短編集
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「トビ、好きよ。大好き」
漆黒に包まれた彼の背中に飛びついて抱きしめれば、ボクも好きですよと柔らかく温かい声が降ってくる。彼の声と心地よい体温を幸せに感じていれば、顔が見たいと言われ、その身から離れて抱きつき直した。トビの胸板に顔を埋めてその匂いに包まれると、とても安心する。好きな人の体温、匂い、逞しい腕、耳をくすぐる声、五感全てで彼を想う。これほどに幸せなことはあるまい。今、私はただ一人の女として幸せをこの一身で受け止めている。彼の想いを受け入れ、私の想いを差し出す。
ずっと一人で生きてきて、これからも一人で生きていくはずだった。トビとの出会いが私の全てを変えた。『私』という固くつまらない人間をここまで腑抜けにした彼は罪深く、それでいて愛おしいかけがえのない存在。もう私はトビがいなければ息をする事すら忘れてしまうだろう。それくらい彼は私の奥深くに根づいて離れないのだから。
幼い時に両親を亡くした私は、親戚の家を転々と回って育った。小さいながらも自分という異質な存在が彼らにとって邪魔であるのは家の敷地を跨いだ瞬間から分かっていた。けれども、出ていこうとは思わなかった。いや、出ていけないと言った方が正しい。一人で生きていく為の知識も、お金も、覚悟も何も持っていない私。疎まれようとも罵倒されようともひっそりと息を殺し、自分は何度も空気であると思い、彼らの怒りに、視界に入らないように心がけて生きてきた。
そんな生活を営んできたせいで、人の言動や顔色、気持ちに敏感になっていた。自分の身を守る為にどうしても必要だったのだ。それに自分を守れるのは自分でしかない、信じられるのも自分だけだった。一つ救いだったのは、学校に通わせてもらえたことだ。世間体を気にした親戚が渋々ながらも金を払って通わせてくれた学校。此処で私は自分の生きる道を勝ち取る為に様々な知識を得た。
学校を卒業してすぐに親戚の家を出ると口にした。元々、歓迎されて住んでいなかったので、自立すると告げた時の彼らは誰一人として悲愴を浮かべていなかった。むしろやっと居なくなるのかと重い荷が下りたと息をつき、安堵や喜々を浮かべていた。お世話になりましたと深く頭を下げて、背を向ける。もう二度と戻りはしない。私は一人だ。
家を出てすぐに住み込みで働ける飲み屋へと足を向けた。此処は在学中に見つけ、時間がある時に通いつめ、店主に何度も頭を下げて取り得た就職先だ。始めは難色を示していた店主も私の切実かつ切羽詰まった態度を見て同情してくれたのか、最後にはとても真摯に対応してくれ、何かあったら力になるとも言ってくれた。同情を誘うのは効率的に進めるのにとても効果がある。自分より下の立場の人間を目にした時に、自分はこんな状況ではなくて良かったと安心し、またかわいそうだから手を貸そうと考えを改めてくれるのだ。だからと言って甘えきるつもりはない、私みたいな厄介者を雇ってくれた店主には感謝しても感謝しきれない。彼の恩に報いる為に私は精一杯働こうと決めた。
働くのは思っていた以上に大変だった。注文は間違えるし、酔った客に絡まれるし、時には怒られもした。不甲斐ない自分に涙した日もあった。辞めたいと思うことも何度もあったが、そんな時は店主の顔を思い浮かべれば弱音を吐いている場合じゃないと叱咤出来た。
仕事にも慣れ、ミスも減り始めた頃、店主によくやっていると褒められ、初めてのお給金を手渡された。両手に乗った白い封筒、対価にもらったお金にいたく感動した。私という下らない人間でも誰かの力になれる――。初めて得た社会的肯定感に胸がじんわりと熱くなり、しゃくり上げ声を押し殺せずに涙した。私はこの瞬間を絶対に忘れない、私という一人が人間として認められたこの瞬間を。
