誕生日短編

(イン)モータル・インドレンス

 書物机を淡い黄色で満たす光に、薄いカーテンレースを引く。レールを滑る無機質な音と薄暗さに乾いた目を瞬かせて、少しだけ細めた。
 くしゅん、と背中から小さなくしゃみが聞こえて、思わず顔が綻ぶ。そういえば、と机の上でページを野晒しにしたままの本を見下ろす。焼けた紙、インクで僅かに盛り上がったテキスト、虫を潰した微かな跡。行と行を無視して指先で一つなぞってから、栞も挟まずに閉じた。
 昨日から外気に晒していないこの部屋は紙と埃が焼けた匂いが篭っている。
 閉じたレースのあわいに手を差し込んで、冷たい窓枠に触れる。かちゃんと鍵を下ろして、ほんの数センチ引けば、昼下がりの風が涼やかに頬を撫でていって、音が溢れだす。子供の声、駆け出す足音、誰かの名前を呼ぶ大人の声、会話が折々に折り重なったざわめき。調和を意図せずとも全てが混ざって、明るくて和やかな一つの音を成している。
 賑やかだけれど午睡の一つしても良い、平穏そのものな午後だった。
 くるり、と身体を回して、見上げた視線の先にいる人の名前を呼びかける。

「マコト」

 返事代わりに小さく鼻を啜る彼に、丁度そばにあったティッシュを差し出す。マコトは素直に生っ白い手を伸ばして、しゅるしゅると紙を引き出した。乱雑にティッシュの箱を戻して、静かに鼻をかむ彼の足元にゴミ箱を置いてやる。

「昼に来るなんて珍しいね。しかもマコトが連絡もしないなんて。他の面子なら分かるんだけど。仕事はどうしたの?」
「代休。この前の休日に臨時で出たから」

 淡々と返された言葉に、成る程、と頷く。机の隣で、壁にぶら下がっているカレンダーをちらりと見やれば、今日の日付から三マス左に赤い数字が鎮座していた。
 こういうものは休日の隣に置かれるものだと思っていた。医療系でもないなら尚更。
 しかし、禄に人間の生活などした事もないのだから、案外こんなものなのかもしれない。吸血鬼が人間社会の何を知り得ようか。
 肩を竦めてマコトに視線を戻す。生白い顔は初めて出会った時から変わりはないが、目の下の隈は当時より薄くなっていた。
 一時、真っさらなベッドに腰掛けて日の出を待つだけだった彼を知っている。睡眠を必要としないわたしはそれを盗み見るばかりだったけれど。
 待つだけの時間が減ったのなら、それは良い事だ。見かけから分かる程なら、尚更。安堵している、と言うのに。
 蠢いて落ち着かない旨の内を飲み下して、わざとおどけた上擦った声で言葉を投げる。

「お役人も大変だね。折角の休みを急に乱されるんじゃ堪らない」
「まあ……仕方ないだろ。そこも織り込み済みでやってんだ、こっちは」
「まあ〜、立派な社畜になっちゃって」
「平日の休み目当てならそうでもないだろ。今回は自分で調節もできたし」

 マコトは几帳面に折り畳んだ紙屑をゴミ箱に放って、カレンダーに目を向けた。

「じゃあ態々今日を選んだ訳だ。週の丁度真ん中を、態々」
「そうだな」
「どうせなら少しずらせば連休になったのに」
「別に良いだろ」

 マコトは悪戯にまなじりを下げた。

「オレの自由だ。全部」

 だろ、と穏やかな喧騒の中に溶けてしまいそうな問い掛けがいたく耳に響くので、縦横も曖昧に首を振った。それを見て取ったマコトは、伏し目でゴミ箱へ伸ばした手を戻しながら思案気な顔をする。時折僅かに首を傾げて、短い前髪がさらりと流れていく。
 相槌の先を続けられなかったわたしが開けた間が、窓から入る音で埋められていく。
 今更、わたしたちが立てた音以外で満たされたぐらいで、気まずさが横切る訳がない、筈だった。現にマコトは視線を上げて、なんて事のない様な顔をしている。
 が、耳に残った言葉が胸の中でつるつる滑り続けて、滑るだけ滑って何処かに嵌って止まる訳でもない。頭の中を巡って思考を占領しようとしてくるので、傍らの本を手繰り寄せる。
 窓辺に立ち並んだ硬い表紙の本に立てかけると、「それに」とマコトが言った。

「何もすることもなくて、他に、どこかに行く宛もないから。休んでも思ったより暇だから、丁度良い。……多分」
「勤勉だね~。万年寝転んでばかりのわたしとは大違いだ」

 背表紙に引っ掛かった指先を離して、顔の横でひらひらと掌ごと振り回せば、目の前で三白眼が大きく見開かれた。

「毎日何かしらしてるだろ。商店街行くとか、酒場で飲むとか、植生の観察とか散歩とか言って最終的に動物の尻を追いかけるとか。第一、旅自体が何かをし続けるようなものじゃないのか」

 小首を傾げて、あれもこれもと、身に覚えのある行為を指折り数え上げていくので、くく、とくぐもった声が漏れた。みるみる内に歯を晒す口を押さえるけれど、当然間に合っている筈はなくて。マコトはちょっと眉を上げて、数えるのを止めた彼は腕を組んで、わたしを見ている。純粋な困惑が込められた視線に答える。

