誕生日短編

茶話会回想

 シオンの部屋を訪れると、彼女は電気ケトルを右手に立っていた。翡翠のような瞳は宿の備え付けの小さいテーブルの上のカップに落ち、そこからは細い紐が出ている。そして、傾けたケトルで湯を注いだ。
 カップから、そしてケトルの注ぎ口から湯気が立つ。

「邪魔をしただろうか」

 彼女に尋ねながら、柄にもなく本を抱えているおれは、ドアを閉める。内心で、至極つまらない建前を設えていた。

「本を返しに来ただけなのだが」

 ラッチがかちゃ、と押されてから戻る音に合わせたように、シオンはゆっくりと顔を上げた。

「お〜、カキじゃん。大丈夫、丁度休憩する所」
「ならば良かった。作業を中断させては忍びないから」

 テーブルの方へ歩き、日焼けした箱に入れた童話集をシオンに差し出す。彼女は右手に持ったままのケトルを一瞬降ろす素振りを見せた。が、ちょっと首を傾げ、結局右手はそのままに左手を伸ばして受け取った。

「律儀。気にしなくても良いのに」

 そう言って、彼女は微かに眉を下げ、微笑んだ。惹かれてやまないとは言え、見つめすぎても不躾だそうから、彼女の手に戻った本に視線をやる。
 やや表面が破けた箱はゆっくりとカップの隣に置かれる。
 視界の映ったカップの水面には紅色が滲んでいた。紅茶を淹れていたらしい。
 あっとシオンが短く声をあげる。顔を向け直すと、彼女はケトルをちょっと持ち上げる仕草をした。

「丁度お湯余ってるし、カキのも淹れよっか? せっかくだし。やっすいティーバッグだけど」
「良いのか」

 なら是非、と続けようと開いた口は、「あれ?」と首を傾げる彼女によって、別の言葉を持ち出していた。

「どうした?」
「……そういえば、カキは紅茶苦手だったよね?」

 気まずそうに逸れた瞳を辿って、そういうことか、と腑に落ちる。

「コーヒーもあった筈だよ。ソウが無駄に飲むから」
「構わない。風味や風情を解していないというだけだ」
「いや、無理して合わせなくても」

 その先を言い淀んだシオンは、困ったようにこちらを見下ろす。視線が合ったかと思えば、ちらちらと様子を伺うように揺れて、微かにこちらと重なり切らない。
 何かしら理由があるはずだった。首を傾げ、気にする理由を考えてから、思い当たる節を漸く思い出した。
 これも大それた理由ではなかった。
 僅かにでも視線を掠める瞬間を狙って、付け加える。

「寧ろ、紅茶が良い。貴女と同じものを飲んで、少しでも貴女と同じ時間を共にしたいから」
「……そこまで言うなら」

 彼女は頭を掻いて、微妙な間を隠すように微笑んだ。
 同時に、カタリと軽い音と共に、どこからともなくテーブルにカップが現れる。おれには縁遠い魔術で戸棚から彼女が呼び出したのだろう。ティーバッグの紐も出ている。器用な事だ。
 彼女が湯を注いでいる内に、壁に小さい鏡が貼られたデスクから椅子を引く時、並んだ本の背表紙が視界に引っかかって、そして離した。
 小さいテーブルの方に椅子を置き、腰掛ける。
 蒸らす間の声もない数分の間。
 湯気の立つカップを眺めて、ほんの僅かに鼻先を掠める匂いに、懐かしさを覚えた。
 視界の端、鳶色が光った。正しく錯覚であった。
 瞬き一つ、顔を上げれば、シオンが先に入れていたティーバッグの紐を摘み上げていた。そして銀色の小さなトレーに移される。
 瞼を下ろした一瞬と共に消えた色の残像が、彼女の顔に重なる様にそこにあったから眺めていたら、ふと翡翠色が持ち上がった。
 補色と言うのだったか、と思い付きが横切った。そこに在る色と無い色を見比べて、見つめている。
 それから、誰かと茶を共にしない日を重ねて年が過ぎていた、と瞬いた。

