番外編
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『琥珀色の雨に濡れて』
とても静かな夜だった。
音は息遣いさえ吸収して、ただ静かに記憶の一ページを塗り固めていく。わずかに揺れる照明の熱。あてられた琥珀色の瞳に映る乙女の戸惑いなどきっと彼は知りもしないだろう。
いや、知っていて知らないふりをしているのだ。
その証拠に、どこか野獣の気配を感じさせるソテツの唇は、噛みつくように降り落ちて来た。
* * * * * *
土砂降りの雨。
突然視界を覆い始めた神の悪戯は、落ちた日の中に二人の男女を映し出す。
「はぁ・・・っはぁ・・・」
傘もささずに走る街は通り過ぎていく景色をネオンの道に変え、時折驚いたように道をあける通行人の声を残して消えていく。
もう、どれくらい走っているのか。
手首をつかんで走り出したソテツに引きずられないよう、足を動かして、息を切らせて、忘れるほど多くの路地を曲がった。
「ッ、きゃ」
不意に強く抱き寄せられてバランスを崩す。
ここがどこだとか、どうして走っているのか、理由を問いかける暇もなく、路地の黒い壁に押さえつけられるように抱きしめてきたソテツの鼓動に息が止まる。その瞬間、複数の不穏な影がバシャバシャと束の間の雨で出来た水たまりを散らしながら駆け抜けていった。
「どこ行きやがった」
「くそっ、見失った」
相手は獲物を狙う狩人のように血眼になって周囲を探っている。見つかれば終わり。それは、彼らの服の内側に所持の許されない黒い物体を見たときからわかっていた。
「いったか?」
どれくらいそのままでいたのか、すっかりソテツと一体化するほどには、じっと息をひそめていた。ゆっくりと離れていく鼓動。思わず見上げたその顔は、警戒心を剥き出しにした野獣のようだった。
「こんな時に笑うなんて度胸あるな」
視線を外に向けながら、手だけで頭を撫でられる。それがなんだか嬉しくて、また少し笑う。
「お前といると本当、毎日刺激がある」
「すみません」
「いや、連中に手を出される前に俺が見つけてよかった」
安全を確認したのだろう。警戒を解いたソテツと目が合う。それから当然のように距離はまたいつも通り分だけ幅をあけた。
「きゃっ」
「ん?」
土砂降りの雨の中、我武者羅に走っていたせいで気が付かなかった。
「すみません」
足が震えてうまく立てない。雨の音は静かに空から降り注いでいるが、ずぶ濡れになった全身を支える余裕はどこにもない。無意識に崩れ落ちてしまいそうになるヒザをなんとか奮い立たせながら、どうしようかと泣きたくなる。
「仕方ねぇな」
聞こえるほうが早いか、腰ごと引き寄せられた足が再びソテツに続いていく。今度はどこに行こうというのか、暴風雨と呼ぶにふさわしい嵐のような街に人は少ない。誰もが突然の悪天に顔をしかめて、手あたり次第の店に逃げ込んでいくようだった。
ただ、洗濯機から出て来たばかりのような全身ずぶ濡れの二人組を快く迎え入れてくれる場所はそう多くはない。
「かっ帰ります」
濡れた髪が視界にまとわりついている間に、魔法をかけられてしまったらしい。
「ここまで来てそれはないだろ」
目の前にはキングサイズの巨大なベッド。両手を広げても余るほど大きなテレビと、明らかに二人分のバスタオル。危険の度合いで言えば、拳銃を持つ複数の見知らぬ男たちに襲われるのと大差ないように感じてしまう。ソテツとラブホテルで二人きり。この状況で何もありませんでしたとは、頭に浮かぶ男は、天地がひっくり返ったとしても信じてくれないだろう。
「いいからこっち来いよ」
「えっ、うわぁ」
腕を引かれるがままソファに座る。わけがわからずに混乱した脳みそが荒れ暮れていたが、貞操の心配をよそになぜかソテツは立ち上がり、すぐにバスタオルをもって戻ってきた。
「なっなに!?」
視界を覆う茶色の布のせいでソテツの姿が全く見えない。
