アリア・ルージュの妄信
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白い雪が男の身体を包むようにそっと優しく肩に落ちる。それはふわふわと軽やかで、しっとりと重たい。じんわりと溶けていくその冷たい結晶は、なぜか泣きたくなるほど白く透明の光だった。
ざわざわと都会の喧騒に埋もれるように雪の降る寒空の中、男がなぜ人気のないベンチに腰かけているのかというと、他人にはどうでもいい、ただ本人には至極苛烈な深い原因がそこにあった。
「最近パパの帰りが遅くてさ、ママの機嫌すっごく悪いの。勘弁してほしいよ。日曜日、買い物に連れていってくれるとか言ってたけど、今度の約束も絶対覚えてないって」
学校帰りなのか、茫然と雪を眺めていた男の視界にその少女の姿がうつりこむ。
「ま、帰ってきてもママと喧嘩ばかりだし、最近まともに口を聞いていないからどっちでもいいっちゃ、どっちでもいいんだけど」
「なにそれ、あ、みてみて、これ可愛くない?」
「本当だ、いいな欲しい。でもたっか。買えないよ」
「んじゃさ、んじゃさ、いつものあれいっとく?」
「えー、今日はヤバい日だからパス。それに塾行かなきゃ」
「え、まじ?」
「まじ。見てよ、この参考書。気分まで重くなる」
「やっぱさ、ここはサボって稼ぐべきだって。欲しいものも手に入るしさ」
賑やかな空気をつれてその二人組が目の前を横切っていく。まだあどけなさの残る少女の横顔は、雪を肩にのせた男の存在を認識すらしていなかっただろう。しんしんと全ての音を吸収していく世界の中で、男もまた少女たちの声の隙間に記憶に新しい幻想を映していた。
「ひぁ…ッ…ぁあ…アッ」
まだ光の灯らない青空が満ちる頃、陽光が差し込む室内で見た光景が脳裏に焦げてまとわりついている。獣のように貪り合い、肌色が密着するまでもつれあい、恍惚の表情で彼らは互いを深く知ろうと求めあっていた。
「あっだめ、よ…びっくりしちゃ…ぅ」
「優しくすればいいだろ」
「やだ、もう。きて…ッ…ぁ…もっと」
よく知っているはずの声が、別人のように見えた理由はわからない。つい数時間前まで自分が眠っていたベッドの上で、自分以外の男が妻を抱いている姿など、どんな言葉をもってしても説明がつかないとしか言いようがなかった。
「ねぇ…奥さんと…っ…いつ別れてくれるの?」
「同じ言葉をそっくりそのまま返すよ」
クスクスとキスの合間に交わされる言葉は、二人の合言葉かと錯覚できるほどの秘密を孕んで、シーツの波にもまれていく。
「そこアっ…だ…めッ…っん」
夫以外の男の背中に爪をたて、甘えるように顔を寄せる女の声は、また深く沈み込み、浮上してはのけぞるように何度も繰り返し揺れている。
なぜだろう。
スローモーションの無声映画でもみているような錯覚に襲われる。現に男は、その数分間。家の主人が帰宅するはずがないと高をくくった二人の影を、扉の隙間から眺め続けていた。
「ぁアアァァっ」
一際大きな妻の声に、男の身体は途端に現実へと帰ってくる。
「イクッ…ぁあ…イイ…いくぅ」
大きく開脚し、曲げた足の間を強く突き上げる異物を締め上げながらのけぞる彼女に、見知らぬ男は飽き足らないとでもいう風に唇を奪って自身の種を彼女の中に注いでいた。避妊などという当然の義務は、彼女の反応と男が浮かべた悪戯な笑みに「されていなかった」という直感は外れていないだろう。
欲望は人を変える。
快楽に溺れた姿を目の当たりにして、背徳感に熱を上げる男女の声を耳に残して、見慣れた光景のすべてを閉ざすように、男はそっと室内をあとにした。
「どうして」
その疑問はずっと消えない。
「僕が悪いのか?」
いつもであれば帰宅しない時間。早い帰宅を喜んで出迎えてくれると思っていた妻は、見慣れない男の靴を愛の巣に招き入れ、夫以外の異物に悦びの声を叫んでいた。
「僕が何をした」
十八年。連れ添った年月を数えれば、にわかに信じがたい光景だった。
乱れたシーツ、脱ぎ散らかした服。一瞬で時が止まったような感覚。どこか別の次元に迷い込むような錯覚。嘘だと思いながら、色々な考えが浮かんでは消えて、消えては浮かんでいた。
強姦されていればよかったのか、助けに入ればなかったことにできるのか、無理矢理、強要されているのであれば妻に非はないのではないか。目の前にしても心のどこかで信じていたかったのかもしれない。いや、信じていた。
それなのに妻の顔をした悪魔は、自分の中に埋まる男の髪を愛しそうに撫でながら赤い唇で笑う。
「まさかこの年になって子どもを授かるとは思ってもいなかったわ」
これは裏切り。潔白のような顔をして降る雪と同じ、溶けてしまえば何も残らない。ただ透明に湿った禍根があるだけ。