それからの私といえば、働くことがとても楽しくなっていた。店主の力になれるのがとても嬉しく、今まで恐怖の対象でしかなかった人との関わり合いも進んで行っていた。人の悩みとは様々で、仕事の進捗具合や家庭環境なんか重たいものもあれば、明日の献立や嫁さんが可愛いなんて軽く幸せなものもあった。特に私はこの幸せな悩みに耳を傾けるのが好きだった。彼らの幸せの一端に触れることで、私も同じ気持ちを味わえるからだ。もしも自分が奥さんの立場だったら……なんて有り得もしない仮定を考えるだけで胸にぽかぽかとした春の陽気が訪れる。春が訪れれば、幸福の熱が私の凍てついた心を包みゆっくりと溶かしていった。だが人間とはとても欲深い生き物で、いつしか彼らの幸せに妬みを持つようになった。春の陽気は段々と薄暗い水の底、更に淀みと呼ばれる部分にぐちゃぐちゃと浸食され始めていた。あんなにせがんで聞いていた幸福は、今や単語を耳にしただけで悲鳴を上げて遮りたくなるくらいに拒絶反応を示すようになった。
それをきっかけに働くことがつらくなった。生きる為に必要だと頭では分かっていても、心が着いていけない。私も彼らのように、誰かにとびきり愛されたい。誰かの一番でありたい。そう深く強く願うようになった。
強い愛情に飢えている時に私はトビと名乗る青年と出会った。パッと見は素顔が分からなく、言動も飄々としていてとても怪しい。それでも表現豊かな彼の話題はいつだって面白かった。トビは自身の先輩である芸術家の話をよく口にした。トビの先輩は散っていく姿に芸術を見出しているらしい。その儚く朽ちていく様にとても感銘を受け、自分の芸術品として形にしたいのだとか。しかし、散っていく様をどうやって表現するのか気になった。トビに先輩の芸術品はどういったものなのかと疑問を唱えれば、急にケラケラと腹を抱えて笑い出す。そんなにおかしな質問だっただろうかと眉をひそめながらトビの名を呼べば、ひっくり返った声のまま「すみません」と息を切らしつつ謝罪した。
「せっ、先輩の芸術品はっ、爆弾なんですよ」
「爆弾?」
「そう爆弾。儚いとは正反対ですよね~?」
実際、爆発するとものすごーく派手で、儚いとは程遠いんですよ。そう言った後、先輩の芸術を思い出したのか、ぶっと噴き出してまた身を捩らせ大声で笑い出す。その様子を視界に収めて、トビの言う芸術とやらを想像する。確かに儚いと爆発のイメージはどう考えてもイコールに結びつけるのは難しい。だからと言ってここまで笑えるものだろうか。未だ腹を抱えて転げまわるトビを横目にその先輩の芸術に対して理解したような、より謎が深まったような、何とも煮え切らないもやもやだけが凝り固まった岩のようにずっしりと残った。
トビとの逢瀬を重ねるごとに私の心に変化が訪れていた。初めは怪しい面白い人だとしか思っていなかったが、段々と彼の横に居心地の良さを覚えてきていたのだ。少し話すと楽しい、多く話せれば嬉しい、今は話せないと寂しい、トビを考えると胸が痛い。掻き毟りたくなるような鋭く継続する痛みに自分の知らないところで大病でも患ったのかと頭を抱える。だが、何度考えても思い当たる節はない。いよいよどうしたものかと悩む私に声をかけてきたのは私を人間として扱ってくれている店主だった。悩み事かい? と優しく尋ねてきた彼に最近ずっと胸が痛いと素直に症状を告げる。トビくんのことを考えると痛くなるんだろうと確信して言いきった彼に心を見透かされたのかとびっくりして心臓が悲鳴を上げた。
「なんでわかったんですか?」
「それは君のトビくんを見る目が恋するものだからだよ」
「恋?」
「そう。その人のことを想うと胸が張り裂けるように痛んだり、逆にとても幸せだったりね。思い当たるだろう?」
店主の言葉がストンと私の中に落ちる。――そうか私はトビのことを特別視していたのか。このずっと心を掻き乱す幸せのような地獄の吹き溜まりは私の恋の始まりであると同時に、劣情を生み出した瞬間でもあった。
