番外編
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『雨と彼の練習着』
フード付きの青いトレーナーは想像以上に大きくて、体格の違いを改めて感じさせる。太ももの途中までしかない短い丈でも何も着ないよりはマシ。そう意識を違う方向に持って行かないと、すぐに匂いごと、一色に染められてしまう気がした。
「ねーちゃん、ちゃんとあったまった?」
何の前振りもなく、突然脱衣所に顔を覗き込ませてきた人物に驚きは隠せない。
「なんや、もう服着てもーてるやん」
残念そうな口調でも変に警戒心を持たせないのは、藍という人物が持つキャラ得というものなのだろう。許可もなく無遠慮に侵入してきた藍は打って変わって鏡に映るもう一人の藍を真顔に見つめる。
「なんかええな」
「え?」
ポソリと呟いた声につられて鏡に映る藍と目が合う。
童顔と愛嬌に誤魔化されがちだが、こうして並んでみると背丈も体格も全然違う。だからだろう、藍が普段来ている練習着がワンピースのようにすっぽりと身体を覆うのは。
「優越感ってこういうのなんかも知れんな」
「優越感?」
「そう。ねーちゃんがオレの彼女って感じ」
屈託のない笑顔で抱き着いてくるのはなぜなのか。いつも雰囲気に巻き込まれがちだが、今回も例にもれず藍の腕の中で呼吸が止まる。
「ああ、ごめんごめん。せっかく温まったのに」
笑いながら藍が離れていく。
それもそのはず、濡れた髪に濡れた服。おまけに無造作に脱ぎ始めた上半身に、やりどころのなくなった目が泳ぐ。
「せやけど、雨に降られるなんてなー」
少し離れた場所から聞こえる藍の声に数分前の出来事を思い出した。
いつものようにスターレスに向かう途中、起きた時から雲行きが怪しいなと思っていた空は案の定ぽつぽつと降り始め、気づけばスコールのように土砂降りになっていた。それでもスターレスに行く足は止められない。持っていた傘を差して歩いていた時、ずぶ濡れの藍を見つけた。
「あ、ねーちゃん。なにしてんの?」
「それはこっちの台詞ですよ。どうしたんですか?」
「ん、あー。ちょっと野暮用でな」
路地裏から出て来た泥だらけの姿。何をどうしたらこんな風になるのか、戸惑いを隠さないまま藍を傘の中に招き入れる。
「ありがとう、助かったわ」
「傘、持ってなかったんですか?」
「なくなった」
どうしてなくなったのか、空から滝のように降る雨のせいで何も聞こえない。傘を打ち付ける雨音は数秒ごとに激しさを増し、小さな傘に男女一組が入っても意味がないようにすら感じられた。
「あ、やば」
「え、なに?」
グイっと引き寄せられたせいで身体が傾く。そのまま手を引いて走り出した藍のせいで、傘は意味をなさずに頬が濡れる。どうして走っているのか、とか。何を見たのか、とか。尋ねている暇はなかった。空からは依然、猛攻撃の雨が降り注ぎ、視界は細い白線で埋め尽くされている。
水しぶきをあげる車の音、地面を打ち付ける雨だれの曲だけが二人を包むすべてだった。
「ごめんな、ねーちゃん。こんなところまで走らせてしもて」
ずぶ濡れの状態でたどりついたスターレスの入り口で、ようやく藍の声がまともに聞こえる。
「い、いえ」
水をふくんだ服が重い。
店に入る前に絞った方がいいだろうが、その前にこの状態で店に入っていいのかすら悩ましかった。
「何してんの、早く入るで」
結局、同じくずぶ濡れの藍と一緒に店の中に入ってしまった。
外とは打って変わってシンと静まり返ったバックステージ。まるで打ちっぱなしのコンクリートが音を吸収してしまったみたいに、耳鳴りが響く。
「あ、あの・・・怒られませんか?」
歩くたびに水たまりが出来ていく。ヘンゼルとグレーテルが森の中に残すパンと同じ、二人分の足跡ならぬ水跡が点々と続いていく。
「ロッカー室、濡れちゃう」
「へーき、へーき。それよりずぶ濡れのねーちゃんを放置する方が怒られるわ」
「放置って、きゃ」
手を引かれるがままやってきたロッカー室で、藍は自分のロッカーから取り出したばかりのタオルを頭に乗せてくる。そのままわしゃわしゃと少し乱暴とも言えなくもない仕草で、雫を拭きとってくれた。
「このままじゃラチあかんな。脱いでくれへん?」
「はい?」
「シャワー室、今なら空いてるやろうから使って」
「いや、でも。そんな、大丈夫です」
「ねーちゃんは大丈夫かもしれんけど、オレが大丈夫じゃないんやなー」
「そんな、わ、きゃ。じっ、自分で脱げます」
「ほんまにー?」
その笑顔の意味を考えても仕方がない。空気の読み合いという無謀な挑戦をするよりも、敗北を認めて入ってしまったほうが身のためだと感じるのはなぜなのか。
「んじゃ、ごゆっくりー。見張りはまかせて」
危険信号を察知した本能のまま、シャワー室を借りることにして正解だったのだろう。
無事に湯気を全身にまとい、用意されていた服を着て今に至る。
自分の服がどこに行ったのか、あえて考えないようにしたのは、目の前の藍に聞いたところで想像と大差ない答えが返ってくる予想しかたたなかったことが大きい。
「あんたを守りたくなるの、なんかわかるわ」
恥ずかしげもなく脱衣していく藍のせいで身動きがとれない。
「放っておけないっていうか、目が離せないっていうか。まあ、こればっかりはどうしようもないからな」
思わず自分の両手で顔を覆っている意味をこの少年は理解しているのだろうか。
「けど、今はオレが一歩リード」
「リード?」
「そ、こんな格好。オレ以外に見せたことないやろ?」
顔を覆ったままでは答えようがない。上半身裸の男に、この状態で何を答えろというのか。
「もしかしてあるんか!?」
「なっないですよ」
「びっくりするなーもう」
「びっくりしたのはこっちです」
そう言って顔を見合わせて同時に吹き出す。何が面白いのかわからないが、タイミングがハマれば自然と沸き立つ感情は否定できない。
「んじゃ、オレもシャワー浴びてくるわ」
そうして下半身も容赦なく脱ぎ始めた藍に、今度こそ身体は明後日の方を向いた。
「覗かんといてなぁ」
「覗きません」
また笑い合う。
背後で聞こえ始めた雨とは違う温もりの音に耳を傾けながら、そっと服の裾を伸ばしてみる。
自分とは違う別の香り。
服が乾くまであとどれくらいかかるのかはわからない。それでも今日はきっとこの服を着て過ごすのだろう。フロアには行けないけれど、スターレスというもうひとつの場所で。
(完)