Date:6月12日
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* * * *
五丁目の方角はオフィス街が立ち並ぶ一角で、ある一定の時間を超えると極端に人が少なくなる場所でもあった。紗綾と瀧世はただ漠然とした方角を頼りにその場所に向かっていく。
五丁目と一言で言っても、空にまで昇る巨大なビル群の中でその場所を特定するのは難しい。ただ、わかっているのは人目に付きにくい狭い路地や仄暗い隙間。人目を避けるように闇に紛れ込める、そんな場所に彼らはいる。
「瀧世、こっち」
余裕のなさが紗綾の口調から敬語をなくす。
瀧世はあれから言葉を一言も発さない。紗綾の足が走れば走り、止まれば止まる。何かを探すようにときどきキョロキョロと視線を彷徨わせ、耳を澄ますように瞳を閉じては、また盲目的にどこかへと走り出す。紗綾の行動が奇怪なものにも関わらず、瀧世は黙って紗綾のあとをついてきていた。
何を見定めようというのか、紗綾と違い、瀧世の視線はずっと紗綾だけを見つめていた。
「たぶん、あっち」
どんどん人気のない方向、暗さが増す方向を指さして紗綾は走る。
なぜなのかはわからない。初めて事件を追いかけ始めた日から犯人らしき像が行きそうな場所を模索してきたからかもしれない。この半年と少し、毎日事件を想定して、頭の中であたりをつけてきた場所の地図は自然と紗綾を事件の真相へと導いていく。
「はぁ…っ…はぁ…はぁ…っ」
息が切れるほど走ってきた紗綾は、隣で同じように息を切らした瀧世と共にある場所の前で立ち止まる。
古い雑居ビルと比較的新しいビルの隙間。もとは植木が植えられる予定だったのか、わずかに盛り上がった土の上に足跡がふたつ。ひとつは男のものらしき足あと、もうひとつは引きずるような形で線を描く女性のヒールらしい足跡。あたりだと確信した紗綾が目を向けるそこは、人が一人通れるほどの隙間があり、先が見えないほど真っ黒な闇が口をあけているようだった。
「きゃッ!?」
「紗綾」
隙間に身を投じた瞬間、ぬかるみに足をとられた紗綾はバランスを崩して瀧世に支えられる。後ろで受け止めてくれた瀧世がいなければ、紗綾は無様に地面に倒れていただろう。
「なんだこの臭い」
むせかえるような鼻をつく異臭が周囲に立ち込めている。雨が降った形跡はないのに、ぬかるんだ地面、どこかで嗅いだことがある腐敗臭のような独特の臭い。
「あ、おい」
足に力の戻った紗綾は、その答えを知るために今度は壁に手を這わせながら慎重に前に進んでいく。どうか想像通りではありませんように。どこかのネオンがビルの窓ガラスに反射して微かな光を届けているその場所で、紗綾はその答えとなる正体を見つけた。
「なんだ、これ」
紗綾を追いかけるように後ろからついてきたらしい瀧世の声が、異臭を避けるように覆った服の裾から聞こえてくる。この状態をみても平常心を保てているのか、瀧世は白濁の液体にまみれた少女の遺体に視線を送ってから、周囲の状態を確認するように顔を動かして状況を分析しているようだった。
白濁の少女。溺死したように眠る少女の遺骸は、紗綾にとって初めて対峙する存在ではない。
ビルの壁にまで飛び散っている白い液体に顔をしかめる瀧世の前で、紗綾はポケットから例の口紅を取り出し、キャップをはずすと少女の頬に赤い十字架を静かに書き記した。
「紗綾、何して」
瀧世の疑問の声はもっともな反応だろう。紗綾もその質問が来ることはわかっていて行動をおこしている。予想できた展開。それなのに、事態はいつも突然に予想にはないことが起こるようになっている。
「アリア・ルージュの写真いただき」
パシャっと走った閃光に、思わず紗綾の思考が停止する。
