単発短編集


2月14日

 薄暗い帰路を辿る。今日も人が多く、駅ビルに向かう歩道はガヤガヤと賑やかで、少しばかり違って見えた。

「あー、寒。本当に。マスク着けときゃ良かった」
「マフラーすれば割とマシでしたよ」
「首に何か巻くの、感触が好きじゃなくて。損してるのは分かるけど」

 くわ、と欠伸をした先輩の返事は何時も通り、ゼミ終わりの気怠さを漂わせていた。
 こうしてゼミが終わり、後の講義もないとあれば、使う駅自体は同じなので、駅まで彼女と共にする事は大して珍しくはない。寄り道と称して本屋を冷やかすのも、先輩の気力と気分次第では良くある事だった。先輩と僕は何ら変わりがない。
 違うのは周りだ。今日という日、街中が変わって見えるのは匂いのせいだったろうか。
 行き交いすれ違う人の合間から漂う微かな甘い匂い。自動車の排気に紛れて普段は感じるべくもないだろうに。内心、自嘲する。やたらと嫌いなものには過剰に反応する質らしい。
 自覚すれば微かの限度を越えて、うんと立ち込めてきた臭気に眉をひそめて、気を紛らわすために一歩前を行く先輩を見る。定期的にスマートフォンを睨みつけては、辺りを見渡して、納得したように頷いて、歩く。

「浮足立ってら」

 駅前の交差点の信号を待つ傍らで、ふと、先輩は呟いた。その目線を辿ると、並木道の電飾がチカチカと瞬いては青から黄色、赤色へと光の色を変えていた。

「まあ、バレンタインですから」

 バレンタイン。そう口にして漏れそうになったため息を飲み込んだ。

「にしたってきらきらしくて敵わんね」

 肩をすくめて、交差点を渡りきったら、先輩は歩行者を避けるように道の端で立ち止まった。そして再びスマホと現実の風景を交互に見ては、はてと首を傾げた。

「全然分からん」

 そう言って手招きするので、後ろから煌々と光る地図を覗き込んで、目的地を示す赤い目印を探す。今居る場所からは遠くない、どころかすぐ側にあった。

「あの横断歩道を渡って曲がればすぐなんじゃないですか」
「そうか、そうかも」

 僕が方向を指差しても、先輩はへえと他人事かのように頷いた。大学から駅と気に入った本屋以外の道は覚えていない彼女らしくはあった。
 そういう人が突然、講義の終わりに寄り道でもするかと言い出して、なにやら面白そうだなと面倒臭さよりも興味の方が勝った時点で織り込みである。

「案内ありがとうな。昨日は全然たどり着かなかったから助かる」
「いいえ、それより大学周辺で迷うのは不味いんじゃないですか」
「基本直帰だから問題なかったんだよな、これが」

 ははは、と笑ってまた指差した方向へ歩き出すので、僕もその後ろをついて歩く。

「こういう行事、嫌いなんですか。浮足立っているっていうから」

 先程までの会話を、何となく続けてみる。彼女は数秒、小さく唸ってから、ゆっくりと言葉を確かめるように答えた。

「いや、もの食べるのは好きだから嫌いと言うほどでもない。ただ景色はあんまりだな。そんなに光らんでもって感じ」

 そうなんですね、と頷けば、彼女は無邪気に笑い声を上げた。

「それにやっぱ外は寒い! 家ん中が一番良いよ、あったかいし」
「成る程。そんな中、これから何しに行くんでしたっけ?」
「カフェでキッシュ食おうとしてる。しかも私の奢り」

 また、けらけらと笑い声が上がって、白い息がぽっぽと空に昇っていく。
 そしてくるり、と振り返って僕の顔を見た。

「で、そういうきみはどうなんだ?」
「何の事ですか」
「バレンタインの事! 好きか嫌いかって話」

 自分で振っておいて都合が良いとは我ながら思うのだが、まさかこちらに返ってくるとは思ってもみなかった。
 それに年を経るに連れ聞く事もなくなった、久しい問いでもあった。僕の中では歴とした突然の問いだったから、素直に言葉が詰まる。
 しかし、なんとか一般的な、昔作った余所行きの回答を頭の隅から引き摺り出して、なるべく平静に読み上げた。

「甘ったるい感じが好きじゃないですね。僕はチョコ、苦手なので。何の得もないです」

 動揺が声に出ていなかっただろうか。頭の中で反芻してみてもはっきりとはしない。意識すればするほど不自然な気がする。
 しかし、そうか、と先輩は頷いて、それ以上掘り下げはしなかった。それが有難かったし、些か後ろめたくもあった。嘘はついていないが、芯を食った答えではない。いや、行事の好き嫌いに芯も筋も要らないだろう。だとすればやはり、不自然である。
 また信号に差し掛かり、周囲の足音も止む。僕達の会話は既になかった。しかし、話し声は止まらない。二、三人の女子高生のグループや、男女二人組が肩を並べて絶えず何かをガヤガヤと喋っているのがよく聞こえた。彼ら彼女らは揃いも揃って小さい紙袋を大事そうに持っている。
 今日はバレンタインだ。忌まわしいとまでは言わないが、苦々しく眺めてはいた。小袋が誰かのための、ないしは自分のためのれっきとした贈り物であることが伺われて、無意識に眇める。
 信号が青になった。足音が一斉に鳴り始める。それに合わせて先輩も僕も歩き始めた。結局、信号待ちの間、会話は一切なかった。
 道をずんずん進み、彼女は先程教えた通りの場所を曲がった。並木道のぎらぎらしたイルミネーションが遠く暗くなっていく。
 そうして、街灯だけが夜道を照らすようになった。それが日常であるはずなのに、今日に限ってはその日常が異様な雰囲気を醸し出していた。