「服脱いで、風呂入れ」
「え?」
一瞬、何を言われたのか理解は難しかった。明らかに狼狽えた気配が伝わったのだろう。
「一緒に入ってほしいってんなら、俺はかまわねぇぜ?」
突然持ち上げられたバスタオルの隙間から、にやりと覗くソテツの笑みに心臓がえぐられる。ドキドキと主張し始めた心臓のせいで言葉がうまく出てこない。
「わっわわ私は大丈夫です」
「大丈夫とかって問題か。ほっといたら風邪ひくぞ」
「だっだいじょ…ッ…く…しゅん」
説得力の欠片もない。口で言って勝てる男ではないことも知っている。だからと言って、ここで素直に服を脱げる精神は持ち合わせていない。一体何が正解か、わからないままタオルの端を握りしめているとまた急に体が浮く。
「まあ、どうせ濡れてんだからこのまま入っちまっても一緒だな」
「え、ちょっ、やめっ…て、キャァア」
「うぉっ!?」
痛くは、ない。
ソテツをベッドに押し倒す形になってしまったが、不可抗力だと全身で叫びたい。
いきなり引っ張るソテツが悪いのだと、現状をソテツのせいにしなければ思考回路が燃えてしまうほど、時間が止まってしまったようにソテツの上から動けない。
頭からバスタオルをかぶったままなのがせめてもの救い。
おかげで顔を見られずに済んだと、濡れたソテツの上に顔をうずめた。
「怖い思いさせちまったな」
「え?」
「もっと早くそばにいてやればよかった」
「そっそんな」
ポンッと頭の上にのったソテツの手に、鳴りやんだはずの鼓動が舞い始めていく。ドキドキと一定のリズムを刻み始めた秒針に載せられるように、ソテツの不安を払しょくしようと顔をあげる。
「ソテツさんが助けに来てくれたから、私は無事ですよ」
少しでも笑顔で大丈夫だと伝えたい。
確かに怖かったが、それはもう過去の話。こうして五体満足で見知った人のもとにいられるのは、よかったと言っていいのだろうと肯定を口にする。
「無理するな。怖いものは怖いに決まってる。こういうときは、笑うんじゃなくて泣くものだろ。男としては、惚れた女が他の奴に泣かされるのはいい気がしないってもんだがな」
「え?」
「ん?」
「いっいま、惚れた女って」
「ああ、言ってなかったか?」
バスタオル越しに頭を撫でていたはずのソテツの手が後頭部を掴むせいで、視線がどこにもそらせない。琥珀色の真っ直ぐな目が、不敵に笑って心情を煽ってくる。
「お前に惚れてるって」
「いっいい言ってないです」
「今、聞いたろ」
「なっ、なんですかそれ!?」
どこまで人を翻弄すれば気がすむのだろう。
「なぁ?」
さっきまで下に敷いていたはずのソテツが、今は上から見下ろすように見つめてくる。「なぁ」と問いかけられて、「なに」と強気で返す空気まで乾いてしまったように声がうまく出てくれない。
「冗談抜きで、俺が嫌なら、こっから先は真剣に逃げろ」
ソテツの低い声が耳に響いて離れない。
「連中と違って俺はお前を見失ったりしない」
ゴクリと喉が鳴ったのは気のせいではないだろう。
そらしたくてもそらせない視線が、心の奥まで覗き込んでくるみたいで息が苦しくなってくる。
「・・・・ぁ」
キスされる錯覚。閉じた瞳に自分の中の答えを知る。
唇を通り過ぎて耳元まで落ちて来たソテツの声が、勝ちを確信したように弾んで聞こえる。
「だが、良いってんなら。安心して俺に抱かれろ」
* * * * * *
ひどい男だと思った。
いつもどこか飄々と本心も本音も見せないような態度をとるくせに、自分が世界で一番大事な存在じゃないかと錯覚してしまうほどに甘い余韻を与えてくる。
「ん・・ッ・・」
名前を呼ばないでほしい。
手で触れないでほしい。
琥珀色に揺らめく無音の雨。
全身に刻み込むように落とされた吐息は甘く、しがみつくように苦しい情事は痺れを伴って襲ってくる。
何度海に沈んだだろう。
それでも簡単に引き上げられる。
永遠に止まない琥珀色の雨に濡れて。
(完)