複数のシャッターの音が聞こえた気がしたが、一瞬のフラッシュのあと、再び訪れた暗い視界の中に取り残された紗綾は、状態を把握するのに遅れをとっていた。
「え、なに?」
初めからそこに、白い液体にまみれた死体と紗綾しかいなかったような静寂に包まれる。事実、シャッターを切って逃走したらしい男を追いかけていったのか、瀧世の姿もその場から消えていた。
「写真、とられた?」
ようやく事態を理解したらしい紗綾の脳が、先ほどの閃光の正体を口にする。予定にはない事柄。アリア・ルージュの存在が明るみに出る恐怖が、言い知れず紗綾を襲っていた。
震える。体が震える。
死体に口紅で十字架を描いていたのが自分だと、世間に知れたときのことを考えるだけで足がすくんで動かない。少女を殺した犯人は自分ではないのに、この状況だけをみれば、誰でも紗綾が事件の主犯だと思うに違いなかった。
「待って」
突き動かされるように紗綾は路地を飛び出す。ぬかるんだ土が足にまとわりついてぬるぬると滑ったが、紗綾はほとんど悲鳴に近いような声で写真をとった存在に停止の言葉を叫んでいた。
「うわぁあああ」
紗綾が路地から這い出るなり、目の前の光景に目を疑ったのも無理はない。
「瀧世、瀧世、腕が折れ…痛ッいたたたったた」
カメラを首から下げた男の腕をひねり上げ、鬼も逃げ出すほどの形相で、瀧世がそこに立っていた。
「なぁ、岩寿。カメラばっきばきに壊されるのと、ネタ消されるのどっちがいい?」
「ええ、せやなぁ。どっちも勘弁してほしイタたたたマジ痛いから、ギブギブギブ」
「このままお前を消してやろうか」
「アハハ…ッて、冗談に聞こえへんからぁああアアア」
「早く選べ」
「わかった、わかったから離して、消す…ッ…消す消す消す消す約束する」
降参を認めた関西弁のカメラマンは、解放された自分の腕が無事だったことを確認すると、涙を携えた目でカメラを瀧世に手渡した。瀧世はそれを受け取ると、確かにデータを消したうえで、それを放り投げて返していた。
「ちょっ、壊れたらどないすんねん」
「あ゛あ?」
「俺の特大スクープ奪っておいて、そりゃないんちゃうの、たっちゃん」
「たっちゃん?」
「あ、アリア・ルージュ」
「声がでかい」
「いだっ」
賑やかな声が静寂な町で異彩の空気を放っている。頭を両手で押さえてうずくまる人物が、瀧世のことを「たっちゃん」と呼んだことにも驚きだが、空気を読まない軽い言動が紗綾の足を影に縫い付けたまま離そうしない。そんな紗綾の戸惑いを察したのか、瀧世が涙目で立ち上がった男を親指でさして紹介してくれた。
「悪かったな。こいつはこの辺で活動しているフリーのカメラマンだ」
「どうも、佐伯岩寿(さえきがんじゅ)っていいまーす」
「さっき撮られた写真は全部消したから心配するな」
「あ、ありがとう」
瀧世が心配するなと言えば、自然と大丈夫だと思えるから不思議だった。ホッと肩から緊張感が抜けて、紗綾の足は二人の元へと向かっていく。
「いやぁ、それにしてもべっぴんさんやなあ、モテはるやろ。名前なんて言うん、俺の専属モデルにならへん?」
「え、あの」
「さっきはゴメンな。シュガープラムを使った犯行がこの辺であるかもって噂があって、張ってたんやけど、まさかアリア・ルージュに出会えるとは思てへんかったわ」
「岩寿、やめろ」
「ええやんか別に、たっちゃんの彼女ってわけとちゃうんやろ?」
「その呼び方もやめろ」
「ツレに、その言い方はないんちゃうか?」
紗綾の両手を握って再び紗綾の影を地面に縫い付けた岩寿は、白濁の少女を見つけた世界とは真逆に存在しているようだった。夜の世界にあって輝く光のような強さを感じる。場違いなほど明るい調子に、紗綾はクスリと困ったような呆れたような何ともいえない笑いをこぼしていた。