Date:5月30日
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「それにしても美味しいね、この牛丼っていうのは」
「死神でも味がわかるんだ」
「ひどいな。キミはボクのことをなんだと思っているんだい」
もくもくと食べ進める紗綾とは対照的に口数の減らない目の前の死神は、始終楽しそうに紗綾に話しかけている。気が滅入るほどの暗い雨が通りを歩く人間を濡らしているが、そんなことには意識を向けずに済むくらい、ダリルは陽気に笑っていた。
「雨、きらいなの?」
急に真面目な口調になったダリルの声に、紗綾の肩がピクリと動く。
「べつに」
短く答えた紗綾はダリルを見向きもせずに目の前の飲食に集中している。もくもくと食べ進める様子は、急いでいるようでいて、先ほどから全然減っていなかった。
かたん、と。誤魔化すことを諦めたように紗綾の箸がどんぶりの上に橋をかける。
「雨の夜は思い出すから」
正直、食欲は皆無だった。
今の季節が秋ではないだけましだと、紗綾は見つめてくるダリルにむかって先ほどの問いかけに素直に応じた。じめっとまとわりつくような雨の夜。夏の終わり、秋の入口。それに比べれば春の終わりに降る雨はまだ耐えられる。
「ねぇ、ダリル」
「ん?」
「今夜は私といてくれる?」
当たり前だとでもいうように、ダリルは無言で紗綾の頭をポンポンっと二回たたいた。大きな手の平が心地いい。雨の夜が眠れないことは、この一ヶ月でダリルには勘づかれていただろう。
「今日は帰るって言わないんだね」
少しは打ち解けてきたかなと嬉しそうに笑うダリルの言葉通り、紗綾の心境に少し変化が訪れていることは紛れもない事実だった。
「今夜が雨だって知っていて、私から携帯奪ったんでしょ?」
「なんだ、バレてたの」
はいっと、電源を切ったままの携帯を取り出してダリルは紗綾にそれを差し出す。紗綾はそれに対して、ふるふると二回首を横に振った。
「十和に甘えるのも、もういい加減やめなきゃ」
窓の外は雨が降っている。漆黒に濡れた夜。十和との通話だけが雨の夜をやり過ごす日課だったが、いつまでもそれを続けているわけにはいかないことを紗綾も心のどこかでわかっていた。わかっていて、出来なかった。その連鎖を断ち切るには、今がちょうどいい機会なのかもしれない。
「ボク、十和くんに殺されない?」
「死神だから平気でしょ」
「うわ、そこは否定しないんだ」
「ああ見えて十和は滅茶苦茶強いからね」
「それは最初に鎌を見せた時にわかったよ」
「ああ、あれ。本当にびっくりした。十和を殺すのかと思って本気で驚いたんだからね」
「だってムカついたんだもん」
「なにに?」
「頭よくてイケメンで将来社長で、親友の兄で幼馴染で、キミに一番近い存在だっていうのが」
「なにそれ」
意味がわからないと紗綾は笑う。それをどう受け取ったのか、ダリルは少し不貞腐れたようにはぁっと息を吐き出した。
「キミの前で恥をかかしてやろうと思ったのに、まさか微動だにすらしないとか反則でしょ。彼、本当に人間?」
「私も同じこと思ったことある」
「あの自信満々の鼻をいつか折ってやりたいよ」
「十和は努力家なんだよ」
食欲が戻ったのか、紗綾はどんぶりにかけてあった箸をつまんで食事を再開させながら記憶のアルバムをめくるようにくすりと笑みを浮かべた。
「十和だって最初からなんでも出来たわけじゃないよ。ただ極度の負けず嫌いなだけ。才能っていう言い方をするなら佳良のほうがなんでも簡単にやってのけてた。水泳もピアノもそろばんも縄跳びとか、鉄棒とかそういうのも。佳良は手先も器用だったから料理もお菓子作りも上手だったし、あと裁縫で好きな男の子にお守り作ってたこともあった。そういえばマフラーも編んでたかな。とにかくやりたいと思ったことがなんでもすぐに出来ちゃう子だったから、お兄ちゃんとしては負けていられなかったんじゃないかな」
「へぇ、意外」
「でしょ。十和はずっと完璧を求められて生きてきたから、たとえその相手が妹でも負けることは許されなかったんだと思う」
「それでああなっちゃったのか」
「そこは佳良も言ってた。性格が歪みすぎてるって、お兄ちゃんの唯一の欠点だってね」