気持ちに気付いてから全てをさらけ出すようになった。トビに会えば素直に嬉しいと喜びを全身で表現したし、帰る時には必ず次の約束を取りつけた。突然積極的になった私にトビは狼狽えているように見えたが、それもつかの間でボクも青子ちゃんと一緒にいる時間はとても楽しいですよと返してくれるようになった。トビの言葉一つで一喜一憂する単純な私を傍から見たら滑稽にしか映らないだろう。好きな人に左右される、まるで舞台上で喜劇を演じるピエロな私を愚かだと指差してバカにしたくもなるはずだ。それでも愛情に飢え続けていた私にとって、トビから与えられるほんの少しの好意がとてつもなく甘美で魅力的な麻薬であり、二度と手放したくないと覚えてしまうには仕方のないことだった。
トビにアプローチを続けた結果、私はようやっとトビの横にいることを許された。世間的に言う恋人同士にやっとなれた。これで私はトビからの愛情を一身に受けられる、また私の醜く淀んだ愛情を余すこと無く彼にぶつけることが出来る。昔、せがんで話してもらった、焦がれに焦がれた幸福を私も手に入れることが出来た。その満足感が心を支配すると私の飢え続けていた愛情が落ち着いていくのを感じた。
トビに一つだけ注意を受ける。自分は忍であるからどうして会えない時間が出てしまうと。頭では致し方ないと理解出来ても、どうしても心が納得出来なかった。私が好きならばどうにかして時間を作れないものだろうかと自分勝手な要求をしてトビを困らせる。こればかりはどうにもならないと首を振る彼に、ならばと条件を突きつけた。
「トビと一緒に暮らしたい。……ダメ?」
「……分かったよ、青子ちゃん」
悩み抜いてもらった返答に顔が緩んで、ボロボロと涙も溢れる。歓喜を上げて彼に抱きついてありがとうと口にすれば、青子ちゃんと一緒に居たいのはボクも同じですよといつもよりも恥ずかしそうな声が耳に入る。これで私とトビはずっと一緒に居られる、ずっとずっと幸せを二人で作っていける。間違いなく私は世界で一番幸せだ。
トビと一緒に暮らすと決めてすぐに行動を起こした。店主に経緯を説明すると、幸せになるんだよと涙ぐみながら告げられる。もちろんと二人で返し、私は長くお世話になった飲み屋に背を向けた。
トビに連れてこられたのは薄暗い洞窟だった。土臭く淀んだ空気が詰める空間に顔を歪めて不快感を露にすれば、全てを察したトビがごめんねと呟いた。特殊な任務を受け持っているから身を隠す必要があるんですと申し訳なく溢す彼に込み上げる文句を飲み込むしかない。その任務さえ終われば此処から離れられるの?と聞けばもちろんと返ってくる。
「それまでは、ちゃんと我慢するから」
「青子ちゃん、窮屈な思いをさせてごめんね」
頬を撫でるトビの手に自分の手を重ねる。彼の少し低めの体温を堪能しながら大丈夫、トビがいるからと返せばありがとうの言葉と熱い抱擁が私を包み込んだ。今がツラくともこの先には絶対の幸せがある。その未来が手に入るのであれば私はいくらでも我慢が出来るのだ。
生活に必要なものは全てトビが用意してくれるから、私は掃除や洗濯といった家事全般を受け持った。どんなに忙しくてもトビは絶対に帰ってきてくれる。寝ていて構わないと困ったように言う彼に私が起きていたいのだと気持ちを伝えれば、可愛いと甘い声で褒めてくれた。ただ、ムリはしないでくれと話す彼に心配性だと笑って返せば当たり前だと返ってくる。
「あぁ、青子ちゃん。一つ伝えたい事があるんです」
「何?」
「ボクの部屋は刃物があって危ないから入っちゃダメッスよ」
「うん、わかった」
約束だと子供のようにはしゃぐ彼の小指に私の小指を絡めて約束の歌を紡ぐ。私がトビの言いつけを破るはずがないというのになんて可愛らしい。約束だと再び口にしたトビに私は大きく頷き返した。
トビが任務だと言って飛び出していったのは早朝だった。私の一日はトビを見送ってから自分の食事を済ませ、彼から渡された洗濯物を洗うことから始まる。トビの真っ黒な忍装束が入ったカゴを抱えて外に行こうと早足で歩いていると何かの音が耳を掠めた。突如聞こえた謎の音に背筋が凍り、変なものだったらどうしようかと恐怖に煽られた心臓がドクリドクリと大きく鼓動する。動きを止めて音の鳴る方を探ると、一枚の扉から「うぅ」という音が鳴り響く。抱えたカゴを下ろし、抜き足で扉に近づきそっと耳を当てれば今度ははっきりと「うぅ」という地響きのような音が聞こえる。間違いない、此処に何か居る。そう確信し、ゆっくりとドアノブを回した
