番外編
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『仕組まれた罠』
水中で放たれる光は、静寂な夜を優雅に演出してくれる。高級ホテルの最上階。夜の十時ともなれば空に星が煌いているはずだが、地上に蔓延る夜景の方が明らかに眩しい。誰もが思い思いの夜を過ごす何の変哲もない一日。「はぁ」と吐いた息は白く空に吸い込まれ、水着の上から羽織った服を少しきつく抱きしめた。
「帰ろうかな?」
さすがに寒さが身に染みる。いくら温水プールとはいえ、高層ビルの空気はやはり冷える。普段目にすることのない贅沢なものを目にして癒されたことは事実だが、これ以上ここにいると風邪をひいてしまうだろう。それでもあと少しだけ。そういう気持ちで見つめる最高の景色は、出来れば誰か隣にいてほしいとも思う。高級ホテルのナイトプール。真っ黒な世界に溶けた紫や青の光は水面に反射して、幻想的な空間を作り出していた。
「よぉ、こんなところで奇遇だな」
言葉を失ったのも無理はない。
水面に足を浸して都会の喧騒を忘れていたところだったというのに、水面から上半身をさらけだした男のせいで変な心境が渦巻いていく。
「・・・ソテツさん」
どうしてこんな場所にいるのか。問いただしたところで目の前の男は答えてくれないだろう。水面につかった足を押さえつけるように、水中から前を陣取ってくるオレンジ色の瞳には敵わない。
「ひとりか?」
「それ、わかってて聞いてますよね?」
ハッキリ言って人は少ない。
夏の季節も終わり、繁忙期をすぎたホテルのナイトプールなどに入る人は稀有な趣味をもった人しかこないだろう。それでも、幻想的な都会のオアシスに憧れて温水を楽しみに来る人は少なからず存在する。ただ残念なことに、カップルばかりのこの場所に一人で訪れるにはあまりにも無謀すぎると思っていたところだった。
「さあな。実際のところは本人に聞いてみるまでわからないだろ?」
その確信めいた悪戯な笑みに、唇がふてくされる。
他の誰でもない「好きな男でも誘って行ってみろよ」と指定日限定の無料招待券を渡してきたのはソテツ。捨てることも、無駄にすることも出来ずに、律儀に足を運んでみた結果がこれだ。
「で、好きな男は誘ったのか?」
「そんな人、いません」
身動きできずに水に浸かったままの足がソテツの身体を軽く蹴る。鍛えられた腹筋は水の中でも抵抗をはじき返すらしい。まったくダメージを与えることの出来ないソテツに、人知れず溜息という吐息がこぼれた。
「いないってことはないだろ?」
どこまで人の気持ちを煽ってくるのが得意なのか。心底不思議そうな顔で見つめられると言葉に詰まる。
「近いですよ」
耐え切れずに視線をそらした顔は、ゆらゆらと絶え間なく漂う水の音とどこの誰かもわからない海外の音楽に意識を傾けようと必死になる。普段からソテツたちスターレスの衣装は露出が激しい。肌の色も裸も見慣れているといえば、見慣れているはずだった。それなのに場所が違えば緊張感を連れてくる。
「いまさらだろ?」
苦笑したソテツの言うとおり、今更かもしれない。
「ソ、ソテツさんこそ一人なんですか?」
このまま言い負かされるわけにはいかないと、反撃した顔が赤く染まる。わかっている。何もかも、こちらの心情をわかったうえでソテツが目の前にいることを。
「一人だったけど、今は一人じゃないな」
「っ、そういうことを聞いてるんじゃなくて」
「せっかく来たのに、入らないのか?」
「もう帰ります」
「そうか、じゃあな」
「え?」
それまで密着するほど近くにあった気配があっさりと離れていく。思わず腕を伸ばして掴もうとしたソテツの肩は、あと一歩のところで掴めなかったどころか、バランスを崩した身体ごと盛大に水面に落ちてしまった。
「大丈夫か?」
ゲホゴホと頭から水をかぶった体がソテツに救出される。
水の中でまさかソテツにしがみついたまま咳き込むとは思ってもみなかっただけに、不安定に揺らいだ心境が、怒りの矛先を求めてソテツの肩を叩いていた。
「ソテツさんのせいですよ」
「俺のせいか?」
「普通、あそこでじゃあなってならないでしょう?」
そう叫んでから顔をあげて、しまったと思ってももう遅い。いま「どうして?」と問いかけるような質問を口にされたら、明らかに墓穴を掘ってしまいそうな言葉しか浮かんでこない。
ゆらゆらと揺れる水面に視線を落として、それでもソテツの腕の中でじっと固まっていた。
吐き出してしまった言葉はなかったことには出来ない。ドキドキとうるさい鼓動がソテツに聞こえてしまう前に、本当に退散しようと移動した身体がなぜか突然、背後から抱きしめられる。
「なあ」
どこから声を出すのか、耳にかかる低音に息が止まる。
「ッん!?」
抵抗は無意味。首筋を這い上がって頬を触れた大きな手は、ソテツに背を預けるように唇を捧げてしまう。下着に近い姿で水中に体を落としたまま、重ね合う唇だけが妙に熱くて変な感情が浮かんでくる。
どう反応を返せばいいかわからない。
簡単に足がつくはずなのに、力が抜けてうまく立っていられなくなる。ソテツに身を預けたままの身体が、ふわふわと心地いい。
「今度からは俺を誘えよ」
「何の話ですか?」
「まあ、そういうところが可愛いんだけどな」
「だから何の話ですか?」
「お前を好きだって話だよ」
「なっ!?」
今夜はきっとどこかおかしい。ソテツが仕組んだ非日常の罠に落ちてしまったせいに違いない。鼓動が跳ねて、苦しくなった息がソテツのキスでしかうまく吐き出せないなんて。ナイトプールが演出する幻想的な空間のせいにしなければ、芽生えた感情の波に、あっという間に溺れてしまいそうだった。
完