「おー、ここか。キッシュ美味いらしいところ」

 先輩が急に立ち止まる。ぶつかりそうになりつつも、我ながら器用によろめかず一歩後退ってから止まった。顔を上げると、少し寂れたような、それでいて清潔そうな、感じの良いカフェがあった。

「とりあえず入ろう。寒い」

 彼女が堂々扉を開けると、リンリンと鈴が鳴る。
 そうして店員に促されるまま入った店内は小綺麗にされており、明るすぎない橙色の明かりが趣味の良いように思われた。
 席に案内されて、コートを脱ぐ。脱いだそれを椅子に掛けた。腰も掛ければ、コップ一杯の水が二人分出される。そして二人でメニューをぱらぱらと流し見て、飲み物を決める。彼女の方も決まったのを確認し、店員を呼んだ。つつがなく注文が承られる。
 食事が来るまでの間、何を話そうか考える僕を出し抜いて、先輩が口を開いた。

「それで、この後どこ行こうか? きみの欲しいものによるんだが」

 何を言っているのだろう、と首を傾げる。珍しく軽食をつつきながら駄弁る一般的な寄り道の、その後を想定されている事に驚いた。しかも、僕自身の希望次第というのも何時になく珍しく、奇妙である。

「なんで僕の欲しいものを気にするんですか? 何時も通り、先輩の好きにすればいいのに。何処でも付き合いますよ」

 極々素直に疑問を口にすると、彼女は困ったように口を尖らせた。

「その好きにするっていうのができないんだって。プレゼントにいらないもん渡されても嬉しくないだろ」

 自分自身を皮肉るような答えで、相変わらず不器用で難儀な人だな、と流しかけて違和感を覚えた。

「プレゼントって何ですか」
「ん? 誕生日の。普段世話になってるし」
「誰の?」
「きみしかいないが」

 誕生日プレゼント、とは。不意打ちの単語が、一瞬で頭の中を占拠した。一体全体、何の話なのだろうか。問答を踏まえれば答えは自明だ。間違いようがない。
 それでも確信にまでは至らず、閉口している。

「あれ、今日じゃなかったか? ごめん、祝い事の前後だとすぐ」
「いや、間違っていないです。本当に、今日で、間違いはないです」

 先輩の言葉を遮って正す言葉は、しどろもどろで膝の上に落ちていった。
 こんなことは、家族以外だと、随分久しぶりのことだった。
 バレンタインと同日の誕生日には、余り良い思い出がない。僕自身に愛想がない性質が多大に影響しているのは承知だが、僕の誕生日は常にバレンタインという重大な記念のついでだった。その影で忘れられるならいっそマシで、ただ、周りも気の良い人達ではあったので、謝辞と愛想を混ぜて祝われる方が多かった。いつも余り物の、好きでもないチョコレートがプレゼントの代用品で、僕の為のものではなかった。悪意でないばかりに、受け取る度に自分の中の核が削られていく気がした。
 そうやって年を重ねていくうちに、アイデンティティを傷つける仕打ちを受けるのも、無自覚にさせるのも避けようとした結果、自分の生まれた日を伏せるようになっていた。
 そして、目論見通り二月十四日に誕生日として祝われる事はなくなり、煩わしくなくなった。
 それが今、突然掘り返された上に、至極真っ当に祝福されるのだから、身内以外にどういう顔をすべきなのかすっかり忘れてしまった。そもそも何処からずっと秘密にしてきた、その日が漏れたのかもわからない。
 誤解を正した切り、一人放心して膝の上を見つめていた。
 一方で先輩はうんうん唸っている。そっと目線だけ彼女の顔を伺えば、眉間に皺を寄せ、困ったように首を捻っていた。先輩の言い分は正しかったのだが、何を悩んでいるのだろう。顎を手で押さえたかと思えば、うわ言のように言い出した。

「確か誘ったとき、言ってないか? プレゼント買うって? ……いや、言った記憶ないな……? うん、ない。言ってないわ。ごめん」

 半音上がる語尾が繰り返されるたび、疑念と当惑から確信に変わっていったらしい。僕の言葉を待たずとも、最後には完全に自己完結に至ったらしく、目を見開き、謝罪で締めた。それから大きなため息とともに、はは、と笑い声と落胆の声をまぜこぜにしながら、彼女は弱った目で額を一回叩いた。