どうやら鍵はかかっておらず、すんなりと開く扉。軋む蝶番の音が響くと先程まで聞こえていた地響きはピタリと止んだ。
「誰かいるの?!」
真っ暗な空間に向かって声を張り上げると再び音がする。音のする方へ足を進めるとそこには自分と年の変わらない女の人が身動きを取れないように縄で結ばれていた。口元は猿ぐつわを噛まされている。先程まで鳴っていた地響きは彼女のうめき声だったのだと瞬時に理解した。涙を浮かべて此方を見つめる女性。何故、此処に女性が閉じ込められているのだろうか……疑問は尽きないが彼女をこのままにしとくわけにはいかない。口に結ばれた猿ぐつわを解くと、奥と掠れた声が彼女から漏れる。彼女に言われた通り、彼女の奥へと視線を向ければもう二人の女性が同じように転がっていた。
「どうして……」
「あーあ、ボクの部屋に入っちゃったんですね」
茫然としながら疑問を口にすれば、後ろから聞き馴染んだ愛しい声が聞こえた。勢いよく振り返れば朝見送ったはずのトビが腰に両手を当てて、何で入っちゃったのかなぁと呆れた声を発している。
「ねぇ、トビ。この人達は一体何なの?」
「知りたいんですか? 知って良いことないですけど?」
「トビの任務に関係する人なの?」
「イヤだなぁ、そうやって詮索するの……長生きしたいなら余計なことは口にしない方がいい」
いつもの飄々とした雰囲気が消え去ると口調が重苦しいものに変わる。いつものトビではない、私の知らないトビに背中に大きな震えが走る。こんな冷たい人なんて私知らないと小さく漏らせば何を言っているんだとオレンジ色の仮面を外して、目の前のトビがせせら笑った。
「お前が愛した男はオレだろう?」
「ちっ、違う、私はトビが好き……っ、優しいトビが好きなの……!」
「優しいオレか……オレも愛しいのはお前の顔だけだから同じだな」
「え……?」
私の顔が好きとは一体どういうこと? 私自身を愛してくれたのではないの? 突如告げられた思いもよらぬ台詞に言葉を失う。よろめく足で彼に縋りどういうことか説明して、と悲鳴を上げればそっと輪郭にいつもの冷たい手が添えられた。
「言葉通りだ。オレはお前の顔が好きだ……リンに似たその顔が」
「リン? 誰よ、その人」
知らない名前に疑問を浮かべればトビは奥にいる女性に向かって指を向けた。彼の指先に視線を向けると上から低音が降ってくる。
「あの女は脚だ、あっちは腕、そっちの女の胴体はリンと同じなんだ」
「トビ……?」
「そして、顔は青子」
やっと揃ったと喜びを露にするトビ。狂ったように笑う彼にかける言葉が見当たらない。私達四人はトビの言う『リン』という女性にそっくりらしい。だから一体なんだと言うのか。
「バレたなら仕方ない。今日決行する……少々早まるだけだからな」
「トビ、何を言ってっ」
「オレだけの『リン』になってくれ」
そう禍々しく笑ったトビの歪んだ表情を捉えた瞬間、私の意識は強烈な痛みと共に途絶えた。『リン』と呟いた声が耳にねっとりと貼りつく。――あぁ、私は愛されていると思っていたが、真実は彼の手のひらの上で踊らされているに過ぎなかった。私は『リン』を超えることが出来ない、かわいそうな女のままだった。
狭い空間を占める強い鉄の香りに包まれた一人の男がバラバラになったパーツを一つずつ傷がつかぬよう拾い上げる。胴体を軸に腕と脚と首を繋ぎ合わせてそっと抱きしめた。
「リン、会いたかった……お前の居ない世界にオレの居場所はない」
血に塗れた、まだ生暖かさの残る継ぎはぎの『人間』に唇を寄せ、涙を流す。やっと会えた、好きなんだと愛を溢す過去に縛られた滑稽な男。欲に溺れたこの男の無様を知るのは無残な四つの人だったモノだけだ。
