Date:7月30日
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夏休み。一週間後と言っておきながら仕事が立て込んだらしい岩寿の予定に合わせて紗綾たちがその家を訪れたのは、八月も迫るある日曜日の午後だった。
繁華街から少し離れた下町には、古くからの木造アパートが存在するが、案内された岩寿の部屋もまさにそんなアパート二階の一室で、紗綾は十和、ダリル、瀧世と共に岩寿の家へと足を踏み入れていた。
「狭いけどごめんなー」
軽いノリで招き入れてくれた岩寿の家は、お世辞にも綺麗とはいいがたい。部屋は脱ぎ散らかした服や現像した写真やらで溢れかえっているし、散乱した雑誌や資料には所々に付箋のような紙が挟まっているのか、とにかく整理整頓という四文字熟語とは程遠い室内が足元に広がっている。きちんと片づければそれなりに窮屈さは感じないだろうその部屋も、この散らかり具合では紗綾たちは横一列に並んで座るのが精いっぱい。いや、ダリルは窓枠に腰を浮かせた曖昧な格好でいるし、瀧世は玄関と部屋を繋ぐ扉にもたれかかっている。十和に至っては引きつった顔で立ち尽くしていて、紗綾も座る場所が見つからずに立っていた。
「まあ、適当に座ってや」
適当と言われても無事に座れる場所はベッドしかない。ダリルと瀧世が遠慮したことで必然的に十和と紗綾がそこに座る羽目になったのだが、妙にそわそわとして落ち着くことはできそうになかった。
「あ」
ベッドのふちに腰かけて改めて見た室内の壁に紗綾はそれを見つける。
拡大された町の地図。押しピンが無造作に刺さっていて、赤い丸がその周りを囲んでいる。九月六日。殴り書きに近い日付と押しピンが紗綾の実家に突き刺さり、赤い丸で囲まれたそこに当時の事件がのった小さな新聞の切り抜きが貼られていた。
「これが白濁の少女を追った地図やで」
少し自慢げに岩寿の声がふふんと鼻を鳴らしている。
「こんなに」
それは想像していたよりも残酷で、膨大な数に及ぶデータの蓄積でしかない。範囲は町中に広がり、安全な場所などもうどこにもないと宣告しているようで、その被害は一目瞭然だった。
「アリア・ルージュ」
「え?」
「口紅で印が残された遺体は十二体。それが最初に確認されたのは去年の十月十日、場所はここ。それから広範囲にうつるけど、遺体に赤い口紅で十字架が描かれるのは、決まって夜の被害者だけ。紗綾ちゃん、随分とがんばったんやな」
誰にも伝わらないと思っていた行動が、誰かに伝わっていた。信じがたい事実は一生知ることが出来なかったかもしれないのに、こうして何の因果か目の前で見ていてくれた人がいる。褒められたことではない。応援されることでもない。それでもどこにも伝えようがなかった心の叫びをただ聞いてくれた人がいたという事実が、紗綾にとっては涙が出るほど嬉しかった。
やってきたことは無駄じゃないと思いたい。それが実を結ぶ約束のない果実だったとしても、花の咲かない種だったとしても、何かを模索し続けた結果はどこかに繋がっていると信じたい。
「事件は夜だけに起こるもんちゃう。この箔銘大学の女の子は午前中、大学に向かう途中で襲われてるし、二週間ほど前に発見された子はお昼休憩に会社を出たまま帰ってこんかった。この二件は白濁の少女であることから、シュガープラムと関連のある被害者とみて間違いないやろ。俺はフリーのカメラマンやからな。町の情報はそれなりに収集できるし、同業や顔馴染みが多いっていう強みがある。そこは信じてくれてええで。最初は町で起こる陰惨な事件を残すことで、何かの役に立てばっていう一種の記録みたいな形で始めたことやったけど、こうして事件を追っているうちに尋常じゃない事態になったもんやから、どないしよかと思ててん。そんなときに、たっちゃんと再会出来たのはもう偶然というか奇跡でしかないわ」
再会の原因となったのはあの日、五丁目の事件で紗綾の正体を撮影した日。撮影の証拠は抹消されてしまったが、彼にとっては大きな副産物を手に入れた方が価値があったらしい。
「警察は事件解決の糸口をみつけようと躍起になってるみたいやけど、麻薬を流してるんが翼心会と断定してるところもあってな、もっと大きな事案になりそうなんやわ」
「親父がそんなことするかよ」
「せやけど実際、翼心会の人間が闇オークションを開いて麻薬漬けにした少女で人身売買を行ってるっていう情報はあがってるんや。知らんわけないやろ。誰っていうのはたっちゃんの方が心当たりあると思うからあえて言わんけど、彼らが何か、事件の真相を握ってるんちゃうかと俺は思てる。それこそ、シュガープラムの生産者につながるような何かを」
「はぁ、お前は昔っからそういう勘だけは働くからな。わかった、そっちは任せておけ」
「さすがたっちゃん、頼りになるわ」
ひゅーっと、口笛を吹くような形で唇をとがらせた岩寿の仕草に、室内の緊張感が少し和らぐ。それを感じたのか、岩寿は突然、指を三本突き出して紗綾たちに視線を戻した。
「自分独自の調査でしかないけど、シュガープラムには三段階の状態があるように思う。一段階目は快楽を増長させるただの媚薬みたいな効果、二段階目はそれが依存による幻覚や幻聴を引き起こして、三段階目はこれが俺には意味不明でしかないんやけど消滅する、それも全身が溶けたみたいにドロドロになって消えるんや」
「そんな麻薬なんて聞いたことないぞ」
「それ以外に説明つかへんねんからしゃあないやろ」
瀧世に否定された岩寿の唸り声が小さく響く。ベッドに腰かけた紗綾の左手を包むような形で十和の手が重なったが、思わず顔をあげたその先にみた二つの瞳に紗綾は小さくうなずいた。十和もダリルも話すことを望んでいる。
「私たち、その現象には心当たりがあるんです」
紗綾の声が岩寿の唸り声をかき消した。
「信じるか、信じないかはお任せしますが、シュガープラムには魔種という存在が関わっているんです」
緊張から敬語になった紗綾に、よしよしと大きなダリルの手が伸びる。
「そこから先はボクが話すよ」
そう言って笑う青紫の瞳は瀧世と岩寿に、魔種の存在と死神の役割、そして今回の首謀者と思われる死神ジルコニックの存在を打ち明けた。
「ふん、なるほどな。それが本当なら人間だけで解決できないわけだわ」
パンっと自身の拳を受け止めた瀧世の目に闘志が宿っているのか、その黒い双眼はギラギラとした光を反射している。ダリルの話をすべて信じたわけではないだろうに、嘘をつく理由のないことが信じる方向へ判断を促したのか、瀧世も岩寿もダリルの存在を今は受け入れることにしたようだった。
「魔種が人工的に作られていて、何らかの方法でばら撒かれている。その理由まではまだわかっていないけれど、この仮説はほぼ当たっているとみて間違いない」
そう締めくくったダリルの言葉を無言の頷きで了承した二人は、これから先、事件解決のために手を組む姿勢を紗綾たちに指し示す。
「俺の町でこれ以上好き勝手やらせてたまるか」
瀧世の声が原動力に拍車をかけた。それはこれから先に待ち構える最大の事件の序章には過ぎなかったのに、紗綾たちは仲間が増えたことへの歓迎を胸に、事件解明の情報を交換しあう熱い夜を迎えていた。