではない。顔見知りと言ってもいいかもしれない。
「よかった。覚えていてくれて嬉しいよ」
毎日煙草を買いに来るイケメンをどうして今の今まで忘れていたのか。いや、こんな偶然があるわけがないと脳が勝手に忘却を決め込んでいたのだろう。
「全然わかりませんでした」
「そうか。眼鏡かけてないし、髪もセットしてないから」
さっきお風呂からあがったのだと、聞いてもいないオプションをつけてくるあたり抜かりがない。いつもスマートに煙草を買っていく紳士がまさか隣人になるとは、いったい誰が想像しただろう。
「これからもどうぞよろしくね」
嫌味のない笑顔をだけを残して、鷹見は再度部屋に帰ろうと体の向きを変える。けれど途端に何かを思い出したように「ああ」と足を止めて振り返った。
「それから、これからはキミが洗濯物を干すときはベランダで煙草を吸うのはやめるよ」
紳士とは、彼のためにある言葉なのかもしれない。
「じゃあ、おやすみ」
ガラガラとどこにでもあるようなお決まりの音を最後に、彼の部屋の窓ガラスは接触を絶った。
いったい、今、自分の身に何が起こったのだろう。その答えは誰にも教えてもらえそうにない。ただ、春を告げる風だけが愛しい洗濯物を撫でるようにバタバタと耳元を通り抜けていった。
完