番外編
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
チームPホワイトデー公演「初恋」前夜
『彼らは皆、ジナイーダに恋をする』
乾いた音が耳に響く。次いで、じんとした痺れが手の甲から甘く走って、叩かれたことを知った。
「ちょっとメノウ!?」
驚いたマイカの声が駆け寄ってくる反対側から「大丈夫ですか!?」とリンドウの声も近づいてくる。けれど、赤と緑の中央で固まったまま何か反応出来るわけでもなく、ただ呆然と本物の革製品を弄ぶ目の前の男を見上げることしか出来なかった。
どうして叩かれたのか。
周囲が慌ただしく焦燥に喘いでいるのをどこか他人事のように感じながら、メノウの瞳を見上げていた。普段の穏やかさは微塵もない。まるで別人。ツルゲーネフ原作の初恋の練習に付き合ってと半ば強制的に参加させられたときから、こうなることは必然だったのかもしれない。
「イケナイ子」
いつの間に物語の登場人物に昇格したのか、メノウの声に誘われた意識が心臓を連れていく。叩かれたばかりの手の甲を無意識に抑えた指先に力がこもっていく。決して恋をしてはいけない相手ピョートルを見つめるジナイーダもこんな風に彼を見ていたのだろうか。
体に与えられた余韻がドキドキとうるさくて何も聞こえない。それなのに、メノウの声だけがはっきりと耳に届く。
「そんなに僕が好き?」
冷めた瞳が体ごと、その場に釘付けにしてくる。
「それともワルい子って言わないとキミはわからないのかな?」
一歩近づいてきたメノウの瞳の中に囚われる。
「僕は言ったはずだよ。会いに来てはいけないって」
そのまま腰に手を回され、引き寄せられた体がぐらりと傾いて、メノウの腕の中でゴクリと息を呑むのがわかった。近いだとか、キスされそうだとか、混乱と焦燥がない交ぜになって「これは約束を守らなかった罰」だと、いつしたかもわからない約束を口にするメノウの唇に強引に吸い寄せられていく。
「わかる?」
「……っ…メノウ…さ…ん」
やっと現実に追いついてきた体が唇を奪われまいと、反射的に抵抗する。それでも乾いた声はメノウの名前を完全に言い切る前に別の名前を呟いていた。
「リンドウさん?」
数秒前までメノウの腕の中にいたはずが、なぜかリンドウの腕の中に移っている。この現象に名前はない。目まぐるしく変わる温度と感触に理解をしろと命じられても、混乱に渦巻いた心臓を口から飛び出さないようにさせるだけで精一杯だった。
「ッ…痛い」
「わかる?じゃ、ありませんよ。メノウ」
「何するの、リンドウ?」
「何って、みればわかるでしょう?」
頭上で不穏な空気が漂っていても何もできない。
「ほら、彼女にちゃんと謝ってください」
「ごめん、ね?」
完全に物語の中から抜けきれないメノウが片言の謝罪を口にすると同時に、リンドウの背後から伸びてきた手に今度は腕が引っ張られていた。
「疑問形って、どうなのそれ。あ、キッチンから氷貰って来た」
「夜光さん、ありがとうございます」
「ちゃんと冷やして、いくら演技でも本当に叩くなんてありえない」
「大丈夫ですよ、全然痛くないですし」
ひやりと手の甲に当てられた冷気に、ようやく現実世界に帰って来たような気がした。先ほどまでの空気は、どこか異次元だったといっても過言ではない。現実と夢の狭間。曖昧な世界は妙に居心地がよくて、良くも悪くも現実離れし過ぎていた。
「メノウ、台本にない台詞喋りすぎ」
夜光が手を冷やしてくれているのを横から覗き込むように確認したマイカがメノウを引きつった顔で見つめている。それをまったく何とも思わないのか、メノウはにこりと満足そうな笑みを浮かべて「そこは、ほら。ヒロイン役が可愛くて」と言い放つのだから返答に困るしかない。
「マイカもピョートル役になったら僕の気持ちがわかるよ」
「そんなのやらなくてもわかる。大体、ヒロイン役としてリハに参加させるならもう少し考えなよ」
「えっ、マイカさん。本当に、本当に大丈夫ですから」
メノウと対峙するように向きを変えたマイカの気配にイヤな予感がして慌てて仲裁に入ったものの、夜光に捕まっている指先は確実に弧を描いていた。
「彼女がいくら大丈夫だと言っても。これ以上は参加させられません」
「リンドウさん」
代わりに仲裁に入ってくれたらしいリンドウにホッと息をつく。イベント公演まで日がないのだから、喧嘩をしている時間はどこにもない。
「えー。ヒロイン役で参加してくれた方がリアリティがあって面白かったのに」
「メノウ、あまり好き勝手すると怒りますよ」
「残念。ねぇ、今度は僕と二人のときに付き合って?」
「ダメです。メノウと二人きりにはさせません」
「ひどいなぁ」
「さ、練習しますよ。あなたはここで見ていてください」
前半をメノウに告げた後、頭を撫でて練習に戻るリンドウにそう言われれば「はい」以外に返す言葉が出てこない。単純にずるいと思うのはダメなのだろうか。練習に戻る夜光に渡された氷水の冷たさだけが、冷静さを与えてくれるみたいだった。
「手、平気?」
「真珠さん?」
どこにいたのか。ひょこっと後ろから現れた真珠に心臓が跳ねる。
「ごめん」
「どうして謝るんですか?」
「ウラジーミルの気持ちがなんだかわかっちゃった」
「それはどういう・・・」
「今度はメノウじゃなくて、おれを見つめてもらえるようにがんばるよ」
そう言って駆け抜けていく真珠に、手の甲に落とされた痺れとは違う痺れが全身を襲ってくる。
「ジナイーダをどうしようもなく愛しているのはおれだから」
その笑顔はずるい。彼のジャケットに引き寄せられるお客さんが多いのもうなずける。
もうすぐPの公演「初恋」は幕を開ける。わかっていても彼らに与えられた刺激のせいで、きっともう純粋には楽しめない。この記憶と体に刻まれた物語は決して淡く優しいだけではないのだから。
完