復活を遂げた赤い『リン』と共に姿を消す。誰も居ない二人だけの空間で告げられなかった過去をやり直す為に……。
漆黒に包まれた彼の背中に飛びついて抱きしめれば、ボクも好きですよと柔らかく温かい声が降ってくる。彼の声と心地よい体温を幸せに感じていれば、顔が見たいと言われ、その身から離れて抱きつき直した。トビの胸板に顔を埋めてその匂いに包まれると、とても安心する。好きな人の体温、匂い、逞しい腕、耳をくすぐる声、五感全てで彼を想う。これほどに幸せなことはあるまい。今、私はただ一人の女として幸せをこの一身で受け止めている。彼の想いを受け入れ、私の想いを差し出す。
ずっと一人で生きてきて、これからも一人で生きていくはずだった。トビとの出会いが私の全てを変えた。『私』という固くつまらない人間をここまで腑抜けにした彼は罪深く、それでいて愛おしいかけがえのない存在。もう私はトビがいなければ息をする事すら忘れてしまうだろう。それくらい彼は私の奥深くに根づいて離れないのだから。
幼い時に両親を亡くした私は、親戚の家を転々と回って育った。小さいながらも自分という異質な存在が彼らにとって邪魔であるのは家の敷地を跨いだ瞬間から分かっていた。けれども、出ていこうとは思わなかった。いや、出ていけないと言った方が正しい。一人で生きていく為の知識も、お金も、覚悟も何も持っていない私。疎まれようとも罵倒されようともひっそりと息を殺し、自分は何度も空気であると思い、彼らの怒りに、視界に入らないように心がけて生きてきた。
そんな生活を営んできたせいで、人の言動や顔色、気持ちに敏感になっていた。自分の身を守る為にどうしても必要だったのだ。それに自分を守れるのは自分でしかない、信じられるのも自分だけだった。一つ救いだったのは、学校に通わせてもらえたことだ。世間体を気にした親戚が渋々ながらも金を払って通わせてくれた学校。此処で私は自分の生きる道を勝ち取る為に様々な知識を得た。
学校を卒業してすぐに親戚の家を出ると口にした。元々、歓迎されて住んでいなかったので、自立すると告げた時の彼らは誰一人として悲愴を浮かべていなかった。むしろやっと居なくなるのかと重い荷が下りたと息をつき、安堵や喜々を浮かべていた。お世話になりましたと深く頭を下げて、背を向ける。もう二度と戻りはしない。私は一人だ。
家を出てすぐに住み込みで働ける飲み屋へと足を向けた。此処は在学中に見つけ、時間がある時に通いつめ、店主に何度も頭を下げて取り得た就職先だ。始めは難色を示していた店主も私の切実かつ切羽詰まった態度を見て同情してくれたのか、最後にはとても真摯に対応してくれ、何かあったら力になるとも言ってくれた。同情を誘うのは効率的に進めるのにとても効果がある。自分より下の立場の人間を目にした時に、自分はこんな状況ではなくて良かったと安心し、またかわいそうだから手を貸そうと考えを改めてくれるのだ。だからと言って甘えきるつもりはない、私みたいな厄介者を雇ってくれた店主には感謝しても感謝しきれない。彼の恩に報いる為に私は精一杯働こうと決めた。
働くのは思っていた以上に大変だった。注文は間違えるし、酔った客に絡まれるし、時には怒られもした。不甲斐ない自分に涙した日もあった。辞めたいと思うことも何度もあったが、そんな時は店主の顔を思い浮かべれば弱音を吐いている場合じゃないと叱咤出来た。
仕事にも慣れ、ミスも減り始めた頃、店主によくやっていると褒められ、初めてのお給金を手渡された。両手に乗った白い封筒、対価にもらったお金にいたく感動した。私という下らない人間でも誰かの力になれる――。初めて得た社会的肯定感に胸がじんわりと熱くなり、しゃくり上げ声を押し殺せずに涙した。私はこの瞬間を絶対に忘れない、私という一人が人間として認められたこの瞬間を。
