Date:8月12日PM
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「当たり前でしょ」と答えた声が佳良に届いたかどうかはわからない。紗綾が佳良を見つめても佳良は夜空の花に夢中だった。
「私、紗綾みたいになりたかった」
「佳良は、社長令嬢で友達も多くて、愛嬌があって可愛くて、胸も大きくて私にないものいっぱい持っているじゃない」
佳良は何も答えない。ただ夜空に散る花の明滅を受けるその横顔がとても寂しそうに見えたことを覚えている。ずっと隣にいたのに、ずっと傍にいたのに、本当は知っているようで何も知らなかったのかもしれない。佳良があの夜、何を思っていて、何を感じていて、何を考えていたか、今ではもう何もわからない。もっと話しを聞けばよかったなんて、ありきたりな言葉さえ浮かんでくる。
「…っ…紗綾…」
濃紺の夜空に星は見えない。
「紗綾…ん」
夏空に似合う花火の音も聞こえない。
「紗綾ちゃん」
「っ、だりる?」
深海から浮上するような感覚で息を吸い込んだ紗綾は、瞳をあけたその先で自分を真上から覗き込む人物の名前を認識した。ゲホゴホとむせた肺がざらざらと粉っぽさを訴えてくるが、その正体を知らせるように、焦げ付いた灰色の煙が赤いサイレンの光を吸収して歪な形の雲をそこら中に広げていた。
「私、いったい…っ…ここ、どこ?」
ダリルの腕の中でどれほど意識を失っていたのかはわからない。ただ、時刻は黄昏を過ぎ西の空に赤い太陽が沈んでいる。都会を一望できる高台。人間だけでは簡単にたどり着けないその場所は、はたはたと強い風が吹き荒れて紗綾の長い髪をさらっていく。
「十和っ、ねぇダリル、十和と瀧世、岩寿は!?」
「大丈夫、みんな無事だよ」
「よかった」
ダリルの胸倉をつかむ勢いで起き上がった紗綾は、慈愛ともとれる不思議な眼差しで教えてくれたダリルの腕の中で脱力する。
空に充満する煙の量と鼻をつく匂い。太陽と炎とサイレンの赤が溶けて混ざり合った世界が紗綾の記憶を連れ戻していた。シュガープラム生産工場の爆発事件。たぶん今頃眼下では、歴史的事件として取り上げられていることだろう。
「で、私は?」
「ん?」
「私は死んじゃったの?」
あまりに肉体の実感がありすぎる。それでも現実的に考えて、あの惨事の渦中にいたことを思えば当然の疑惑だった。吹きすさぶ風にはためく死神の腕の中、眼下を見下ろせる高い塔の上。
「キミは自分が死んでいると思うの?」
「だってダリルは死神でしょ」
「まあ、そうだけど。ボクがキミを連れて脱出したんだよ」
苦笑したダリルの顔に、紗綾の考えは否定される。
「死神も命を助けるんだね」
思わず口をついて出た言葉に「キミの魂、もらっちゃってもよかった?」とダリルが悪戯に口元を歪め、少し柔らかくなった茜空の空気が紗綾の周囲を取り囲む。クスリと肩の力が抜ける程度には心が軽くなっていた。
「きれい、だね」
紗綾はダリルの腕の中で、高い塔の頂上付近から望める景色に切ない瞳を宿す。赤が地平線に溶けてなくなり、青が黒と混ざるようにやってくる。遮るものがない広い空の風景は今まで見たどの景色よりも壮大で美しかった。
そんな中、点り始めた地上の明かり。今夜も都会は摩天楼のように色とりどりの赤や青、紫や黄色をちりばめて、変わらない風景を作り出している。ひとつの事件がまだ、灰色の雲を夜空に広げているが、他は大して変わらないように見えた。日常は知らない場所で日常のまま、何もない夜を過ごしているのかもしれない。
「ねぇ、ダリル」
「ん?」
「あの会社にいた白い化け物のような人たち。誰も襲っていないのにどうしてあんな姿だったのかしら」
今までと状況の違う現象に感じていた戸惑いを紗綾は口にする。たしかに敵陣だとあたりをつけて乗り込んだ以上、普通を予想してはいなかったが、あまりに異常過ぎたあの光景は思い出すだけで鳥肌が立つ。
「末期症状」
ざわりと吹いた風に背筋が凍る。
「シュガープラムは魔種の成分を操作して組み替えているが、元は魔種ではない。人工的に作り出した麻薬。耐性のある人間もいれば、誘惑におかされない意思の強い人間もいる。人間たちは常に欲望に溺れ、欲望と戦い、欲望に打ち勝とうと奮闘する。実に面白い生物だ。いやはや、研究の対象としてこれ以上の逸材はないと改めて感じさせてくれた。ただ、まあ。人間が嗜むには少々刺激が強すぎたことは認めよう」
説明書のように丁寧でいて、どこかからかっているような不気味さを感じる声。その声の持ち主はどこにいるのだろうかと、紗綾が首を動かす中、ダリルの神経だけがある一点をとらえていた。
「魔種はあの研究室にはなかった。あの状況なら誰だって、ヴァージンローズからシュガープラムが作られたと思うだろう。現にボクも一瞬そう思ったよ。だけどヴァージンローズは少女が種を産む前の合図の花であって、あの花自体に繁殖の意思も欲も何もない。つまり魔種からじゃないとシュガープラムは作れない。だけどあの研究室になかった。理由はひとつだ。魔種は、キミがもっているんだろう?」
「ふふふ、やはりバレていたか」
「ジルコニック」
風の音に紛れて顔を向けた先で、一人の男が足をぶらぶらと揺らしながら腰かけている。外にはねた黒い髪、銀縁の眼鏡、甘い匂いの染み込んだ白衣を風に揺らせて、その人物は青紫の瞳でにこりと笑う。
「今はただの研究員さ。不瀬那由太(ふせなゆた)というただの、ね」
そういって彼はあやういバランスで立ち上がり、両手を広げて空を仰いだ。
「アリア・ルージュ、お初にお目にかかります」
無意識にダリルの服を握っていたことは黙っていてほしい。怖いと素直に感じる感覚を否定しないでくれるなら、紗綾はずっとダリルにしがみついていたかった。
「ほほぅ、数多もの屍を越えてきた少女でもそういう顔をするのかい。これだから人間は面白い」