 ***

 父から呼び出され、話が終わって廊下に出ると、午後の陽光がやけに柔らかく窓から差し込んでいた。うっかり微睡む錯覚を覚えた。
 これは正しく錯覚である。
 この遺址の国の太陽は、額まで伝わる脈動すら抉り出す程に鋭利なのだから。
 袖から裾まで重たい上着を着なくては少し肌寒い室温も、壁には鈍い金色の燭台が並べど薄暗いのも、一つの錯覚だった。
 この国にはそぐわないと、重々承知していた。
 赤いのか黒いのか判別のつかないカーペットを蹴り、当て所なく廊下を進む。自室で分解、復元する機械も丁度なくなり、取り敢えず水でも飲もうかと動く。
 階段を降りる。一階の玄関広間を見下ろし、一段一段近づいていく。手をかけた手すりも装飾が細やかで、何らかの植物を模していた。ぶら下がったガラスのシャンデリアは自らの光を反射し続けて、過剰に煌々と輝きを増幅し続ける。中の光がガラスを破って出ていく日は未だ来ないようだった。
 この屋敷はどこに行っても魔術の国の様式で出来ている。外観は周囲と変わらないが、扉一枚が開けばこれだ。屋敷自体に大掛かりな魔術の発火剤を埋め込んでいるから内側の環境はどうにでもなるらしい。空気中のエーテルの反応が云々とおれには縁遠い話があるようだ。
 これを、全てがねじ曲がったようだと評したのは、ここの主たる父だったか。爵位も形骸化した頃の先祖の意向だと眉間に深い皺を刻んで呟いていた記憶が過る。
 広間を通り抜けるとき、壁に沿って立つ振り子時計と針が目に入って、キッチンではなくダイニングに向かった。
 やや錆びたノブを回して押す。
 電気はついていない。広間と同じだけ薄暗く埃が微かに舞っている中、いの一番に鳶色の天鵞絨が飛び込んだ。それから真っ白なティーポットに留まって、傾けられたそれから水を注ぐような音が鮮明に聞こえる。

「フィデル」

 敬愛するその名を呼べば、兄はせせらぎを止めて、柔らかくうねった榛色の髪を揺らして顔を上げた。
 そして、僅かに真っ黒な瞳を細くする。

「カキ。お前が自分からこんな所に来るなんて珍しいね」

 耳触りの良い穏やかな声だった。おれが愛するものの一つだった。微かに上向いた勢いの通りに答える。

「ああ。水でもと思ったが時計を見て、もしかしたらと思った」
「そう」
「カンデラは」
「夫人……ラタニア夫人が呼びつけていたから来られないと思うよ」

 そう言いながら、フィデルは背後のワゴンから一客のティーカップをテーブルに、ちょうど湯気が立つカップとは真向かいの席に置いた。
 兄は何時も断りなくダイニングへの来客にカップを差し出す。つまり、そこがおれの席なのだろう。
 敷居を跨いで、ドアは閉じ、用意された席に着く。

「……父さんは殆どの人間に暇を出したのに、夫人は多いままだと呼び方に困るね。本当に」

 フィデルはそんな事を呟いて、ポットからおれの分の紅茶を注ぐ。注ぎ口から紅い柱が流れて、大味な表現しかできないが、紅茶らしい香りが鼻孔を擽る。

「名前しか違わないからか」
「そう。名前で呼ぶのはどうにも……不躾な気がしてしまうね、未だに」
「そうか。律儀だ」

 カップは満たされ、ティーポットはテーブルに置かれる。残った茶がポットの中でたぷりと揺らめく音がした。
 兄は自分の、恐らく飲みさしのカップとソーサーを摘み上げた折、眉を下げて微かに口角を持ち上げた。