それからの私といえば、働くことがとても楽しくなっていた。店主の力になれるのがとても嬉しく、今まで恐怖の対象でしかなかった人との関わり合いも進んで行っていた。人の悩みとは様々で、仕事の進捗具合や家庭環境なんか重たいものもあれば、明日の献立や嫁さんが可愛いなんて軽く幸せなものもあった。特に私はこの幸せな悩みに耳を傾けるのが好きだった。彼らの幸せの一端に触れることで、私も同じ気持ちを味わえるからだ。もしも自分が奥さんの立場だったら……なんて有り得もしない仮定を考えるだけで胸にぽかぽかとした春の陽気が訪れる。春が訪れれば、幸福の熱が私の凍てついた心を包みゆっくりと溶かしていった。だが人間とはとても欲深い生き物で、いつしか彼らの幸せに妬みを持つようになった。春の陽気は段々と薄暗い水の底、更に淀みと呼ばれる部分にぐちゃぐちゃと浸食され始めていた。あんなにせがんで聞いていた幸福は、今や単語を耳にしただけで悲鳴を上げて遮りたくなるくらいに拒絶反応を示すようになった。
それをきっかけに働くことがつらくなった。生きる為に必要だと頭では分かっていても、心が着いていけない。私も彼らのように、誰かにとびきり愛されたい。誰かの一番でありたい。そう深く強く願うようになった。
強い愛情に飢えている時に私はトビと名乗る青年と出会った。パッと見は素顔が分からなく、言動も飄々としていてとても怪しい。それでも表現豊かな彼の話題はいつだって面白かった。トビは自身の先輩である芸術家の話をよく口にした。トビの先輩は散っていく姿に芸術を見出しているらしい。その儚く朽ちていく様にとても感銘を受け、自分の芸術品として形にしたいのだとか。しかし、散っていく様をどうやって表現するのか気になった。トビに先輩の芸術品はどういったものなのかと疑問を唱えれば、急にケラケラと腹を抱えて笑い出す。そんなにおかしな質問だっただろうかと眉をひそめながらトビの名を呼べば、ひっくり返った声のまま「すみません」と息を切らしつつ謝罪した。
「せっ、先輩の芸術品はっ、爆弾なんですよ」
「爆弾?」
「そう爆弾。儚いとは正反対ですよね~?」
実際、爆発するとものすごーく派手で、儚いとは程遠いんですよ。そう言った後、先輩の芸術を思い出したのか、ぶっと噴き出してまた身を捩らせ大声で笑い出す。その様子を視界に収めて、トビの言う芸術とやらを想像する。確かに儚いと爆発のイメージはどう考えてもイコールに結びつけるのは難しい。だからと言ってここまで笑えるものだろうか。未だ腹を抱えて転げまわるトビを横目にその先輩の芸術に対して理解したような、より謎が深まったような、何とも煮え切らないもやもやだけが凝り固まった岩のようにずっしりと残った。
トビとの逢瀬を重ねるごとに私の心に変化が訪れていた。初めは怪しい面白い人だとしか思っていなかったが、段々と彼の横に居心地の良さを覚えてきていたのだ。少し話すと楽しい、多く話せれば嬉しい、今は話せないと寂しい、トビを考えると胸が痛い。掻き毟りたくなるような鋭く継続する痛みに自分の知らないところで大病でも患ったのかと頭を抱える。だが、何度考えても思い当たる節はない。いよいよどうしたものかと悩む私に声をかけてきたのは私を人間として扱ってくれている店主だった。悩み事かい? と優しく尋ねてきた彼に最近ずっと胸が痛いと素直に症状を告げる。トビくんのことを考えると痛くなるんだろうと確信して言いきった彼に心を見透かされたのかとびっくりして心臓が悲鳴を上げた。
「なんでわかったんですか?」
「それは君のトビくんを見る目が恋するものだからだよ」
「恋?」
「そう。その人のことを想うと胸が張り裂けるように痛んだり、逆にとても幸せだったりね。思い当たるだろう?」
店主の言葉がストンと私の中に落ちる。――そうか私はトビのことを特別視していたのか。このずっと心を掻き乱す幸せのような地獄の吹き溜まりは私の恋の始まりであると同時に、劣情を生み出した瞬間でもあった。
