番外編
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『吐息が触れた余韻』
開店にはまだ早い、事務所で楽しい午後のひと時。
そう思って差し入れたドーナツは、もう一時間も手付かずのままサイドテーブルの上に放置されていた。
「うわぁぁあん、これ絶対間に合いません」
日々自宅化していっていると言っても過言ではない事務室で、くたびれたシャツの運営が泣きごとを吐き出している。
どうやらまた羽瀬山に無理難題を押し付けられたようで、先ほどから言葉にならない必死さが部屋中に満ち溢れていた。
「なにか、お手伝いしますか?」
「ダメです、絶対だめです。あなたに手伝ってもらったら何を言われるか」
考えるだけでも恐ろしいと、身を震わせた運営はパソコンと向き合ったまま鬼の形相でマウスとキーボードを打ち鳴らしている。そう言われてしまえば身もふたもない。まずいときに押しかけてしまったと、困った息を吐きだした時だった。
「大丈夫っスよ~。俺がいるんで、ちゃちゃっと終わらせるッス」
扉から入ってきた人物に後光が差して見えるのはきっと運営だけではないだろう。
「ありがとうございます、カスミ様ぁあ」
「モブに様づけはいらないッスよ」
はははと笑いながら、まるで定位置のように運営の隣に腰かけたカスミに部屋の空気は軽くなる。先ほどまで必死に現状と闘っていた運営の顔も、どこか安堵したように緩んでいるのがその証拠。
「はい、終わったッス。これ持って早く行ってください」
ニコリと笑ったカスミに盛大なお礼を口にしながら、運営は出来上がったばかりの書類を持って飛び出していく。バタバタと慌ただしく遠のいていく足音。嵐の去ったあとのように、室内には静寂が訪れていた。
「カスミさんが来てくれて助かりました」
まだ後処理をしているのか、机に散らばった書類を片していたカスミに近づいて声をかける。
「え?」と椅子に座ったままのカスミが顔をあげて、無意識の距離の近さにお互いの息がわずかに触れた。
「うわわわわ、すみません、すみません。突然顔をあげたりなんかして」
「い、いえ。私も不用心に近づきすぎました」
慌てて離れて、誤魔化すように髪を耳にかける。それなのに、空気を読まない髪はまたパサリと耳からおちて狼狽えていることを如実に伝える。
「あ、あの。お仕事ひと段落したなら、ドーナツ食べませんか?」
もう一時間以上放置されていたドーナツの箱を持って、提案してみた。
「でもそれ、運営くんのじゃ?」
「大丈夫です、たくさん買ってきたので」
「そしたら、お茶入れるっス」
てっきり断られるかもしれないと思っていた分、案外素直に席をたったカスミに驚く。久しぶりの二人の空間。差し入れに選んだのがドーナツでよかったと、人知れず笑みがこぼれおちた。
「私も手伝います」
「いいッスよ、座って待っていてください」
「ううん。手伝いたいの」
これは仕事じゃないでしょう?と、強く押せばカスミが断らないことを知っている。それでも結局、手際の良さに介入する隙はどこにもなく、ただカスミの隣に並んでお茶がカップに入っていくのを眺めるだけになっていた。
「カスミさんって、なんでも出来るんですね?」
「いやいや、買い被りすぎッス」
沸騰したばかりのお湯を茶葉に注いでいくカスミの手を見守りながら、思い浮かんだままの言葉を口にしてみた。隣でカスミがどんな顔をしていたのかはわからないが、こぽこぽと湯気が舞って、蒸気がお茶の香りを運んでくる。
「悪かったッス」
「え?」
イイ匂いだと空気を堪能していたせいで、カスミの声がうまく聞き取れない。
「悪かったッス。運営くんとの時間邪魔してしまって」
「え、どうしてそうなるんですか?」
「違うんすか?」
湯気からカスミに映した顔は、お互い驚きを表現していたと思う。
どうしてカスミがその考えに至ったのか。答えはカスミしか知らないだろうが、勘違いは早めに訂正しておかなければならない。
「違いますよ。私は、その。カスミさんいるかなって思って」
ドーナツを選んだのもそのためだと小さく付け加えてみる。蚊の鳴くほど小さな声がカスミにまで聞こえたかどうかはわからない。恥ずかしさを押し殺して、隣のカスミを心配の視線で覗き込んだ。
「きゃ」
突然塞がれた視界に驚いていると「あ、や。今、こっち見ちゃダメっス」となぜか片言のカスミの声が追いかけてくる。
「自惚れてる顔見られるの恥ずかしいんで、あっち向いててください」
予想以上の熱に揺れた声に、こっちまで体の熱があがってしまう。
室内の温度調整が狂ったように汗まで出てきそうな緊張感が、熱くて暑くてたまらない。
「あ、私。お皿持ってきますね」
その場の空気に耐えられなくて逃げだそうとする身体。それなのに気づけば背後に壁が迫り、真正面にカスミの姿を拝んでいる。
一体、どうしてこうなったのか。
探しても、早業の正体に答えなんて見つからない。
「カスミさ・・・」
指先で抑えられた唇に、行き場を失くした声がゴクリと音をたてて喉の奥を流れていった。
「俺だって男なんスよ?」
前髪に覆われたカスミの瞳は見えない。何を考えているのか、何を思っているのか、伝わる感情が空気に散りばめられた熱だけの情報量では混乱を招くだけ。
だからだろう。
あまりに無防備にカスミを見つめ続けていた。
カスミもきっと見つめていたと思う。
至近距離で感じる熱に浮かされたように言葉はお互い発さない。何分、いや。たった数秒が経過したころにカスミの影が苦笑しながら敗北を認めた。
「あまり可愛いことされると抑えられなくなるッス」
「ッ!?」
指で押さえつけられたままの唇は、カスミの唇の柔らかさを知らない。
それでも無意識に閉じてしまった視界の向こうで、柔らかなカスミの髪が触れる余韻を噛み締めていた。
(完)