番外編
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『あなたがよければ』
何度も聞きなれたメロディーが自然と足の指を前後に動かす。仄暗い照明は顔の色をわずかに隠して、天井からぶら下がるクジラの骨の陰影を映している。スターレスの中を泳ぐ視線は舞台を中心にぐるりと一周し、目当ての人物の姿をとらえていた。
「あ、いた」
そして、胸が痛みを訴える。
見たことのない笑顔。少し離れた場所に見える影は顔を近くに寄せ、二人きりの秘密を共有しているみたいに重なり合っていた。
「あの噂、本当だったんだ」
誰にでもなく一人呟く。他の誰が見ても、惚れているのは誰で、惚れられているのが誰かと一目で判断がつくだろう。それでも気づかないふりをしている。不毛な恋の行方など、聞くだけ野暮な話。お互いが納得の上で日常を演じているのであれば、それはそれで一つの世界になるというもの。
「はぁ、実際見るとつらいな」
百聞は一見に如かず。風の噂で「ソテツに彼女が出来たらしい」と聞いたが、「らしい」ではなく事実だった現実に気分が滅入る。それでも足を運んだ以上、公演が始まる前から帰るわけにはいかない。いくらなんでも不自然すぎると、再度溜息を吐きだした時だった。
「今日も早いな」
静寂な店内に漂うBGMを横目に、挑戦的な顔でソテツが微笑みかけてくる。顔馴染みの常連。その程度の認識しかないはずなのに、店に足を運ぶたびに声をかけてもらえるのなら、それだけで心が軽くなる。
けれど、今日はそういうわけにもいかなかった。
「なんだか、とても嬉しそうですね」
「そうか?」
なんてことない風を装っているが、目が喜びを隠しきれていない。相反する感情を抱く者同士、昨日と今日ではまとう雰囲気に雲泥の差がある。むしろ大きな溝が出来たと言っても過言ではない。それなのに、ソテツは障害など何もないという風にいつも通りを装っている。
「今日は少し飲みたい気分なんです」
テーブルに置かれたメニュー表に目を配らせる。ソテツの瞳の中を見つめていると、視界が涙で歪みそうだったのでちょうどよかった。
「とりあえず、いつものでいいか?」
無骨な指先がトンっと示した場所には、定番に注文する「私」の酒。記憶の断片に存在しているだけでも喜ぶべきなのだろうが、今日ばかりはうまく笑みが作れそうにない。
「元気ねぇな。それなら、こういうのはどうだ?」
頼んだことのない色のお酒。種類が豊富なだけに色々試してきたものの、手を伸ばしたことのない変わった名前のお酒だった。
「そういう系、私はあまり好きじゃないです」
「たまには挑戦してみるのもありだろ」
「悪酔いしちゃうんですよ」
「酔ったら迎えに来てもらえばいいだろ」
「誰にですか?」
「誰にって、そりゃお前を迎えに来たい奴にさ」
「いませんよ、そんな人」
「案外身近にいるかもしれないぜ」
「じゃあ、責任もってソテツさんが家まで送ってください」
「先約がなければ、俺だってそうしたさ」
ふわりと鼻につく煙草の残り香。いつもの匂いに、別の匂いが混ざっているのは気のせいではないだろう。女物の香水。ソテツが最近になって、よく見にまとっていた正体に合点がいく。
「そういうところ、ずるいです」
そう言いかけて、「彼女が出来た人はやっぱり言うことが違いますね」と平然を装った。
「相変わらず、情報仕入れるの早ぇな」
「ソテツさんのことならなんでもお見通しですよ」
「お前がいうと洒落にならないだろ」
至近距離で微笑むその顔を独占できると夢見ていた。
「可愛い彼女さんですね」
「ああ、まあな」
照れたように視線を向けたその先にいる姿に、自分を何度重ねただろう。
「彼女が出来たからってパフォーマンス落とさないでくださいね」
「手厳しいな」
「少しでも下手になったらフラスタ送りませんから」
「お前のそういうとこ好きだぜ」
求める「好き」と、もらえる「好き」が持つ言葉の違いに叫びたくなる。ソテツは知りもしないだろう。胸が張り裂けそうなほどの痛みも、熱く焦がれるほどの苦しみも、目の前の相手が言葉に出来ない事実を。
「それなら、いつもの頼みます」
「いつものって、たまには違うの頼めよ」
「いいんですよ」
だって、そのメニューを見るたびに思い出してくれるかもしれないでしょう。心の中に宿した悪魔が囁く言葉をソテツが知ることはない。けれど、それでいいとどこかで思う。無意識の束縛さえも、もう意味がなくなってしまったのだから。
「あまり飲み過ぎるなよ」
大きな手が頭を数回叩いて通り過ぎていく。その手はもう別の誰かを抱くために存在しているというのに、温かな優しさだけを残して頭上を通り抜けていった。
「ひどい男」
自嘲気味に吐き出して苦笑する。触れたばかりの前髪は、まだぬくもりを残したみたいに愛しさが残っている。それでも薄れていく気配のように、ソテツの残像はすぐに消えていくだろう。
「はぁ」
いっそ嫌いになれたら、どれほどラクかしれない。天井に散らされた明かりを探して静かに息を吐く。もう間もなく、ソテツが頼んだ酒を持って戻ってくるだろう。そのときまでには平常心を装っていなければならない。だけど誰もいない今だけは、虚しい海の中を泳ぐ朽ちたクジラのように、滲んだ視界の中で息を吐いて。
完