気持ちに気付いてから全てをさらけ出すようになった。トビに会えば素直に嬉しいと喜びを全身で表現したし、帰る時には必ず次の約束を取りつけた。突然積極的になった私にトビは狼狽えているように見えたが、それもつかの間でボクも青子ちゃんと一緒にいる時間はとても楽しいですよと返してくれるようになった。トビの言葉一つで一喜一憂する単純な私を傍から見たら滑稽にしか映らないだろう。好きな人に左右される、まるで舞台上で喜劇を演じるピエロな私を愚かだと指差してバカにしたくもなるはずだ。それでも愛情に飢え続けていた私にとって、トビから与えられるほんの少しの好意がとてつもなく甘美で魅力的な麻薬であり、二度と手放したくないと覚えてしまうには仕方のないことだった。
トビにアプローチを続けた結果、私はようやっとトビの横にいることを許された。世間的に言う恋人同士にやっとなれた。これで私はトビからの愛情を一身に受けられる、また私の醜く淀んだ愛情を余すこと無く彼にぶつけることが出来る。昔、せがんで話してもらった、焦がれに焦がれた幸福を私も手に入れることが出来た。その満足感が心を支配すると私の飢え続けていた愛情が落ち着いていくのを感じた。
トビに一つだけ注意を受ける。自分は忍であるからどうして会えない時間が出てしまうと。頭では致し方ないと理解出来ても、どうしても心が納得出来なかった。私が好きならばどうにかして時間を作れないものだろうかと自分勝手な要求をしてトビを困らせる。こればかりはどうにもならないと首を振る彼に、ならばと条件を突きつけた。
「トビと一緒に暮らしたい。……ダメ?」
「……分かったよ、青子ちゃん」
悩み抜いてもらった返答に顔が緩んで、ボロボロと涙も溢れる。歓喜を上げて彼に抱きついてありがとうと口にすれば、青子ちゃんと一緒に居たいのはボクも同じですよといつもよりも恥ずかしそうな声が耳に入る。これで私とトビはずっと一緒に居られる、ずっとずっと幸せを二人で作っていける。間違いなく私は世界で一番幸せだ。
トビと一緒に暮らすと決めてすぐに行動を起こした。店主に経緯を説明すると、幸せになるんだよと涙ぐみながら告げられる。もちろんと二人で返し、私は長くお世話になった飲み屋に背を向けた。
トビに連れてこられたのは薄暗い洞窟だった。土臭く淀んだ空気が詰める空間に顔を歪めて不快感を露にすれば、全てを察したトビがごめんねと呟いた。特殊な任務を受け持っているから身を隠す必要があるんですと申し訳なく溢す彼に込み上げる文句を飲み込むしかない。その任務さえ終われば此処から離れられるの?と聞けばもちろんと返ってくる。
「それまでは、ちゃんと我慢するから」
「青子ちゃん、窮屈な思いをさせてごめんね」
頬を撫でるトビの手に自分の手を重ねる。彼の少し低めの体温を堪能しながら大丈夫、トビがいるからと返せばありがとうの言葉と熱い抱擁が私を包み込んだ。今がツラくともこの先には絶対の幸せがある。その未来が手に入るのであれば私はいくらでも我慢が出来るのだ。
生活に必要なものは全てトビが用意してくれるから、私は掃除や洗濯といった家事全般を受け持った。どんなに忙しくてもトビは絶対に帰ってきてくれる。寝ていて構わないと困ったように言う彼に私が起きていたいのだと気持ちを伝えれば、可愛いと甘い声で褒めてくれた。ただ、ムリはしないでくれと話す彼に心配性だと笑って返せば当たり前だと返ってくる。
「あぁ、青子ちゃん。一つ伝えたい事があるんです」
「何?」
「ボクの部屋は刃物があって危ないから入っちゃダメッスよ」
「うん、わかった」
約束だと子供のようにはしゃぐ彼の小指に私の小指を絡めて約束の歌を紡ぐ。私がトビの言いつけを破るはずがないというのになんて可愛らしい。約束だと再び口にしたトビに私は大きく頷き返した。
トビが任務だと言って飛び出していったのは早朝だった。私の一日はトビを見送ってから自分の食事を済ませ、彼から渡された洗濯物を洗うことから始まる。トビの真っ黒な忍装束が入ったカゴを抱えて外に行こうと早足で歩いていると何かの音が耳を掠めた。突如聞こえた謎の音に背筋が凍り、変なものだったらどうしようかと恐怖に煽られた心臓がドクリドクリと大きく鼓動する。動きを止めて音の鳴る方を探ると、一枚の扉から「うぅ」という音が鳴り響く。抱えたカゴを下ろし、抜き足で扉に近づきそっと耳を当てれば今度ははっきりと「うぅ」という地響きのような音が聞こえる。間違いない、此処に何か居る。そう確信し、ゆっくりとドアノブを回した
