番外編
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『すれ違いが混ざるとき』
無言の空気が重たい。
窓の外に見える空は冬に似つかわしくないほど心地よい光が広がっているというのに、室内にこもる空気はどんな空よりも重たく沈んでいる。原因は色々とある。ただ、それを口にすれば何もかもが終わるような気がして静かな溜息だけが溶けていた。
「割れてしまいましたね」
綺麗な線が入った切り口は、心まで真っ二つにされたようで息が苦しくなる。
「ケガはありませんか?」
優しく伸ばされた手を思わずはたいてしまったのは不可抗力。いま触れられてしまうと、本当にそのマグカップのように壊れてしまいそうで怖い。一瞬驚いた顔をしたリンドウも何かを察したのか、何も言わずに後片付けをし始めた。
今日はオフだというリンドウが部屋に訪ねてきたのは数分前。
また美術館にでも行ってきたのか、よくわからないチケットがポケットから飛び出しているところは彼らしくない。慌ててきてくれたのだとわかってはいても、今は素直にそれを喜べるほど心が広く保てない。
「大体、あなたは薄着すぎるんですよ」
床にまき散らした水をふき取りながら、どこか困ったように吐き出されたリンドウの息が宙を舞う。
「熱があるというから急いで来てみれば、そんな恰好でふらふらして」
「リンドウさんには関係ありません」
「何か怒っているの?」
どこまでも色が定まらない翡翠の瞳が眼鏡越しに揺らめく。リンドウお気に入りの眼鏡は、彼の顔立ちを引き立たせるアイテムでしかない。「眼鏡まで似合うなんてズルい」そう言いたくなる場違いな台詞を飲み込んで、「別に怒ってないけど」と素っ気ない態度を返した。
「その声は怒っているよね?」
「だから、怒ってないって言ってるじゃないですか」
そう語気を荒げて咳き込む。
ゴホゴホっと乾いた咳が肺からこみあげてきて、思わず口を手で覆った。
「ほら、病人なんだから横になって」
「心配しなくても大丈夫なので帰ってください」
「僕が心配しなくなったら帰るよ」
よしよしと子供をあやすように頭を撫でて布団をかけてくる。相手をいたわるように見えて、結局はリンドウの思うとおりに運んでしまう。どうしていつもこうなのか。風邪で弱りきった心では反抗すらままならない。
「ご飯は食べた?」
無言でリンドウに背を向ける。
今は喋りたい気分にどうしてもなれない。
このまま黙っていれば早く帰ってくれるはずだと、望んでもいない期待だけがゴホゴホっと自分では制御しきれない咳に変わって、小さく枕に吸い込まれていった。
「薬は飲んだようですが、顔を見るなりコップを投げつけられるとは思いませんでした。そんなに気分が悪いんですか?」
尋ねられたそのとき、ちょうど携帯の画面が軽い振動をたてる。
複数のメッセージを見る気力がないほどには、頭が朦朧とし始めていた。
「あなたも随分とモテますね」
「リンドウさん?」
「いいえ、なんでも」
ニコリとほほ笑んだ顔に悪寒が駆け抜ける。風邪のせいだと思いたい。リンドウがこういう顔を見せるときは、大抵よくないことが起こるのだと、固唾をのんだ空気に緊張感が走っていた。
「風邪、誰からもらったんですか?」
ギシリとベッドに人が一人増えたことを知らせてくる。
「ひどい人だ」
「リンドウさん?」
「僕の気持ちを知っていて、わざとこんなことをするなんて」
グイっと肩をつかんで仰向けにされた体が痛い。緑色の髪がさらりと流れて、リンドウの瞳が真上から見下ろしてくる。
「あなたが怒っていなくても僕は怒ってるよ」
「どうしてリンドウさんが怒るんですか?」
「わからない?」
その口角に何を悟れというのだろう。
逃げ場のないベッドの上で、ままならない体力に息を切らせて、そのうえでこの麗人相手に何を答えろというのだろう。
「あなたが無自覚に僕以外の人に愛されているからです」
「は?」開いた口が塞がらない。
「それを言うならリンドウさんの方が無自覚に私以外から愛されているじゃないですか」
絶対言わないと決めていた声が、かすれた喉から這い上がって零れていく。