「確かにそういう事、やってはいるけど。……言葉の綾だよ、寝転がるって」
「そんなの分かった上で言ってるんだが」
「んーん。マコトが挙げたのは全部違うよ」

 まだ神妙な顔で頑なに腕を組む彼に言い聞かせるように、口元を隠すのを止めた手で指を立てて、口を回し続ける。

「それに、毎日している訳でもないからね。店に行けばお金がなくなっちゃうし、旅だって今は……中断している、感じだし。現に昨日はここに籠っていたし」

 窓から差す光にすら眩んでしまう乾いた目を擦りながら、立てた本を見下ろす。何気なく手が伸びて、硬い背表紙とページの束のちょっとした段差に触れる。

「じゃあ、本は」

 マコトの言葉に、ハードカバーに掛けた指が静かに跳ねた。その反動に押されるようにマコトを見返せば、三白眼が、わたしの手元を見たのか、あるいは見なかったのか、曖昧に上下する所が映った。彼はわたしに目線を合わせてくる。
 外から子供の歓声が飛び込んで来た。

「本は、毎日読んでただろ。さっきまでだってそうだし……昨日から読んでたんだろ、どうせ、お前の事だから」

 はしゃぐ子供を諫める声が遅れて聞こえてくる。涼しい風が、肌触り良く、柔らかに鼻先を撫でていく。

「オレが眠れないときだって、そうだったし」
「……それは」

 喉が一瞬つっかえて、先の言葉が出て来なかった。そういう事ではない、と言うだけだろうに。でもそれだけの言葉が上手く出て来なくて、腹の奥で溶けていく。
 反面、穏やかな伏し目になってマコトは続ける。

「知らなくて、小難しくて、分厚い本を捲ってて。いつもが嘘みたいに静かで。……懐かしいな」

 真っ白なシーツの布地の感触を思い出す。勢いを付けて突っ込めば擦れて少し痛い、そんなちょっと硬い感触。夜の十一時を回れば、言葉を交わすでもなく、ただ何となく白々光る電気を消して、それぞれのベッド、硬めのシーツの上にわたしもマコトも身を乗せていた。一転、真っ暗闇の中で、わたしは枕元におざなりに放った本を開いていた。
 確かに、毎晩の事だった。吸血鬼は、眠る必要がなかったから。
 あの旅の事。皆が忘れてしまう筈の所、実に中途半端に残ってしまった過去の事。マコトが話しているのは、正しくこの時の話だ。だってそれ以前に彼と会ったことはないのだし、旅の終結後、今の不可思議な記録を付けるまで再び会う事はなかったのだから。
 静かに唾を呑む。一緒に飲み込んでしまった空気が喉元で詰まって、腹を内側から圧迫している。

「ちょっと、楽だった。独りよりは、ずっと。朝までは時間が長すぎるから」

 眉を下げて、少し俯いた顔も上げて、そこには穏やかな表情があって。
 何を言っているのだろう。
 いやに心臓が蠢いている。普段意識しないのに、記録を付ける時の聴聞ですら意識しないのに。いや、嘘だ。多分。きっと逆で、聴聞のときしか、わたしは。
 ああ、不安定が過ぎる。思考に反動するような思考が差し込まれて、どうしてこれだけの事で、こんなにも動揺してしまうのだろう。
 ひそかに鼻から息を深く履いてみたけれど、内側のざわめきは決して変わらない。でも体裁は整えなくてはいけなくて、言葉をひりだす。

「……でも、何もしてないじゃん」

 窓を見る。外を覗く訳ではない。ただ単に、どこを向けば良いのか分からなかった。
 夜になっても、眠る必要がなかった。だから、夜目が効く視界と太陽より遥かに優しい月明りを使って本を読んでいた。単純に、それだけ。

「自分の時間を潰しているだけ。全部、手慰みに過ぎないよ」

 眠れない彼に声を掛けた訳でも、手を差し伸べた訳でもないのだ。共同で暇を潰した訳でもない。手慰みなんて、所詮言い訳だ。分かっている。でも、ずっと止められない。
 眠りが必要なのに眠れない人へと向ける言葉を、持っていなかった。その苦痛が、よく分からなかった。何時だって、動機なんてものは単純で、消極的だ。
 それを善とするのは、余りにも。

「でも」

 やわく、鋭利な逆接で、沈黙は裂かれた。声の方へと顔ごと向き直す勇気はなくて、おずおずとした子供みたいに瞳だけ動かした。
 マコトはわたしを見たまま、続ける。

「それでも、何もしてなくたって、良いんだよ。オレは確かに、楽になったんだ。勝手な話だが」

 彼は組んだ腕を下ろして、小さく首を横に揺すった。
 それが、わたしには、よく分からなかった。最善を尽くした訳ではない。でも、マコトの言い分を否定する材料も手元になくて、何と言っても、マコトの感情はマコトのもので。それを、勝手になんて言葉を付与されては尚更、崩す手がかりが見つけられなかったから。
 口を噤むことしかできないわたしに、彼はまだ続ける。

「良かった。お前が本読んでる所、また見られて」

 マコトは無邪気にそう言いのけて、笑った。まるで、子供みたいに。外から聞こえる声よりは、ずっとおとなしかったけれど、同じくらい無邪気で。
 わたしに向けられるには、余りにも。

「……物好きだね~」

 これ以上の言葉は喉につっかえて、腹の中で溶かして、漠然とガラス越しの空を見る。
 冴えるような青色が何にも遮られることなく、レース越しに差し込んで、賑やかな音が部屋の中を満たす様に飛び込んでくる。
 実に平穏な午後だった。万年、漫然と、眺めて聞いた通りに。
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