どうやら鍵はかかっておらず、すんなりと開く扉。軋む蝶番の音が響くと先程まで聞こえていた地響きはピタリと止んだ。
「誰かいるの?!」
真っ暗な空間に向かって声を張り上げると再び音がする。音のする方へ足を進めるとそこには自分と年の変わらない女の人が身動きを取れないように縄で結ばれていた。口元は猿ぐつわを噛まされている。先程まで鳴っていた地響きは彼女のうめき声だったのだと瞬時に理解した。涙を浮かべて此方を見つめる女性。何故、此処に女性が閉じ込められているのだろうか……疑問は尽きないが彼女をこのままにしとくわけにはいかない。口に結ばれた猿ぐつわを解くと、奥と掠れた声が彼女から漏れる。彼女に言われた通り、彼女の奥へと視線を向ければもう二人の女性が同じように転がっていた。
「どうして……」
「あーあ、ボクの部屋に入っちゃったんですね」
茫然としながら疑問を口にすれば、後ろから聞き馴染んだ愛しい声が聞こえた。勢いよく振り返れば朝見送ったはずのトビが腰に両手を当てて、何で入っちゃったのかなぁと呆れた声を発している。
「ねぇ、トビ。この人達は一体何なの?」
「知りたいんですか? 知って良いことないですけど?」
「トビの任務に関係する人なの?」
「イヤだなぁ、そうやって詮索するの……長生きしたいなら余計なことは口にしない方がいい」
いつもの飄々とした雰囲気が消え去ると口調が重苦しいものに変わる。いつものトビではない、私の知らないトビに背中に大きな震えが走る。こんな冷たい人なんて私知らないと小さく漏らせば何を言っているんだとオレンジ色の仮面を外して、目の前のトビがせせら笑った。
「お前が愛した男はオレだろう?」
「ちっ、違う、私はトビが好き……っ、優しいトビが好きなの……!」
「優しいオレか……オレも愛しいのはお前の顔だけだから同じだな」
「え……?」
私の顔が好きとは一体どういうこと? 私自身を愛してくれたのではないの? 突如告げられた思いもよらぬ台詞に言葉を失う。よろめく足で彼に縋りどういうことか説明して、と悲鳴を上げればそっと輪郭にいつもの冷たい手が添えられた。
「言葉通りだ。オレはお前の顔が好きだ……リンに似たその顔が」
「リン? 誰よ、その人」
知らない名前に疑問を浮かべればトビは奥にいる女性に向かって指を向けた。彼の指先に視線を向けると上から低音が降ってくる。
「あの女は脚だ、あっちは腕、そっちの女の胴体はリンと同じなんだ」
「トビ……?」
「そして、顔は青子」
やっと揃ったと喜びを露にするトビ。狂ったように笑う彼にかける言葉が見当たらない。私達四人はトビの言う『リン』という女性にそっくりらしい。だから一体なんだと言うのか。
「バレたなら仕方ない。今日決行する……少々早まるだけだからな」
「トビ、何を言ってっ」
「オレだけの『リン』になってくれ」
そう禍々しく笑ったトビの歪んだ表情を捉えた瞬間、私の意識は強烈な痛みと共に途絶えた。『リン』と呟いた声が耳にねっとりと貼りつく。――あぁ、私は愛されていると思っていたが、真実は彼の手のひらの上で踊らされているに過ぎなかった。私は『リン』を超えることが出来ない、かわいそうな女のままだった。
狭い空間を占める強い鉄の香りに包まれた一人の男がバラバラになったパーツを一つずつ傷がつかぬよう拾い上げる。胴体を軸に腕と脚と首を繋ぎ合わせてそっと抱きしめた。
「リン、会いたかった……お前の居ない世界にオレの居場所はない」
血に塗れた、まだ生暖かさの残る継ぎはぎの『人間』に唇を寄せ、涙を流す。やっと会えた、好きなんだと愛を溢す過去に縛られた滑稽な男。欲に溺れたこの男の無様を知るのは無残な四つの人だったモノだけだ。
復活を遂げた赤い『リン』と共に姿を消す。誰も居ない二人だけの空間で告げられなかった過去をやり直す為に……。