「本当に申し訳ない。全然訳わからん誘いだったな」
「それは、大丈夫ですけど」

 未だに空回る頭で返事をする。
 沈黙が流れる。意思と行動の回路が繋がらない、この感じ。珍しく気まずかった。今度は先輩が申し訳なさそうに、伏し目でこちらの様子を伺っていて、気まずい事この上ない。
 注文した料理も飲み物もまだ来そうもなかった。
 この空気を打破する手段を持ち合わせてはおらず、その場しのぎで唯一残っていた疑問を口にするしかなかった。

「教えましたっけ、僕の誕生日」
「飲み会のとき聞いた。五月の」
「ああ、あの。ゼミに入ったばかりの時の」

 五月頃の記憶を引っ張りだしてみると、宴も中盤、酒も進む中、同輩からの質問に答えた気がする。流石に誕生日は、と向こうから聞かれれば、嘘をつくわけにも、はぐらかす訳にもいかない。
 一つ、思う事があるとすれば。

「よく覚えてましたね。先輩が聞いた訳でもないのに」
「寧ろ覚えやすくて助かったわ。大半は何でもない日にあるんだからさ」

 あっけらかんとした答えに、僕は一層困惑して、もう情けなく笑うしかなかった。

「家族ぐらいですよ、そう言うのは」

 事実を告げると、彼女もええ、と不思議そうに首を傾げていた。
 そうしているうちに、店員が来て注文した品が差し出される。
 キッシュが二つに、コーヒーが一つ、紅茶が一つ。
 店員がキッチンに引っ込んだのを確認してから、並んだそれを前に、彼女は咳払いをした。改まった調子だった。

「遅ればせながら、誕生日おめでとう。きみにそれなりの幸いがありますように」
「……ありがとうございます」

 自分に向けられた格式張った祝いの言葉は、少し飲み込むのに時間がかかる。気恥ずかしさが体中をざわざわさせて全身に走るのを誤魔化すように、フォークをキッシュに刺した。

「美味しいです」

 こくり、と飲み込んでから伝えれば、彼女は安堵の息を小さくつき、「それは良かった」とコーヒーを啜った。

「ここでプレゼントを渡せればもっとスマートなんだけどな」

 先輩は未だに引きずっているようで、萎んだ声で続ける。

「どうしても苦手で、こういうの。悪いとは思うけど、ストレートに聞いちゃうんだよ。好物を奢るのは免罪符じゃないって友人に怒られてんだけどさ」
「気にしていないですよ、全然。分かっていますから」

 ポツリとこぼしてもこぼし足りないらしい謝罪に、冗談めかして返せば、彼女はフッと漸く口角を上げて、今度はキッシュを頬張った。中身を飲み込んで、頷いて、それから話が本題に戻っていく。僕の頭も漸く回ってくる。

「そんで、どうしようか。よっぽどのもんじゃなきゃ何でも良いぞ」
「そうは言われても、欲しいものは昨日の内にあらかた買いましたし」
「マジか。困ったな」
「僕も困ってますよ。これは想定してないので」

 不器用な先輩は微かに目だけで苦笑した。
 正直な所、僕からすればプレゼントはあの祝いの言葉だけで十分だった。自分のことを考えてくれたのなら、形のないものでも十分過ぎた。
 しかし、この先輩のことだからこれを伝えても、気を使われたと余計な事を考えては気に病むのだろう。意外に人の事を気にするタイプだから。それにわざわざ自分のことを気にかけてくれた人に、そういう煩わしさを残すのは道理に合わない。
 何を頼むべきか、キッシュにフォークを突き刺しながら考える。
 欲しいものがない以上、好きなものを選ぶのが良いのだろう。できれば彼女にしか頼めないようなものが良い。
 紅茶を飲みながら思案していれば、先輩はへらへら笑って、名案の様にこんな事を言った。

「何処か行きたい所でも良いぞ。何時もこっちに付き合わせてるし」
「……先輩の家の本棚を拝見したいって言ったらどうします?」
「別に良いぞ。興味ある本あれば借りてって良いし」

 楽々、躊躇いも迷いもない返事にはあ、と息を吐く。無邪気と言うべきか、はたまた。

「意味が分かっていなさそうなので、これは遠慮しておきます」
「ええ、難しいな」
「それはこっちの台詞ですよ」

 しかし、良いヒントにはなった。
 ソーサーにカップを置く。それじゃあ、と口を開くと彼女の期待を孕んだ視線が刺さった。

「先輩の時間を少しくれませんか、一時間ぐらい。僕、先輩と話す時間が好きなので」
「はは。気でも使ってる?」
「大真面目ですよ」

 食い気味に返すと、冷やかしと自嘲を混ぜていた彼女は大きく目を見開いた。睫毛に縁取られた瞼を、ぱちくり、しきりに瞬かせる。
 それから、大きく息をついて、にいっと白い歯を見せた。

「まあ、それが良いって言うなら、喜んで」
「ありがとうございます」

 それでは、これから一時間、何について何から話そうかと計画しながら、キッシュを頬張った。
2/2ページ