Date:7月30日
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* * * * *
ゴポゴポと空気の泡が巨大なガラス管の中を通って循環している。青紫の液体の中に浮ぶのは真っ白の花。浮かんでいるのか、沈んでいるのか、ひとつのガラスケースに一本ずつ埋め込まれている白い花は液体の中でゆらゆらと揺れ、その可憐な姿を青紫に染めている。
「ふんふふーんふん」
調子はずれの鼻歌が聞こえてくるが、壁際にたたずむ黒いスーツの男は気にしないらしい。かちゃかちゃと器具を扱う白衣の男の歌うでたらめなメロディーを耳にしながら、帰宅したばかりの手にもつ新しい花をそっと机の上に置いた。
「おや、浮かない顔をしているね」
鼻歌通り機嫌のいい白衣の男とは違い、無表情な顔をしたままのスーツの男はぺこりと頭をさげて背中を向ける。
「またアリア・ルージュに会えなかったのかい?」
試験管を揺らした白衣の男は、無言のまま室内を出て行った男の姿にぶはっと笑い声を吹きかけた。
「なんだ図星か」
かちゃかちゃと金属製の器具で試験管の中身をかき混ぜながら白衣の男はくすくすと止まらない笑いをあげているが、それを止めるものは存在しない。部屋は暗く、色は青紫に反射したガラス管の光だけ。試験管の中にあるのも青紫色の液体。ただ一つだけ違うのは、巨大なガラス管の中には大きな白い花が浮かんでいるが、試験管の中にはその花の花粉のようなものがふわふわと沈んでいる。
「ん~、ヴァージンローズいい香りがするねぇ」
試験管の入口から漂う甘い匂いに白衣の男は始終上機嫌に笑っている。いったい何が楽しいのか、機械に囲まれた無人の研究室ではそれを問う人物すら存在しない。
「ヴァージンローズ。花言葉を無垢の快楽。いやいや誰がつけたかは知らないけど、よくいったものだ。彼女たちは実に美しく、実に美しい。美しいものは正義、この美しい花が枯れるのは悲しいとは思わないかい。わたしは思うのだよ。醜い世界を白一色に染め上げて、ただ快楽だけに身を投じる愚かな人間どもの末路をみていたい」
両手を広げてクルクルと研究室内を回転しながら移動していた男は、そのとき、急な来客を知らせる警報にちっと盛大な舌打ちをこぼす。
「あぁあ、イヤだイヤだ。醜い音は聞きたくないよ、まったく」
そう言って、手に持っていた試験管を近くの机に立てかけ、研究室の扉をあけた。
外にはねた黒い髪、銀縁の眼鏡、そして青紫の瞳。甘い匂いの染み込んだ白衣を歩幅に合わせて揺らす彼の胸には「研究員:不瀬那由太(ふせなゆた)」という名前がぶら下がっている。
「いったい何の騒ぎだい。これでも忙しいのだがね」
「ああ、不瀬さん。急な来客がありまして、どうもあなたの研究に興味があるとかで」
「社長、困るねぇ。いい加減、これくらい自分で対処してくれないと」
「あ、ああ。すまない」
これくらいがどの程度を表すのかは人により基準は様々だろう。この場合、強面の男が三人。まるまる太った真ん中の一人が首謀者らしいが、首や指には金色の装飾品を垂らし、腕に高級時計、仕立てたスーツも靴もそれなりのものを身に着けているところをみると、それなりに羽振りのいい人物。加えて、不瀬が社長室の窓から細いブラインドの隙間を覗く眼下には、いかにもな黒塗りの高級車が止まっている。
「お前か、お前がシュガープラムの生産者か」
社長ひとりでこの対処は難しかったのもしれない。仕方がないと、不瀬は小さく息を吐いてにこやかな顔で男三人を振り返る。
「いかにも」
場違いな笑顔を明るく返されて、空気が凍り付いたみたいに止まったが、それはすぐに早送りで解凍される。
「お、おぉお、お前か、よかった」
ソファーから飛び降りるように膝をつき、白衣にポケットを突っ込む無粋な男に来訪者は懇願するような声を上げた。すぐに状況を理解しろというほうが無理かもしれないが、不瀬はその視界にうつる光景に前科があるのか「またか」というような目でつまらさなそうに男を見下ろしていた。
「たったすけてくれ、娘がさらわれちまったんだ」
「ほほぅ、娘さん」
「そうだ、あいつら勝手に麻薬に手を出してやがった」
「あいつら?」
「いや、そこはいい。組の連中は俺が自分で始末をつける、娘だ、お前には娘を助けて欲しいんだ」
「ほほぅ」
感情のこもらない呟きを懇願することに必死な男にはどう映るのだろう。都会の一等地で暮らし、高級マンションの最上階を縄張りにして、この世の美味しいものをたらふく食べてきたであろうその人物が、どこにでもいるような、白衣の男にすがりついている。
「娘さんは処女かな?」
「は?」
突拍子もない不瀬の質問に虚をつかれたのか、男は焦燥と驚愕に満ちた眼差しで数回瞬きを繰り返した。何を聞かれたのか理解できない。この状況で出される質問だと思っていなかったのか、男の顔にはたしかにそう書かれている。
はぁっと、落胆したような息がまた不瀬の口からこぼれていた。
「娘さんはセックスをしたことがあるかと聞いているんだよ?」
二度も言わせるなという態度に、娘を助けることが出来る最後の希望を不瀬に見ている男は、慌てて首を横にふった。
「いっいや、ないはずだ。あいつは俺がずっと大事に育ててきた」
「ほほぅ」
「処女だ、男の気配はない、隠れて男を作ったこともないはずだ」
「ほほぅ」
「本当だ、学校の送り迎え、塾にいくときも買い物に行くときも俺がずっとついていた」
「それがなぜ、今回?」
「家の前でだった、あいつら家の前でいつも通り立っていたはずなのに、急に襲ってきたんだ」
「ほほぅ」
それは興味深いと、不瀬の声が男に向かって降り注ぐ。顎に手を添え、何かを思案する青紫の瞳は何を考えているのか、不瀬はくるりと向きを変えてニヤリと笑った。
「彼らは白い化け物だったかい?」
「は?」
「白い化け物に見えたといったほうが正しいか?」
「白いばけ・・いや、普通のいつも通りのあいつらだった」
「ほほぅ、それはそれは」
「それが何か関係あるのか?」
「いや、これは地上で作りだした偽物が、どれほど本物に近づいているのかを確認するただの作業だ」
再び振り返って視線のあった不瀬を男は恐怖の目で見上げる。この男に自分の言っている意味が果たして通じているのだろうか。同じ空間に存在しながら、まるで別の生き物と対峙しているような畏怖の感覚に襲われるように男の声が震えていく。
「たったのむ、シュガープラムを作ったあんただったら、あの症状を消す薬を持ってるだろ?」
震える声がどこまで届くかは願うしかなかった。またわけのわからない質問でかぶせられたら、男は平常心ではいられなかったかもしれない。だが、幸いにも男の願いは不瀬の耳に聞き届けられたようだった。