痺れるような感動をフレスタの花に変えて
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《第5話:よくできた「大人」》
自分の鼓動が平常を取り戻すために何分かかったのだろう。
鼻から抜ける吐息を数えろというのなら、意味のない溜息が一緒に零れ落ちていく。それほどまでに、整理できない感情で溢れていた。
「晶、さん」
左頬に手を添えたまま晶の面影が残る廊下に向かって呟いてみる。
誰も、いない。
うっすら残った煙草の移り香だけが、夢じゃないことを告げているだけ。
「どうして?」
触れてきた唇に何の意味があるのか。
足は地面に縫い付けられたように動いてはくれない。
自分の身に何が起こったのかわからずに、だからと言って何もわからないほど子どもではないはずなのに、どうしてそうしようと思ったのかの理由は、何度考えてもわかりそうになかった。
ただ、ここで何分も呆然と立ち尽くしているわけにはいかない。
着替えに行った吉野も練習に戻った晶もいる。ここはスターレス。メンバーは彼ら二人だけではない。
「早希、どうかしたの?」
「ふやぁっ!?」
突然真後ろからかけられた声に、変な声をあげて早希は振り返った。
「たっ鷹見さん」
記憶が正しければ、晶は確かに練習に戻ると言っていた。同じチームとして練習しているはずの鷹見が、なぜここにいるのか。
「ああ、タバコ」
微妙な疑問を宿した瞳を察してくれたらしい鷹見の返答に、頬に添えたままだった左手がピクリと動く。
まるでスローモーションのように目の前に伸びてくる腕。メガネ越しに濃紺の瞳が光を放って、気付けば早希の左手首は鷹見に掴まれている。
「晶、見なかった?」
「晶さん?」
「そう。ここで休憩してたはずなんだけど」
ほぼ確信めいた口調になんと答えればいいのか。目をそらすことも、その場から逃げ出すこともできずに、早希は小さく息をのんだまま固まっていた。
影はついに縫い付けられてしまったらしい。突き刺さる鷹見の視線に覗き込まれた部分から、語らない真実が告げられていくようで、ゾクゾクと変な気持ちが駆け巡る。
「キスされたの頬だけ?」
静かな問いかけなのに、思わず乾いた唇を舐めてしまった。
肯定も否定もしない一瞬の挙動。
「わかりやすいね、早希は」
瞳が泳いだことは隠しきれなかった。
なぜ、どうして。
わかりやすい混乱だけが脳内を支配していく。そらすことのできない瞳に鋭利さが増したと思った瞬間、掴まれたままの手首ごと引き寄せられて、早希は鷹見の腕の中に閉じ込められていた。
「そういうところが、俺たちを惹き付ける要素のひとつでもあるんだけど、無自覚なところがタチが悪いよね」
「それってどういう―――」
「ん、わからない?」
「―――鷹見さ、ん?」
うまく言葉にできていたかどうかはわからない。掠れた声ごと抱き締められた胸に吸収されてしまったみたいに、耳には鼓動の音しか響いてこない。
熱い。
伝わる熱気が胸を締め付ける。
抱きしめ返せないまま戸惑った腕と感情は、行方不明になってしまったように宙をさ迷ったまま。
「このままさらってしまってもいいかな?」
ドキドキと心臓は答えを吐き出してくれない。
数秒が数分に、数分が数時間に思えるほどには緊張していた。
「早希はもう誰かを望んでる?」
何と答えるのが正解なのだろう。
考えても出ない答えを探して、鷹見の腕の中で時間は経過していく。
「あっあの」
勇気を出して絞り出した声は震えていた。
熱のこもる体温の壁に吸収されてほとんどが聞こえなかったが、鷹見にはちゃん届いたらしい。
「ごめん。意地悪がすぎたね」
鷹見の温もりが少し距離をとる。無意識にホッと息を吐き出した早希をみて、それまで鋭利だった鷹見の視線が少しだけ和らいでみえた。
「困らせるつもりはないんだ」
優しい口調が、まだ軽く抱き締められたままの頭上から降り注いでくる。早希はその言葉の出所を追うように、思わず視線を上げてしまったことを後悔した。
近い。
鼻先が触れてしまいそうなほど近い位置で、鷹見の顔がふわりと微笑む。
「だけど、俺は早希が好きだよ」
直球の告白に、今度こそ早希は言葉を失った。
「もちろん、恋愛の意味でね」
考え始めた言い訳さえなかったことにされた以上、もう何も言い返せない。
イエスともノーとも即答できない早希の心境を知ってか知らずか、鷹見はまた優しく笑って見つめてくる。
眼鏡の向こうで揺れる濃紺の瞳は熱がこもっているのか、キラキラと輝いていて、あまりに綺麗すぎる。その瞳の輝きを奪いたくなくて見つめあったまま、無言の時間は確実に過ぎ去っていった。
「さあ、俺もそろそろ戻らないと」
時間は突然に終わりを告げる。
それも、割とあっさりと。
「またね、早希」
温もりが離れて、ゆるやかに横切っていく気配を追いかけることは出来なかった。
「な、に?」
どれほどそうしていたのか。
鷹見の気配さえもすっかりなくなった廊下で一人。現実に巻き戻ってきた感覚が、急速に動悸を連れて襲ってくる。
「ぁっ」
夢。立ったままみた白昼夢。
そうであることが疑えてならないほど、あまりに現実離れしたことが立て続けに起こりすぎた。
これで平常心でいられる方がどうかしている。
「私、どうしたらいいの?」
予測不能な事態に、脳内は混乱と戸惑いの渦に支配されたまま動けない。
どんな顔をしていればいいのか。
どんな顔をして会えばいいのか。
自分でも収拾がつかないほど真っ赤に染まった顔を誤魔化すには、咳払いなんかじゃ足りない。ひどく熱くて、苦しくて、胸が張り裂けそうなほど痛かった。
どうしたらいいのか。
ひとりぼっちの廊下でその質問に答えてくれる声はいない。
開店まであと少し、導きの光さえ見えない夜の宴が近づいていた。
───To be continued…