「昨日だって私の席には来てくれなかったし、それに私に見せたことない顔で笑ってました」
熱が上がっていく。
彼はスターレスのトップを走るのだから無理もない。一番近くに身を置くものとして理解しているつもりだった。リンドウが輝き続けるために、我慢しなくてはいけないことなんて星の数以上に存在している。
わかってほしいとは思わない。それでも独占欲に染まる日が確かにある。リンドウとしてではなく、一人の男として見つめられたいときがある。
「なんだ、そんなこと気にしてたんですか?」
「そんなこと!?」
きょとんとしたリンドウの顔に、また怒りがこみあげてくる。
「あのお客さん。閉店間際までいたし、リンドウさん送ってあげたそうじゃないですか」
「駅までね」
「そういう特別な優しさってファンサービス超えてると思います」
「可愛い人ですね。嫉妬してくれていたなら、そう言ってくれたらよかったのに」
「そういうことを言ってるんじゃないんです」
「じゃあ、どういうこと?」
頬に触れてくる指先の感覚に言葉が途切れる。
そのまま耳の横を通って柔らかく掴まれた髪が、まるで真っ赤に染まったみたいにリンドウから目が離せずにいた。
「贔屓にしてくださっているお客様なので仕方ないでしょう?」
「だ、だったら、何してもいいっていうんですか?」
結局、こうなるのだと。想定内の展開に荒ぶる感情の抑えがきかない。もともと体調不良の心境にとどめの一言が放たれたのは昨日のこと。
「あの人、リンドウの彼女は私だって言ってました」
もう投げつけるマグカップはどこにもなく、代わりに掴んだ枕を投げつける。おかげで見事に風邪をひいた。しんどいのも、苦しいのも、朦朧とするのも全部リンドウのせいだと駄々をこねる子どものようにわめく声が止まらない。
「私のこと嫌いだったらそう言ってください」
自分でも情緒不安定のヤバイ女だと思う。
それでも溢れる感情が涙をこぼして、嗚咽交じりの言葉が止まらない。しくしくと行き場を失くした思いと共に、室内には泣き声だけが響いていた。
「はぁ」
この状況で、盛大な溜息がリンドウの口から放たれる。驚くなんてものじゃない。信じられないという憎しみをこめてリンドウをにらんだ。
「あなたは僕と彼女、どちらの言葉を信じるんですか?」
呆れたような顔に、どんな表情を返したかはわからない。涙をぬぐうように触れて来たリンドウの指先が優しくて、それまで入り乱れていた感情が、ピタリと止まったように大人しくなる。
「それに言ったはずですよ。怒っているのは僕の方だと」
「え?」
「寂しいからって他の男とのキスは見過ごせませんね」
「違っあれは不可抗力で」
「僕が知らないとでも思っていたのですか。あなたはもう少し、スターレスという存在に愛されている自覚をしたほうがいい。それに、あなたの口から僕以外の名前を今は聞きたくない」
反論を許さない威圧的な視線に、先ほどまであれだけ好き放題言っていた口が開かない。キスはしたのではなくされた。いつもそうだ。彼らは許可もなく愛を押し付けてくる。
「あなたの風邪は僕がもらう」
「ッ!?」
「代わりと言っては何ですが、僕からの愛をあげますよ。大丈夫、他の誰にも負けません」
宣言通りベッドの上で馬乗りになったリンドウは、妖艶な顔で見下ろしながらメガネをはずす。仕草ひとつとっても目が離せない姿は、かつて芸能界で活躍していた凡人とは違うオーラも加味されているのだろう。
「ついでに疑った反省をしてくれると助かるんですけどね」
見惚れていたとは口が裂けても言えない状況で、なぜかリンドウのまつ毛が至近距離で見え隠れする。
「謝っても謝らなくても許してあげないので、思う存分抱かれてください」
ニコリと笑ったのは、本当にリンドウだったのか。
そこから先の記憶は曖昧で定かではない。熱に浮かされた幻覚だったのかもしれない。それでも何度も体を突き抜けるように刻まれた感覚は、忘れることの出来ない鈍い痛みを数日間持つことになるに違いない。
「忘れないでください。あなたを一番愛しているのは、この僕だということを」
これは愛を疑った罰なのか、それはどうかわからない。
嫉妬に狂った者同士、歪んだ夢の先で熱に侵されるならそれもまた一興なのだろう。
完