「皆が皆、お前みたいに例外に適応できる訳ではないからね」
「む。おれは単に無頓着なだけだ」
「どうでも良い事だから?」
「そうなる」

 頷いてから、おれもカップを取り上げ、口を付ける。微かな渋みを拾う。
 熱を喉に通すと、兄はおれを見下ろしてうっそりと呟いた。普段の柔和な笑みもなく、真顔だった。

「お前は差し出されたものを良く飲むね。紅茶、好きでもないのに」
「貴方の好きなものを一緒に飲めるこの時間は愛しているから」
「……明け透けな事、言って。跡継ぎ争い中なのに。お前は一番父さんに気に入られているんだから、毒でも入っていたらどうするの」
「どうでも良いと思う」

 また一口呷って、ソーサーにカップを置くと、水面は縁を掠めて、宙を舞っていた僅かな塵を巻き込みながら揺らめいた。

「おれが何で死んでもどうでも良い事だろう。死には変わりがない」

 もう一口、今度は先程より多めにカップの半分ほどまで飲み干せば、兄は黒い瞳をしばたたかせ、それから微かに逸らす。

「どうでも良い。どうでも良い、か」

 言葉を繰り返しながら、兄は後ろのワゴンに手を付いた。車輪にストッパーを掛けているのだろう。ワゴンは止まったまま動く気配もない。そこに躊躇う様子もなく体重を預けるから、軋んだ金属音が耳を刺す。

「では、もし仮に俺が盛っていたら?」
「勝手にすれば良い」
「……お前は何時もそれだね。自己保存も何もない」
「誰が何をしようと勝手だろう」

 それだけの事だ、と紅い水面に声を落とす。微かに揺れたそれを飲み干して、空になった一客をテーブルに置く。
 間に沈黙が流れる。フィデルを見上げる。カップを摘み上げたまま、しかしそれを口に運ぶ様子もない。そして徐に足を動かしたとき、カツと金属を叩く音が響いた。靴の踵とワゴンがぶつかったのだろう。
 その軽い音で兄は眠りから醒める様に上瞼を持ち上げて、それから浅く途切れた息を吐いた。

「ねえ。カキ」

 至極柔らかに名前を呼ばれて、軽やかに跳ねる鼓動と共に瞬く。

「じゃあ、父さんの思惑と、その通りに潰し合う俺達兄弟も、結局……最後に残った所で、約束された」

 約束された、と再び声を震わせて、瞳孔の位置も定まらずにフィデルは最後に目を瞑った。それから深呼吸一つ、瞼を上げれば動いて揺れる様は消え、鋭利に真っ直ぐおれに向かっていた。

「全てが約束された俺達の誰かにも勝手にしろって、言うんだろうね。お前は。相も変わらず」

 その先、続きを躊躇うように口を結んだり開いたりして、そうして兄は結局言葉を投げた。

「その先は、どうしようもない末路だけあるのに。誰にも栄光はないのに」

 忌むべき言葉を吐いた憤りか、フィデルは眉間に力を込める。

「ああ。全員勝手にすれば良い。誰もかも」

 家の破壊を目論む父も、病棟で青春の再演をする母も、熱を上げて陰謀を巡らす夫人達も好きにすれば良い。凡そそうする他なく、本質的に誰も関係がないのだから。
 脳裏で家族の顔を浮かべながら答えれば、フィデルは軽く息を吐く。

「一番争いから自由なままのお前が言う事には説得力があるね。まるで……まるで部外者みたいに冷静だ」

 そう言って、兄は眉間の皺に指先だけ軽く触れた。深呼吸に満たない程、それでも努めて深く息を吸っている。

「兄弟への愛を宣う割に随分な放任主義だね」

 柔らかな声は軽やかなまま、黒一色の瞳を僅かに左右に往復させる。切り替える様に紅茶を一口、二口、優美というのであろうスムーズな所作を保ちながら飲み込む。喉が上下してから、言葉が出た。