くすくすと紗綾は心の中だけでめくられる写真を懐かしんで、ほぅっと温かな息をこぼす。パクパクとご飯を口に放り込んだが、店に入ったころと違って、今度はちゃんと甘辛い牛肉の味がした。
「不思議」
「何が?」
「佳良の話をこうして誰かに出来る日が来るとは思ってなかった」
紗綾は正直に今の感想を口にする。
「ダリル、ありがとう」
その笑顔に照れたのか、ダリルの顔に少し赤みがさす。ゴホンっとわざとらしい咳を二回ほどしていたが、紗綾はふふっと笑って食事を続けていた。
穏やかな時間。雨の夜には決まって十和と話をすることでやり過ごしてきた紗綾にとって、この時間はとても意味のあるものに思えた。幼いころから一人で夜を過ごすことに慣れていた紗綾でも、あの事件以降、雨の夜だけは克服できていない。
「お父さんとかお母さんは?」
紗綾が食べ終わるのを待ってから、ダリルがおもむろに会話の続きを口にする。お茶の入ったコップをその両手で包みながら、紗綾は肩を少しあげて寂しそうにダリルを見つめた。
「パパとママは、私に興味がないの。事件のあとも私を寮に放り込んで仕事三昧、今頃どこかの空の上を飛んでいるわ」
「だったらいつか、ご挨拶できそう」
「どういう意味?」
「上空は死神の得意範囲だからね」
「だからってなんで私のパパとママにご挨拶するのよ」
「えー、そこはほらアレだよ。娘さんと仲良くさせてもらっていますっていうやつ」
「死神と仲がいい娘とかいやでしょ」
「たしかに、それは言えてる」
そういって二人そろって笑い合う。仲のいい恋人に見えたかもしれない。ごちそうさまと店をあとにする頃には、紗綾の顔色に血色が戻っていた。
「さて、雨の夜をどこで過ごすかという問題なんだけど」
まばらになった繁華街の人通りには、思い思いの傘を握って歩く人がぶつからないように歩いている。晴れていれば公園でもどこでも、一晩中腰かけることが出来そうだが、水たまりができるほど濡れた地面では、そう容易く過ごしやすそうな場所は見つからない。
「私はどこでもいいよ」
「いや、どこでもはダメでしょ」
「ダリルと一緒だったらどこでもいい」
「キミ、本当ボクのこと何だと思ってるんだろうね」
「え?」
「男相手に簡単にどこでもいいなんて言ったらダメ」
「何か問題でもあるの?」
「ボク、十和くんに殺されちゃうよ」
横で何かをぶつぶつ嘆いているダリルの考えは無視をすることに決めたのか、紗綾はダリルの服の裾を握ってじっと空を見つめていた。傘は持っていない。近くのコンビニまで走って買いに行こうかと考えるくらいには、紗綾の気持ちに余裕が生まれていた。だからかもしれない。
「え、紗綾ちゃん!?」
突然走り出した紗綾の行動に、驚いたダリルの声が追いかけてくる。
雨の中、バシャバシャと地面をける水しぶきの音だけが響き、紗綾は先ほど視界にとらえた目当ての場所へと一直線に向かっていた。タクシーが客を降ろして走り去った道路の向かい側。嫌がる女性の口を押えて路地へと消えていく男の姿を見た。
* * * * *
下水の匂いが雨の匂いに紛れて充満している。腐敗したゴミ、誰かが捨てたタバコ、いつからそこにあるのかわからない空き缶。都会の鼠でももっとましな道を通るだろうその路地で、丁寧な化粧を施した女性が恐怖の声を叫んでいた。
「ちょっと、放しなさいよ」
綺麗な声は怒りのままに暴言をわめきちらしている。街灯も届かない暗がりでその顔も姿もよく見えないが、紗綾は辿りつくなり男を体当たりして突き飛ばし、女性の手首をつかんでそのまま路地の奥へと引き寄せた。
「こっち、早く」
呆気にとられた女性が、紗綾の声に合わせて足を踏み出す。
狭い路地裏の道は決して進みやすいとは言えなかったが、女性二人。なんとか逃げ切るくらいには道が続いている。
「え?」
突然の行き止まり。空からは雨が降り注いでいて視界は悪い。紗綾はぺたぺたと通り抜けられる壁を探すように、周囲に視線を巡らせていた。そして、振り返る。あとを追ってきたらしい、白い化け物の姿。
「なによ、あんた」
一緒に逃げて来た女性が自分を襲った男に向かって足元に転がっていたらしい空き缶を投げつける。からんからんと虚しい音がしてその空き缶は化け物の横を転がっていった。
「っ」