「この先に破滅があると知っているのに」

 破滅。それを吐き出した兄の口の端が微かに引き攣っていた。
 父の意向通りの末路、あるいは血縁を呪った当代が齎す破滅。
 これは父と子の間の暗黙の了解だった。兄達も妹も弟も、全員理解している。おれ達兄弟は、何時、どのように設えられた舞台を降りていくかだけが問題だった。
 しかし暗黙であるが故に、そして母はただ興味がないが故に、この家の夫人達ばかりがこの同意を知らなかった。何も知らない夫人達は子を巻き込んでは陰謀を巡らせ続け、この狂言じみた争いは夫人達の代理戦争として伝えられているらしい。事実、派閥を作り、身内に手を掛け始めている。血も既に流れた。最早狂言ではないのだろうが、何でも良いだろう。遅かれ早かれ、行き着く先は一つ。

「それでも全員好きにするしかない。相手の選択は相手のもので、おれや夫人達も無関係だ。続けるか降りるか、やりたい様にやれば良いと思っている」

 それに、と言葉を継ぐ。

「何を選んでも、おれが貴方方を愛している事には関係がない」

 口を閉じれば、対面の兄の黒い目の震えは止まり、一転まっすぐにおれを見下ろす。瞳孔が微かに開いている気がした。そして僅かに、ほんの数度だけ首を傾げる。緩慢に上瞼を下げて、口角を柔らかく吊り上げる。

「博愛だね。相変わらず」

 そしてフィデルは息を吐く。その荒れた吐息が一度だけ耳に入ったが、他でもないフィデル自身が覆い隠す様に咳払いをして、それきり静かになった。
 兄はワゴンから静かに身体を離す。微かな金属音が良く響く。

「……呉越同舟、一蓮托生。俺達兄弟は皆、きっとこうだからね」

 そうして丁寧に整えられた微笑を湛えてささめいた。光の前に流れた榛色が一等明るく輝く。鳶色の外套もてらてらと光を絡めて、穏やかで柔らかな午後の陽光の様、と妹が形容した態度そのものだった。
 反面、微かに震えた指先も、合わせて跳ね落ちた雫一滴にも気が付いていた。白いテーブルクロスに一点、染みが広がる。
 見上げた先の黒い瞳は澱んでいる。
 その感情を何と呼ぶか。明らかにおれに向けられたその名前を知っていた。
 だが、どうでも良い事だった。

「愛する貴方方と共にできるなら本望だ」

 再び口を開けば、フィデルは視線を瞼で切り落とし、紅茶をゆっくりと飲み干した。

「本当に。明け透けな事しか言わないよね」

 カップから口を離して落ちた柔らかな声の切れ目は変わらず鋭利だった。

 ***

 翡翠色の瞳がぴたりと止まる。

「どうしたの?」

 シオンが首を傾げる。耳に掛けていた黒い髪が数束さらりと落ちていった。背後の窓の確かで、それでも柔らかな陽光が絡まり、時折金色に染まる。

「いや、兄の事を思い出していた」
「そっか。……ああ、お茶、良い感じじゃないかな」

 彼女はそれ以上続けずに、おれに差し出したカップのティーバッグを揺する。底に澱んだ色が均一に広がった。
 引き上げられた袋から雫が滴って、銀のトレーに落ちていく。

「ん、どうぞ」
「有難う」

 湯気が薄く立つカップを摘み上げて、一口飲み込む。相も変わらず大味な香りと微かな渋みだけを拾う。結局紅茶の風情は分かりそうもなかったが、それでも。

「幸運だ。ただでさえ愛しい時間に貴女が淹れてくれたものを飲めるから」
「……そんなはきはきした事、言っちゃって!」

 シオンはころころと鈴の様な声を転がして、目を細めて微笑んだ。
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